待望の映画が、公開を迎える。今や世界に名だたる監督となった濱口竜介の最新作『急に具合が悪くなる』だ。第79回カンヌ国際映画祭ではコンペティション部門に正式出品され、ヴィルジニー・エフィラと岡本多緒が最優秀女優賞を共同受賞した。原作は、哲学者・宮野真生子と人類学者・磯野真穂による、同名の往復書簡(晶文社刊)。2019年に刊行されるその直前まで、進行するがんと向き合った宮野、その生に伴走した磯野のやりとりを、濱口はフランスと日本をまたいだ映画として花開かせた。介護施設の変革に挑むディレクターであるマリー=ルーと、舞台演出家でありステージⅣのがん患者である真理。ふたりの偶然の出会いが紡ぐ、3時間16分にわたる物語である。 今回、カンヌから帰国して間もない濱口に、インタビューする機会を得た。いったい、何を聞くべきか。約30分という取材時間にして1万字をこえることになったインタビューで語ってもらったのは、今回の映画プロジェクトから見え隠れしていた、濱口の胸のうちにある現代社会への思いと、問題意識だった。自分が他の誰かに接するとき、相手を本当に大切な存在として尊重し、それを伝えることができれば、その誰かも、そして自分自身も、すこしだけ救われていく──。それだけのことがとても難しい、私たちが生きるこの世界に、果たして光明は差すのか? 問いの渦へと、共に巻き込まれてほしい。
TEXT BY FUMIHISA MIYATA
PHOTO BY KENSHU SHINTSUBO
──カンヌでの上映後、スタンディングオベーションに応じてられている様子が、日本でも報じられていました。
濱口 スタンディングオベーションというのは、なかなか慣れるということがないものでして……。ありがたく思いながら、こうしていただいている拍手は半ば習慣としておこなわれているものなのではないかと、半信半疑の念がどうしてもぬぐえないところがありました(笑)
ただ、主演を務めたヴィルジニー(・エフィラ)さんと(岡本)多緒さんが、会場の反響に非常に感銘を受けている、つまりは自分たちの仕事が受け入れられていることに感動している──何よりもそのことに、感動していた気がします。原作者のおひとりである磯野真穂さんも感極まっていらして、届くべきところに届いた、この映画をつくってよかったと、改めて思えた瞬間ではありました。
──その後、ヴィルジニーさんと多緒さんが最優秀女優賞を共同受賞されました。
濱口 おふたりの演技が評価されて、とても嬉しく思います。共同受賞というのは、この映画に最もふさわしいかたちではないかとも思います。映画『急に具合が悪くなる』は、原作である哲学者・宮野真生子さんと人類学者・磯野さんによる往復書簡、おふたりの女性のやりとりなしには生まれ得なかった。私自身、原作のおふたりのやりとりや関係に体ごと震えるような感動を覚えました。そのことをずっと原動力としてやってきた。
映画の主人公であるマリー=ルーと真理は、設定こそ大いに原作と異なるけれど、原作のおふたりの「分身」として作中を生きています。このふたりの女性を演じたヴィルジニーさんと多緒さんが共同受賞されたというのは、おふたりの素晴らしい演技に対して、ということはもちろんですが原作から映画に至るまでプロジェクト全体に対しての評価とも受け止めて、嬉しく思っています。

© 2026 Cinéfrance Studios – Arte France Cinéma – Office Shirous – Bitters End – Heimatfilm – Tarantula – Gapbusters – Same Player – Soudain JPN Partners
──松田広子プロデューサーが紹介した原作『急に具合が悪くなる』に、濱口さんが心動かされたことで企画化された映画ですね。一方で濱口さんは、かねてフランス発のケアの哲学・技法「ユマニチュード」に関心を寄せていたとのことで、映画ではヴィルジニーさん演じるマリー=ルーが介護施設でユマニチュードを実践しようと試行錯誤する様子が描かれる。さらにはユマニチュードと異なる文脈ですが、松島健『プシコ ナウティカ──イタリア精神医療の人類学』(世界思想社、2014年)を参考にしたとされる描写も組み込まれています。これらは日本の映画界に対する濱口さんの視座にもつながっているようですが、おおもとの問題意識は、どのあたりにあったのでしょうか。
濱口 何なのでしょうね……。生きづらい。とだけ口にすればあまりにも単純ですが、どこまでいっても、とかくこの世は生きづらい、と私自身が感じたことが、おおもとのきっかけになっていると思います。
──生きづらい、ですか。具体的に、どういう生きづらさを覚えられたのでしょうか。ユマニチュードは、医療・介護の現場でケアを受ける人が「対象」としてないがしろにされがちである状況に対して、ひとりの「人間」としてきちんと向き合おうとする実践的な哲学・技法とのことですが……
