CITY OF AMORPHOUS 8

ブルータスと読売新聞(相互関係なし)——連載:菊地成孔「次の東京オリンピックが来てしまう前に」⑧

「2020年」に向けて、大なり小なり動きを見せ始めた東京。その変化の後景にある「都市の記憶」を、音楽家/文筆家の菊地成孔が、極私的な視点で紐解く連載シリーズ第8回!

TEXT BY NARUYOSHI KIKUCHI
ILLUSTRATION BY YUTARO OGAWA

第8回:ブルータスと読売新聞(相互関係なし)

今から2つのメディアを褒める。これはもう絶対的に手放しでムチャクチャ褒めているので、両メディアには大いに気を良くしてもらいたい。前者なんか、報奨金をもらいたいぐらいだ。
 
だが、嗚呼、なんということだろうか、人々の心を被害妄想という恐ろしい症状に陥れるべく設計され、しかも、被害妄想の症状が持つ魅力を阿片のように民にばら撒き、あまつさえ依存症にさせてしまう人類死滅のための最終ドラッグ、SNSによって(アドラーによれば、人の心は放っておけばより強い刺激を求める、刺激のない世界は死をイメージさせるからだが、まあそういったメカニズムによって、ネットで嫌な目にあうと、人はネットをやめられなくなる)、以下の文章は、称賛に見せかけた皮肉もしくは嘲笑だと解釈されてしまうだろう。そのうち、ネットに「あいつ最高」と書かれるだけで、人は取り返しがつかないほど激しく傷つくようになるのだ。
 
だが信用してほしい、僕はSNSとゲームと漫画とアニメは嗜まない。全くクールではないジャパニーズなのだ。

(1)ブルータス

ブルータスという雑誌の最新号の映画特集は、企画がものすごく素晴らしい。もともとブルータスは、シンプルな特集素材を、卓越したアイデアと、品位さえ感じさせるエッジなセンスによって、日本の雑誌文化の水準を高く保つ牽引力を誇っている。
 
今回は単に「映画」という、雑誌の特集対象としては、あまりに手垢にまみれすぎて、却って手がきれいになってしまったぐらいの物件であるが、ここでは「いまさら観てないとは言えない映画」という素晴らしいアイデアを投入し、著名人に、「観ていない名作」を挙げさせ、それについてのコラムを書かせている。こんな面白いものがあるか。
 
中でも、かの渋谷直角に、黒澤明の作品を実は一作も観たことがないことをカムアウトさせた上で、『羅生門』を観せ、感動させる、というプロセスを、渋谷自身に漫画の形で描かせる部分は値千金で、金の鉱脈や宝の山をあえて素通りしてきた、という、情報過多時代の現代人が誰でも通奏的に持っているであろう、奇妙な罪悪感のようなものを見事に描いている。「ごめんよ明~!!」と、感動で泣きながら黒澤の似顔絵に抱きつく渋谷、のコマに心を動かされない現代人はいないだろう。
 
また、特集の脇には「観たことがない映画のタイトルだけ見せて、どんな映画か予想させる」という、これまたキラリと光る企画が添えられており、ここ数年で、雑誌が特集として映画を扱ったものの中で屈指のクオリティを示している。
 
と、唐突だが、以下は今から8年前、2009年に書かれた文章を引用する。『ユングのサウンドトラック』という映画批評書の、まえがきの一部を抜粋である。この書物は、映画音楽に特化した映画批評書であり、著者は、音楽家であり著述家の菊地成孔氏、なんと驚くべきことに、僕自身なのであった。
 
——(前略)とはいえ、いささか唐突ですが、21世紀の映画論というものがあるとしたら、「観たか観てないか」というよりも(ちょっと精神分析めきますが)「間違いなく観たけれども全く覚えてない」とか、「観ていないのに観た気になっている」と言った領域、つまり、もし覚えていないのなら、なぜ、どこを覚えていないとか、観てもいないのに観たことになっている映画、というものがあるとするならば、じゃあその映画は、頭の中で、どう映っているか?といった話が面白くなってくると思いますし、あと、特に評論家やマニアは、「何を観ているか」と同時に、「何を観ていないか」を表明する時代じゃないかと思います。
 