濱口 私がユマニチュードに大いに興味を抱いたのは、日本の商業映画の現場を体験した後だったと記憶しています。その前作に当たる長編『ハッピーアワー』は、言ってみればインディペンデントに近い、特殊な映画制作でした。『ハッピーアワー』のときは、出演者の皆さんは職業俳優ではなく、基本的に平日はお仕事があったので、毎週末のみの撮影で、平日はスタッフも休養や準備に当てることができました。ただ、そんな撮り方だったので、撮影期間は8カ月ぐらいかかってもいます。日銭は皆、別のところで稼いで、寄り集まって撮っていた。
その後にはじめて監督として、商業映画の現場に飛び込んでみて、自分が上手く適応できていないと感じました。自分がそれまでやってきた制作と引き比べて、シンプルに「時間が足らない」。そして、そのシワ寄せはどこかにいっている。私が感じたのは、それは私にとっては現場の中心とも言える俳優にいっている、ということでした。商業的な映画制作の習慣──それは必ずしも日本に限ったことではないとも思いますけれども──のなかに、あるいはカメラを用いて演技を撮るという行為のなかに、そもそも俳優に対する無関心のようなものが存在している。
──俳優に対する無関心、ですか。
濱口 一点補足をすると、どの現場でも結果的によい仕事ができたと思っています。ただ、インディペンデント的に撮るときとはまったく違うプレッシャーを感じていました。これは誰が、特に悪いということではありません。日本の商業映画一般の、企画の成り立ちそのものに、俳優の仕事への関心が含まれていない。特に感情的な仕事に対して無関心なのだ、という印象を私は持っています。そのために多くの時間が必要となるとは考えられていない。たとえば非常に大変なアクションシーンがある場合などは、多くの現場では皆で「安全性に気をつけつつ、きちんと準備しましょう」という合意を形成しやすい。時間もそれなりにかけられるでしょう。しかし……。そもそもの話としてお尋ねしますが、俳優が自分の感情をつかって仕事をするということ、感情を表現するというその仕事の内実について、想像することなんてできますか?

© 2026 Cinéfrance Studios – Arte France Cinéma – Office Shirous – Bitters End – Heimatfilm – Tarantula – Gapbusters – Same Player – Soudain JPN Partners
──映画を好きで見ていても、俳優の方々のなかでどんなことが起こっているのか、実はずっと理解できないままでいます。
濱口 私も同じです。だから、それはどこか魔法のような技術があるんだろう、と考えて「俳優個人の仕事」として外部化して終わってしまう。ただ、もし自分がやると考えれば、それが想像を絶するほど大変な仕事であることは明らかに思えます。約四半世紀、映画を撮ってきて、突き詰めれば「カメラの前で演じる」という仕事自体に、ほとんど無理にも近いものが含まれている、と私は考えるようになりました。
それでも、その仕事の準備は、たいていの場合は俳優に「家でやってきて」という感じで割り振られる。俳優は独りで台詞を覚え、役を自分なりにあれこれ想像した状態で現場にやってくる。現場でカメラの前に立ったら、「ここからここまでの動線で、この台詞」と言われて、メカニックに物事が進んでいく。単にカメラの準備ができているから、という理由で、ほとんどの撮影は始まっていく。俳優が準備できているかどうかは、「泣き芝居」みたいなわかりやすく負荷のある場面を除いて、問われることはほぼありません。俳優たちは互いにどんな演技をするのかも、その場の手探りであることがほとんどです。違和感を覚えて、それを止める俳優は無能やワガママとも見做されるでしょう。俳優が感情的な準備に要する時間や、アンサンブルをつくっていく時間が、前提とされていない。そのため予算は低く見積もられ、スケジュールは切り詰められていく。そして、まるで最終的な商品の納期に間に合わせるための部品を発注するかのように、俳優に演技が求められている状況がある。
──俳優の側もその発注に応じるように必死に納品せざるをえない、と。濱口さんが20世紀の巨匠ジャン・ルノワールの手法を参考に『ハッピーアワー』(2015年)から本格的に導入された「本読み」は、じっくりと時間を設けてニュートラルな声で台詞を読み、繰り返すというものですが、そうした時間のかけ方はほとんどの商業映画では不可能な体制が敷かれてきたのだろうと想像します。
濱口 「なんでこうなってしまうのかな」と考えていたとき、ユマニチュードのことを知りました。ユマニチュードはケアの哲学・技法であり、私が従事している映画の仕事と直接の関係はなく、プライベートにおいて介護が喫緊の問題として迫っているわけでもありません。それでもユマニチュードについて書かれたものを読んでいると、そこで取り組まれている介護のフィールドにおける問題というのが、今お伝えしてきた映画の話と非常に似ている、という印象を抱きました。