文学だって音楽だって、何だって同じことが言えますけど、これだけ歴史が長くなってくると、「前提として観ていることにされてしまいがち」な、古典的名作アーカイヴの中から、自分に何が欠損しているか、その、言わば「マイナス経験の名作アーカイヴ」を作成して公開するのは、単純にとても面白いし、「あれも見たこれも知ってる。こんなにコレクションがある」といった、20世紀的なペダンチックで加算式の履歴(これは、コンピューターによるアーカイヴ作成能力の高さと手を結んでいます)、つまり「攻める/誇るプロフィール」という、強度一辺倒で情報過多的な自己披瀝の蔓延による、慢性疲労を快癒してくれるし、他にも様々な可能性を感じるんですが(因みに私のそれには「天井桟敷の人々」「自転車泥棒」「無防備都市」「レザボアドッグス」「マトリックス」等が含まれます)、こういう楽しそうな話はついつい止まらなくなりますし(後略)——
 
「ブルータス!企画のたたき台にするなら、金くれとは言わないが、一報ぐらい寄越せよ! 8年前のだからってトボけるとヤケドすんぞ!!」とは言わない。同じアイデアを別人が抱く可能性は皆無ではないどころか、ユングによれば、着想/クリエイティヴィティは集合無意識的に共有されているのだから。というより、これは古いネット用語である「釣り」なのではないか? 僕は、ブルータス最新号の宣伝を、無償で買って出ている。いや、買って出させられるように誘導されて……と、こんな考えは典型的な被害妄想の症状である。だが信用してほしい、僕はSNSとゲームと漫画とアニメは嗜まない。全くクールではないジャパニーズなのだ。被害妄想症など微塵も持っていないのである。ブルータスの企画力に拍手を。

(2)読売新聞

実際に手に取ったのが読売だっただけであって、新聞であれば毎日でも朝日でもなんでも良いと思われる。僕は、学童低学年時代に、ラテ欄を読むためだけに新聞を熟読し、ある日それをやめた。嫌になったとか、何かの強烈なきっかけがあったわけではない。おそらく、だが、『TVガイド』や『ザ・テレビジョン』が、相次いで創刊されたからだろう。
 
以降、約40年間、僕は紙でできている新聞、を触ったこともなかった(だけではなく、ネットニュースも一切読まないので、社会時事の情報源は未だにテレビ地上波のニュースだけである。「東京スポーツ」のみ例外)。前述の通り、それは新聞というメディアに対して批判的であるとか、あるいは逆に(それは、「渋谷直角に於ける黒澤明監督作品」のような意味で)魅力的すぎるように思われて恐ろしかった、といったことではない。人間は、何かの小さなきっかけで、常連だった店に行かなくなり、その場合は、高い確率で、一生行かないままか、あるいはかなりの長きにわたって行かず、久しぶりで行ってみたところ……というルーティンが用意されている。
 
ある日、ディナータイムが深夜3~4時であることが当たり前の僕に、ちょっと仕事が混んだおかげで、その日の最初の食事が早朝5時になる。という日があった(数カ月に一回の確率で起こる事)。ジョナサン中野通り店でビーフシチューオムライスをアンバサメロン緑(オリジナルのノンアルコールカクテルの名前。アンバサ5、爽健美茶4.8、メロンソーダをワンプッシュ。必ずオンザロックにすること。ものすごく美味い)でやっていると、全テーブルに読売新聞が配られた。モーニングメニューを食べに来る、主に地域住民の、主にオーヴァー70の方々へのサーヴィスなのだろう。
 
読む気もなく僕はとりあえず手に取った。長年使わなかったメディアというのは、何気なくスムースにアクセスなどしない、というか出来ないのが人間の身体性である。よっぽどの切羽が詰まらない限り。
 
僕の内部で何が切羽詰まったのかはわからない(外部には、全く思い当たる節がない)、しかし僕は、気がつくと、ハゲタカが大きく翼を広げるような悠々たる仕草で、40年ぶりで新聞を広げていた。
 
目に入ってきたのは「気流」という名の、読者投稿ページである。そしてそのページには、幾つかの記事が挿入されていた。
 
ドン・キホーテのような圧縮陳列とも、シャガールの絵のような無重力で自由な画面構成とも、数億年の歴史を持つ南米の岸壁の切断面とも、新聞の一般的なページ構成とも言うべき、無秩序ギリギリでありながら、その実素晴らしいバランス感覚とデザイン感覚に満ち、目をはじめとした、五感に優しく、啓示性と神話性、実用性に満ち満ちた、その記事群を列記するならば「よみうり時事川柳」「時代の証言者~カンムリワシの闘い/具志堅用高」「連載小説<黄金夜界>作:橋本治」、そして基底部には高さ15センチに及ぼうかという、商品広告。それは「あなたの着物・帯、満足価格で買い取ります」というもので、和装に扇子を広げ、満面の笑みを浮かべた坂上忍の写真が控えめに掲げられている。
 