当時、コミュニケーションがとれないと見做されていたアルツハイマーの認知症患者にどう接するかを、ユマニチュード創始者たちは考えました。多くの介護施設で、経済的に回るように運営・経営するため、たとえ入居者が嫌がっていたとしても、半ば強制的・暴力的に介護をするしかないという状況があった。いわば認知症者を精神や知性を持った存在ではなく、モノのように扱う態度がここにはあります。介護士たちもそのような状況に対して、「だってしょうがない」と自分を納得させなければいけない状況もまたあった。そうした構造に対して、フィジカルな構造の面からアプローチしていったのが、1979年からユマニチュードを開発してきたフランスの体育学者、イヴ・ジネストさんとロゼット・マレスコッティさんです。もともとは認知症患者や高齢者をどうやって運搬するか、その知恵を授けてほしいということから介護のフィールドに呼ばれた人たちでした。
──介護する側の腰痛予防プログラムを指導することが当初の目的だったようですね。
濱口 そうして介護の業界に深くかかわるようになるにつれ彼らは、モノのように扱われる入居者たちはもちろん、むしろ介護する側の心が深く傷ついていくことに気がついていった。いったいどうやったらこの状況から抜けられるのか、試行錯誤をひたすら繰り返します。彼らがたどり着いたのは、認知症患者は精神や知性を失ってしまったのではなく、単に認知能力が非常に弱まってしまっているのであり、弱った認知能力を補完するような形でコミュニケーションをとることで、その精神にアクセスできる可能性がある、ということ。そして、その理解と、それを基にした技法が現場で必要とされている、ということです。
その技法の基本は、「4つの柱」と呼ばれます。「見る」「話す」「触れる」「立つ」の4要素があるのですが、「見る」「話す」「触れる」は文字通り、五感を活性化するコミュニケーションです。近い距離で目を合わせ、大きな声で語りかける。単に大きな声を出すと暴力的になってしまうので、歌うように、微笑んで、映画内でも語っているように、「あなたに会えて嬉しい」といった自分から相手への好意を伝えながらコミュニケーションをとっていく。「触れる」にしても、手は敏感な部位なのでいきなり接触すると驚いてしまうため、他の部位から触れていく。

© 2026 Cinéfrance Studios – Arte France Cinéma – Office Shirous – Bitters End – Heimatfilm – Tarantula – Gapbusters – Same Player – Soudain JPN Partners
──映画のなかでも、マリー=ルーが実践し、他の介護士にも広げようとしていましたね。
濱口 こうした根本的なコミュニケーションをとっていくと、段々と抵抗行動が減って、介護がしやすくなるということがまず起こる。ただ、私が感銘を受けたユマニチュードの核心的な考えは、「介護をする人たちが他者をより大切に扱うことによって、自分自身を傷つけないで済む」ということでした。他者をモノのように扱うとき、人は心のどこかで、本当に求められるべき行いはこういうものではないのではないかと感じている。それでもなお構造に呑み込まれながら他者をないがしろにするとき、その人自身の尊厳もまた大いに傷ついている、という認識がユマニチュードの哲学のなかにはあります。この見立ては非常に正しく思えました。それは映画という産業で起きていることも同じことではないかと思えたし、介護や映画という業界の枠組みをこえて、今の社会そのもので起きていることであると感じました。
──先ほどおっしゃられた「生きづらさ」は、ここでつながってくるわけですね。
濱口 そうですね。ユマニチュードは優しさを「伝える技術」として定義づけられています。単なる精神論ではなく、技術である点が重要と感じました。非常に原理的に、フィジカルな面を突き詰めていくところが、私にとっても大いに参考になります。単に自分が優しい気持ちで他者と接するのでは、十分ではない。伝わらなければ、その応答もなく、そのことでそもそも「優しさ」もまた摩耗していってしまいます。技術を使ってちゃんとコミュニケーションし、相互作用するようにしないと、持続的なものにならない。そのためにはフィジカルな条件をきちんと見つめて、ひとつの技術として確立する必要がある。日本で行われた看護師の方たちへのユマニチュード研修に私も参加をしてみて、驚いたのは、この介護方式で反応を返した患者に対して、看護師の方たちが「反応してくれたね、ありがとう」とその反応に驚きながら、感謝の言葉をかけていたこと、それが本当に嬉しそうなことでした。言ってみれば、ユマニチュードがしているのは、この互いの応答能力の活性化、ということではないかという気がします。
──映画では、真理が演出し、長塚京三さん演じる俳優・吾朗による舞台作品「Da vicino nessuno è normale. 近づいてみれば、誰もまともな者はいない」が登場します。この映画内演劇で表象されるのが、『プシコ ナウティカ——イタリア精神医療の人類学』でも論じられている、イタリア精神医療改革における中心的人物だったフランコ・バザーリア。舞台のタイトルは、改革後のイタリア精神医療におけるモットーとされる言葉だそうですね。
濱口 医療人類学者の松嶋健さんによる『プシコ ナウティカ』を中心にした主題は、ユマニチュードとはまた別軸から抱いていた興味から、映画に合流しています。磯野さんや、宮野さんのご遺族にインタビューをしたり、リサーチをしたりしながら、原作の宮野さんと磯野さんのやりとりをどう映画化するか考えていく作業のうちに、その本流に私の関心事が寄り集まってきた、という感じです。
『プシコ ナウティカ』の存在を知ったのは、立命館大学で映像人類学を専門とされていたふくだぺろさんと、同じく立命館でバレリーナとして身体の人類学的研究をされていた木田真理子さんに、「手について」というワークショップに招いていただいたことがきっかけでした。人類学者の方々もたくさん参加されていて、西浦(土田)まどかさんが、この『プシコ ナウティカ』という本に言及されたと記憶しています。
たしかその時の話題は、20世紀後半に活躍したポーランド出身の演出家イェジイ・グロトフスキによる実験劇場のプロジェクト〈演劇実験室〉が、2005年以降、イタリアのある精神保健センターの利用者によって構成される劇団のプロジェクトとして引き継がれているということでした。演じることについての自分の関心も刺激されて、読んでみようと本を手にとったところ、イタリアにおける精神医療の歴史、そして精神病院の廃絶を主導したフランコ・バザーリアのことにかなりのページが割かれていました。彼はいわば、どうやって「精神病者を人間として扱うか」ということに心を砕いていた人であり、ユマニチュードと重なる部分もあって、非常に印象に残りました。

濱口竜介|Ryusuke Hamaguchi
1978年、神奈川県生まれ。映画監督。東京大学文学部を卒業後、映画の助監督やテレビ番組のADを経て、東京藝術大学大学院映像研究科に入学。08年、修了制作『PASSION』がサン・セバスチャン国際映画祭や東京フィルメックスに出品され高い評価を得る。15年、映像ワークショップに参加した演技未経験の女性4人を主演に起用した5時間17分の長編『ハッピーアワー』が、ロカルノ、ナント、シンガポールほか国際映画祭で主要賞を受賞。『寝ても覚めても』(18)がカンヌ国際映画祭コンペティション部門に選出。『偶然と想像』がベルリン国際映画祭銀熊賞(審査員グランプリ)を受賞。商業長編映画2作目である『ドライブ・マイ・カー』(21)がカンヌ国際映画祭で脚本賞をはじめ4冠、米アカデミー賞®で日本映画初の作品賞含む4部門にノミネートされ、国際長編映画賞を受賞。続く『悪は存在しない』(24)がヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞(審査員グランプリ)を受賞、この受賞により米アカデミー賞®と世界三大映画祭すべてで主要賞受賞を果たした黒澤明以来2人目の日本人監督となった。新作を発表するごとに、その動向が注目される、日本を代表する映画監督である。なお、第79回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に選出された『急に具合が悪くなる』は自身初の海外撮影作品となる。
──なるほど。より具体的に、どのあたりが濱口さんの琴線に触れたのでしょうか。
濱口 この本で特に感銘を受けたのは、松嶋さんによる「〈人間〉に対するアニミズム」という議論ですね。アニミズムといえば部族社会において、モノに人間の精神・魂を投影することです。日本でも八百万の神々とか言いますけど、必ずしもあらゆる部族がすべてのモノに魂を感じるわけではない。たくさんある石のなかから、自分と関わりのある石は何かが違うと感じて、特別な関係性を結ぶ。簡単に言えば愛着を持つわけです。ここで翻って人間のことを考えたとき、そもそもこの社会は人間を、魂をもった存在として扱っているかどうかが、精神医療の問題として出てくるわけですね。
これを読んだとき、ああそうか、と膝を打ったんです。この社会は、われわれ人間を知性、精神、魂を持ったような存在として扱うことを許していない、という自分がそれまでもモヤモヤと抱いていた感覚に、明確に言葉を与えてもらったような気がしたんです。このようにして原作の『急に具合が悪くなる』のもとに、ユマニチュード、フランコ・バザーリアといったさまざまな主題が合流していき、結果的に映画『急に具合が悪くなる』での演劇の題材となりました。