時事川柳の「秀」(因みにこれは最優秀の意味であり、掲載六句のうち、一句にだけ冠されている)作は
 
「平等は紳士淑女より高貴」
 
選者の片山一弘のひとこと講評には「日本語では、もともと<皆さん>で、済むのにね」とある。時事問題に疎い僕には一言も理解できず、暗号か外国語、もしくは前衛小説のようで、心底うっとりした。
 
最も「うっとり感」つまり、健康的な官能が強かったページは「東証一部」と「ジャスダック」の一覧である。「こんなちっせえ字(本当に、米粒に書かれた般若心経のように小さい)、顕微鏡使わねえと読めねえよ!だははははははは!」と一瞬思いながら、実際に読んでみると、恐ろしいことに全文が綺麗にスラスラ読めてしまうのである(ちなみに僕は54歳にして強い老眼で、遠近両用の眼鏡を使用しているが、周到な視力検査の元に作られたそれを使っても、CDのライナーノートを読む際には眉間に皺を寄せ、四苦八苦である)。新聞紙とインクと文字組には、レーシック等の先端技術を遥かに超えた、何らかの技法が施されているとしか思えない。何度読んでも、それは錯覚でなく、実際にスラスラ読めるのであった。
 
なんだろうかこの清涼感と安心感、混迷する現代社会で起こっていることのすべてが1時間で完全に理解できるほどの情報量の、胃に軽いこと軽いこと、どんな惨たらしい記事も、どんな怪しげな広告も、全くそれが気にならない。

この「気にならない」感がもたらす、極限的とも言える癒しの感覚は、「何もかもが気になってしょうがない」ネットのメディア感と双璧をなし、僕は数時間の間、恍惚として読みふけった。積極的に読もうとしなくとも、文字の方が、泉の水のように極めてスムースに目に入ってきて、頭の中に流れては収まる。面白い小説を読むと、その世界に入り込んでしまうような感覚を味わうが、僕は、やがて日が昇り、周囲の客席が、杖をついたり、補聴器を当てたり、人工肛門のようなものをつけていたりする老人たちでいっぱいになるまで、読売新聞の中に入り込んでいた。
 
僕は新聞を取ることにした(知人に言ったら「何新聞かは絶対原稿に書くな」ときつく言われたので書かないが)。はっきりとわかる。新聞は僕の世界観を変え、日常的な知性と身体性を一変させるだろう。

しかし、この感覚は、実は未知ではなくすっかり既知のものだ。僕は歌舞伎と相撲が大好きで、都合がつく限り入場券を買い、歌舞伎座や国技館で会場鑑賞するのだが、全く同じ質の感覚が、まさか日々に届く新聞の中に充溢しているとは思わなんだ。独特の、生き生きした快癒感は、単なるノスタルジーとも、所謂レトロフューチュアル感覚とも全く違う。
 
サブカル誌としては老舗に価するものの、未だに雑誌媒体としては前線を走るブルータスと、明治25年に第3種郵便物として認可された読売新聞。歴史は常に、その当時のユースが旧メディアから離れたとか、また支持し始めたとか、ヒステリックにがなりたてる。ヴァイナル(レコード盤)は、何度「再支持」されるのだろうか? 知性より偶発性や新体制の方が遥かに知的であるのは、歴史の反復性の構造を見る上でも有効である。僕は、ビーフシチューオムライスを食べ終えた腹で、モーニングセットを注文した。

profile

菊地成孔|Naruyoshi Kikuchi
音楽家/文筆家/音楽講師。ジャズメンとして活動/思想の軸足をジャズミュージックに置きながらも、ジャンル横断的な音楽/著述活動を旺盛に展開し、ラジオ/テレビ番組でのナヴィゲーター、選曲家、批評家、ファッションブランドとのコラボレーター、映画/テレビの音楽監督、プロデューサー、パーティーオーガナイザー等々としても評価が高い。「一個人にその全仕事をフォローするのは不可能」と言われるほどの驚異的な多作家でありながら、総ての仕事に一貫する高い実験性と大衆性、独特のエロティシズムと異形のインテリジェンスによって性別、年齢、国籍を越えた高い支持を集めつづけている、現代の東京を代表するディレッタント。