──「人間をモノ化しようとする趨勢に抗する『〈人間〉に対するアニミズム』」だと、『プシコ ナウティカ』には書かれていますね。それらの問題意識と、原作の往復書簡『急に具合が悪くなる』を映画化するプロセスが結びついていった、と。
濱口 本当に、一歩一歩進んだ、という感じです。すこし時間をさかのぼりますが、原作をどう映画化していいのかずっとわからなかった状態の2022年の秋に、フランスのプロダクションであるシネフランス・スタジオから、日仏合作のオファーをいただきました。ここで「ピンとくる」ものがありました。
前提として、原作の核にあるのは、ある種のエモーションだと思うんです。宮野さんの「死」の気配に直面したときの、宮野さんと磯野さんのあいだに生じる感情ですね。しかしこれは、日本語で言う「センチメンタル」という言葉とは無縁の、宮野さんと磯野さんの知性によって切り詰められた、とても純度の高いエモーションです。原作ではおふたりは学者として、知的かつ抽象的なやりとりを交わします。でも、最終的に学者は「こういうことを言わない」というような言葉や、一般的に「友人同士がする会話」も飛び越えた言葉を選んでいく。磯野さんからも言われたことですが、ここにたどり着くには、二人の学問的なバックグラウンドが不可欠で、かなり抽象的な会話が必要になる。そうした会話を全編にわたって展開する映画が、日本の商業映画として成立するかというと、しないだろうと思っていました。
──映画化の仕方がわからなかったというのは、そうした背景ゆえなのですね。そこから日仏合作の枠組みに、『急に具合が悪くなる』の映画化が結びついていったと。

© 2026 Cinéfrance Studios – Arte France Cinéma – Office Shirous – Bitters End – Heimatfilm – Tarantula – Gapbusters – Same Player – Soudain JPN Partners
濱口 念頭にあったのは、エリック・ロメール監督の『モード家の一夜』(1969年)という映画です。哲学的な対話をずっとしているんだけれども、その実はただの恋のさや当てみたいな作品で、公開当時、フランスでは大ヒットしました。そうした“言葉の映画”の系譜は、ジャン・ユスターシュといった監督たちを含めて存在します。一般的にも、フランス映画と言えばおしゃべり、会話劇というイメージがあると思います。フランスを主な舞台とすることで、これは企画として成り立つのではないか、と考えました。
要するに、この映画には観客がつくとプロデューサーが見込めて、予算をある程度の規模で集めることができ、そのことによってキャストやスタッフに十分なサラリーを支払えて、かつ制作に必要な時間も確保するような状況をつくることができるであろう、という見立てができた。ここで、シネフランスと日本側の制作会社オフィス・シロウズが結びついて日仏の国際共同製作体制ができました。最終的にはフランス=日本=ドイツ=ベルギー合作となったわけですが、まず主人公ふたりをフランス人と日本人にしようと考えて、両国をつなぐ要素として、私がもともと興味を持っていたユマニチュードが導入された、ということです。長くなりましたが(笑)
それで、日本でここ10年以上ユマニチュードの普及に取り組んでいらした医師の本田美和子さんをはじめ、国内の方々には2023年から取材をし、2024年3月から4月にかけてフランスに滞在して脚本を執筆する際には、創始者のジネストさん、そしてジネストさんに紹介いただいた介護施設に取材にいきました。映画で登場する、マリー=ルーが働く「自由の庭」のモデルとなる介護施設にも、その過程で出会いました。女性の施設長の方がユマニチュード導入の道半ばで苦労されている状況を目にして、これは映画になり得る状況だと感じました。
──映画では、ユマニチュードの導入を進めようとするディレクターのマリー=ルーと、現場の介護士や看護師たちがぶつかる場面が度々描かれます。
濱口 ドラマの面白さの根本は「葛藤」とよく言われます。この施設の困難な状況において、施設長やスタッフたちは苦しそうに見えました。しかし、人間の行動が真に磨かれ、活気づいていくのは実は、ほとんど不可能にも思える困難と出会ったときです。それは当然、映画自体も活気づける。では映画の前半がまさにこの葛藤を基に展開するとして、その葛藤はいかに昇華されるのかを考えないといけない。つまり、なぜ、この施設はこんなに大変なのか、という問いをそれなりに現実に即して考えないといけない。ユマニチュードが非常に優れた方法だということにはほとんど疑問は持ってはいませんでしたが、そうだとしたら、なぜその導入がうまくいかないのか? 実際に現場に取材をすると、まずそれは資金の問題だと。そして、介護業界全体に蔓延した人手不足が見えてくる。それを突き詰めて考えていくと、私たちが生きる社会の構造、システムの話に帰結します。
──介護や医療をめぐるシステムが経済性や合理性にもとづくなか、ユマニチュードは現実的に不可能な技術だと現場から反駁されますね。詳細は伏せますが、マリー=ルーと真理は、そうした私たちが生きる世界の構造について、熱く議論を交わします。
濱口 哲学者の千葉雅也さんがドゥルージアン・オーティズム・スタディーズ(DAS)という彼が参加する勉強会で主催したシンポジウムで、「資本主義社会のなかで、人は個人の個人性というものを奪われ、そのトラウマを負っている」と発言したことがあります。それを最初に聞いたときは、「ずいぶん大きな話だな」というぐらいのことしか感じられていなかったのですが、この映画をつくる準備をするうちに、それはまさに正確な現状把握だと思えてきました。
ユマニチュードやバザーリアの活動、あるいはがんを患った宮野さんが、自分の個別性を奪われて、単にがん患者とその周囲という「役割」に押し込められそうになっていくことへの抗いは、すべて個人の個人性が奪われていく社会構造に対抗するものとして、だんだんと見えてきたように思います。
──なるほど。改めて振り返れば、いま濱口さんがお話しくださったことをすべて受け止めることができる、人が人として扱われる豊かな言葉のやりとりが、原作の往復書簡『急に具合が悪くなる』にはあったということですよね。

© 2026 Cinéfrance Studios – Arte France Cinéma – Office Shirous – Bitters End – Heimatfilm – Tarantula – Gapbusters – Same Player – Soudain JPN Partners
濱口 往復書簡の中盤以降、宮野さんの状態が急激に悪化することによって、単に学者としてやりとりするだけでは済まなくなってくる。その人の生が失われるということが、どんどんと確実に近づいてくるなかで、言葉を真に投げかけ、受けとめるためには、全人格的なやりとりが必要になってくるわけですね。そのためには学者としての立場からもはみ出して、“人間と人間”として向かい合わなくてはいけないという状況になっていった。
ふたりが最終的にその言葉を選び取るうえで、どれだけの勇気が必要だったろう、と脚本を書きながら思いました。そして、ふたりが互いに勇気を出し合ったからこそ、われわれはこのやりとりを読むことができる。宮野さんと磯野さんにとって、学者というアイデンティティも、とても大事なわけです。それぞれに自分の人生を賭けて取り組んできた学問の成果、自分の得た言葉を対話のなかで絡み合わせていく。単に自分の学説や見識を開陳しているのではなく、ふたりでつくっていく言葉というものがここにはあるように思えます。
──ひとりでは決して生まれなかった言葉ですね。
濱口 「私」が「私」という存在になっていくことは、実はひとりでできることではありません。他者との「出会い」がそこでは必要なんです。その他者は、「私」の予測を超えた何かであって、それはすべてが好ましいものとは限らない。病や死もそういうところがある。それが自分の身に生じた理由は完全には明らかにできず、突き詰めれば偶然でしかない。それでも自分の人生にとってその偶然を受け入れるかどうか、そこから自分の生をつくっていくか、という問いが、宮野さんと磯野さんのあいだで展開されていった。このふたりの姿勢——テキストではなく、それを生み出した覚悟とか勇気とか、お互いへの思いそのものを、映画に置き換えようとしていました。
──本作を観た多くの人の記憶に残るであろう、出会った直後のマリー=ルーと真理がゆっくりと街を歩いていく、長いシークエンスがありますね。画面の外で鳴り響く街のざわめきが特徴的で、まるでふたりを、世界の広がりのなかに解き放っているかのように感じました。あのシーンは、同時録音だったのですか。
濱口 同時録音がベースになっている以上、聞こえている音はまず基本的には現場で鳴っていた音です。ここではノイズも相当にありました。フランス-ベルギーの音のポストプロダクションは、かなり再構築の度合いが高いんです。おそらくそれが世界の標準的なサウンドデザインなんでしょうが、かなり、新たにサウンド・エディターのポール・エイマンスさんが録音してきた音、新たに集めた音が付けられている。そして、それをミキサーのトマ・ゴデールさんが全体のバランスを整えています。このおふたりの優秀さには驚きました。近年、音声にかんする技術の発達はすさまじいので、ノイズのなかでも台詞だけを抽出して聞かせられるようになってきています。ただ、自分が聞いていて、このセーヌ川沿いを歩く場面で台詞だけがよく聞こえるのは、現場にいた自分の体感からは非常に人工的な印象も受けた。なので、その感覚に準じて、トマさんにかなりノイズも意図的に残してもらっている。そういうバランスになっている場面ですね。
──なるほど。劇中では、人々が互いに足のつぼを押し合うような美しい場面があり、その関係性のなかにマリー=ルーと真理の身体も連なっていきますね。人々の連なりのなかに主人公ふたりを置く、そのイメージが印象的でした。
濱口 念頭に置いていたのは、原作で10便にわたる往復書簡、その終盤である9便で宮野さんが書いていることでした。ご自身がこの手紙を書く直前に参加された、ジェンダーをめぐる問題を語り合うトークイベントのことが書かれているのですが、そこには本当に多種多様な人々が集まって、宮野さんが長らく取り組んでこられたことが何か結実していくような出来事が起きていたことが伝わってきます。参加者の感想が「意味がわかりません」「カオス」「わけがわかりません」「ハチャメチャ」とあり、宮野さんは「ともかく何か、新しい何かが生まれたようです」と表現しています。そのことが印象に残っていました。

© 2026 Cinéfrance Studios – Arte France Cinéma – Office Shirous – Bitters End – Heimatfilm – Tarantula – Gapbusters – Same Player – Soudain JPN Partners
往復書簡のなかで宮野さんと磯野さんは、ふたりのみで言葉をやりとりしていますが、当然にそれぞれ普段の生活は、他のいろんな人とのネットワークのなかで生きている。映画で主人公たちの生活を描くにも当然、周囲の人間関係が必要になってきます。そうした人間関係は彼女たちを支えるものであり、抱えている問題そのものでもある。映画では真理というキャラクターが人生を通じて取り組んできたことが、原作で宮野さんが体験されたように、ある広がりをもって感じられるようになればいいな、と思っていました。そのために、ダンサー・振付家の砂連尾理さんにもパリまで来てもらい、「足のツボを押し合う」場面を一緒につくってもらいました。
磯野さんは原作のなかで人類学者ティム・インゴルドの言葉を引きながら、人は一歩一歩を踏み出し、踏み跡を刻むことで、ラインを描くと書いておられます。特に心に残ったのは次の部分です。「関係性を作り上げるとは、握手をして立ち止まることでも、受け止めることでもなく、運動の中でラインを描き続けながら、共に世界を通り抜け、その動きの中で、互いにとって心地よい言葉や身振りを見つけ出し、それを踏み跡として、次の一歩を踏み出してゆく。そういう知覚の伴った運動なのではないでしょうか。」狙ったわけではないけれど、この場面はまさにそのことの視覚化のように撮影しながら思えました。私も原作からのラインを引き継いで映画をつくっていると感じていましたし、「ラインを引き継ぐ人たち」を描きたいと思いました。
──そうしたお話が、このインタビュー冒頭からの生きづらさをめぐるお話ともまたつながっているように思います。カンヌから帰国した際の記者会見では、日本の映画製作の予算規模を、おそらくは大作を中心にあえてスケールダウンさせることでの、労働環境の適正化を提言していらっしゃいました。ヒルズライフでも以前、濱口さんの『悪は存在しない』(2023年)という作品を支えたクリエイティブ・ファームにして有限責任事業組合「Incline」のメンバーの方々に取材させていただいたことがあります。何が濱口さんを、いま当然とされている構造やシステムではない、別の可能性の模索へと向かわせるのでしょうか。
濱口 スケールダウンと言うとネガティヴに響くでしょうが、単に、本当に各人が「身の丈から始める」と考えたらよいのではないかと思います。今のままの予算感や時間感覚を維持するのでは、若い人が日本の映像産業に残りたいと考えることもないでしょうし、それは早晩、産業が成り立たなくなることを意味します。ただ、単に産業のために言っているのではない。
結局、何が「生きづらい」かといえば、私たちはだいたいの時間、仕事をしていたり、単純にプライベートとはいえないような人間関係のなかで生きていたりするわけですよね。いや、プライベートでも同様なのかもしれませんが、そうした関係性のなかでは、役割が固定されています。映画監督は映画監督として、インタビュアーはインタビュアーとして、役割の間の関係に固定されていく。そのなかで──今こうしているあいだも取材時間のリミットが近づいていますが(笑)、どれだけのインタビューの取れ高が確保できるかといった、効率性が求められていく。
社会全体が効率を、優先順位の上位に置くように迫ってくる。その結果として、われわれは人を役割でしか扱わなくなる。「あなたはこの役割を果たしてくださいね、私はこれをやりますんで」と、ユニットやネットワークの一部としてしか人を扱わなくなり、他の部分は見ないということがある。それは自分自身に対してさえも同様です。むしろ、私たちがモノのように扱ってしまっているのが、何より自分自身である可能性があります。これらのことは実は、依存症にとてもよく似ていると最近思います。
──依存症ですか?
濱口 われわれは今「効率」や「生産性」の依存症状態になっているように思えます。ドラッグやアルコールを「濫用する」ことを英語では“アビューズ abuse”と表現しますが、これは「ab-use」、つまり本来のありようから離れて、誤って使用するということです。依存物質を過剰摂取することを指しますが、別の文脈では「虐待する」ことを意味する動詞です。モノを誤って使用することと、人を本来あるべきではないかたちで遇してしまうことを、共にabuseと言うわけです。そして私たちは、どこか人間をabuseするように迫られる社会のなかで暮らしている。役割をこえて、より全人格的に人と人が接しようとしても、非常に難しい。そのための時間は奪われていく。システム全体が既にそのように構築されていて、まず役割を担うようにわれわれに迫ります。
ここで提案したいのは、依存症の先達が取り組んできたことを参考にすることです。彼らが試行錯誤の末に育ててきた「知恵」に学ぶことができます。重度の依存症者は、ドラッグやアルコールの依存物質の過剰摂取によって、脳機能の一部を毀損されて、いつ何時スリップしてもおかしくない状態になります。それに向き合いながら、一日、一日を「今日はドラッグをやらなかった」「今日はアルコールに手を出さなかった」と重ねていく。そのことが新たな一日の目標になる。
われわれにできるのも、同じようなことだと思います。脳機能こそ破壊されていないのかも知れないけれど、われわれが他人と関係性を築く力が、社会構造そのものによって毀損されている。われわれはこの社会構造に、日々、人間をアビューズ abuseするように迫られている。人間を人間として扱わないこと。他者をモノのように扱うことを通じて、高い生産性を達成しろと常に迫られている。だとすれば、その状態を脱するわずかな可能性は「今日は人をモノのように扱わなかった」「今日はあの人に、人間として接することができたような気がする」という日を、一日ずつ重ねていくことのなかにしかない。
──その積み重ねしかないのだ、と。
濱口 依存症の先人に学ぶべきもう一点は、もしできなくても、必要以上に自分を責めないということです。「今日は望むようにできなかった。けれど、しょうがない」と。あまりにもシステムが強固なので、本来私たち個人に太刀打ちができる範囲を超えているからです。それでまた「次の一日」を、一から始める……。まず、システムに毀損されている自分自身をいたわる必要があるでしょう。依存症によってアビューズ abuseされているのは何より、すべての起点である自分の肉体でしょうから。誰もが、自分自身の肉体と、精神の回復に専念して然るべきと私は思っています。あくまで余裕ができたら、それを他者に向けるので構わない。ただ、ユマニチュードが示すように、他者に関心を示すことが却って、自分を活気づけることもある、とも言っておきたい。関心というのは相互的なものだからです。
私が「人をモノのように扱わなかった」「人間として扱った」一日は必ず、誰かの余裕になる。そうやって余力を分け合うものになるはずです。あまりに小さなことですが、よい点は、それが「今ここ」から始められるということです。そうした一日一日を重ねることは、十分にシステムに対する抗いなのではないかと、最近思っています。どれだけ小さくても、それすら難しいのだし、そこから始めることが妥当ではないか、と思っています。最も些細な事柄が、最も重要であり得る。
最後に、『プシコ ナウティカ』を最近読み直した際に、改めて感銘を受けた言葉を引用しておきます。松嶋さんがインタビューした、イタリアの精神病院廃絶の過程に立ち会った看護師の言葉です。
「根底にあったのは、経験にもとづいて進めていくというやり方とメンタリティで、かなり逆説的なことだけどミニマリズムでやっていたんだ。私たちができるごく小さなことをやっていたんだよ。でも、気がついていなかったのだけれど、あるいは知っていたのかもしれない、混乱した仕方でね……それは巨大なことだったんだ! われわれは、施設をひっくり返していたんだ、覆していたんだ、でも重要なのは、そう欲することなく、そう計画することなく、覆すことだったんだ。」
濱口竜介監督最新作『急に具合が悪くなる』6月19日(金)よりTOHOシネマズ 六本木ヒルズほか全国ロードショー

監督:濱口竜介
出演:ヴィルジニー・エフィラ 岡本多緒 長塚京三 黒崎煌代
原作:宮野真生子・磯野真穂著『急に具合が悪くなる』(晶文社)
製作:Cinéfrance Studios, オフィス・シロウズ, ビターズ・エンド, Heimatfilm, Tarantula
配給:ビターズ・エンド
提供:Soudain JPN Partners フランス=日本=ドイツ=ベルギー合作
公式HP
宮田文久|Fumihisa Miyata
1985年、神奈川県生まれ。フリーランス編集者。博士(総合社会文化)。2016年に株式会社文藝春秋から独立。津野海太郎著『編集の提案』『編集の明暗』(黒鳥社)の編者を務める。各媒体でポン・ジュノ、タル・ベーラらにインタビューするほか、対談の構成や書籍の編集協力などを担う。









SHARE