CITY OF AMORPHOUS 5

夏と精神科医たち——連載:菊地成孔「次の東京オリンピックが来てしまう前に」⑤

「2020年」に向けて、大なり小なり動きを見せ始めた東京。その変化の後景にある「都市の記憶」を、音楽家/文筆家の菊地成孔が、極私的な視点で紐解く連載シリーズ第5回!

TEXT BY NARUYOSHI KIKUCHI
ILLUSTRATION BY YUTARO OGAWA

第5回:夏と精神科医たち

残暑が厳しくてかき氷スタイルのアイスばかり喰っている。コンビニ菓子の発達は凄まじく、「こんなに旨くて良いのか? もう少し不味くしてくれないとなあ」と思うほどだ。真夏に精神科の外来に行くのは悪くない。アイスを喰いながら向かい、丁度入り口のところで喰い終わるようにするのが楽しい。精神科医たちだって、夏はアイスを喰うはずだ。どんなアイスが好きなのだろうか。

15年前に不安神経症、いわゆるパニック障害を患って、精神分析治療を受けた(因みに、内気功による、癒気型の整体も並行していた)。上手い分析医で、何せ教育分析(精神分析医は、自分の精神を把握するために、自分の教育者から分析を受けなければならない。これを教育分析という)をパリでフランス語で受けたという噂があり、おそらく、だが(風邪や花粉症のように、比べられる知人がいないので)、僕の症状の重さから鑑みるに、かなりの速度と深度で治ったと推測される。山手線の渋谷から恵比寿ひと駅が乗れなかったのに、翌年には成田からブエノスアイレスまで、つまり、最も遠い距離のフライトの往復を一人でしていた。

分析治療は外来のカウンセリングのようなものではなく、治療用のオフィスのカウチに横になって、普段着の分析医にいろんなことを話す。数年間にわたるセッションは驚きの連続だったが、その、小説よりもはるかに奇なる内容自体は書くことも話すこともできない(ちょっと考えればお分かりになるだろうが、分析医にもクライアントにも相互的に守秘義務があるのだ。何せ嘘つきな僕が、一切の嘘をつかなかった唯一の人物である)。

分析がつつがなく終了すると、分析とは別に、なかなか寝付けない宵っ張りのタイプなので、常備薬として睡眠導入剤と簡単な安定剤を貰うようになった。分析医は曜日によっては精神科で外来患者を診ていて(どっちが本業で、どっちがバイトだか、15年の付き合いだがまだわからない)、その時は白衣を着て気さくになる。彼は音楽や絵画など、芸術を愛好しているようで、僕は自分の著作とCDが出来ると必ず外来の時に謹呈する。彼は、そんなに気さくで大丈夫なのか?と思ってしまうほど普通に嬉しそうに喜ぶ。たまに感想を言うことがあって、なんか音楽マニアの叔父のように的確なので、奇妙な気分である。

一方、僕は、ほぼほぼタレントである精神科医と、タレントこそやらないが、精神科医というよりサブカル全般を網羅する著述家として一般的に知られている人物と、友人とまでは言わないが、知人程度とは充分言える付き合いがある。前者は隔月でトークイベントをしているし、後者は僕が参加しているバンドのファンで、ライブの度に客席にいる。

若干のマニアならば、もう誰だか特定できてしまうだろうし、当てずっぽうをまことしやかに書くことに何の抵抗もない人々でSNSはいっぱいだから、まあその、それが誰かは今関係ないんですよ、これはエッセイで、このしつこい残暑をちょっと涼やかにすればそれで良いのだから。コンビニのアイスのように。といってウインクでもするしかないのだが、前者が、今年に入ってから「歌手になりたくて練習をしている」と言い出し、イベントではもう二回もライブを披露した。

ライブと言っても、バンドが出るわけではない。彼の歌の先生が書いた楽譜と練習音源をもらって、僕がピアノで伴奏するのである。作詞も作曲も彼がやるのだが、そうした、テキストに還元できる情報よりも、歌を歌わせ、それを伴奏する、という、強く身体コミュニケーションの側面を持つ行為(僕も彼も一応はストレートなので躊躇なく書くが、それはセックスに、そこそこ近い)の方が、はるかに近い、何に、だって?精神分析に決まっているではないか。

伴奏行為は、何せパリのコンセルヴァトワール(音大)では、伴奏科が最も難しく、修行が苛烈だというほどで、非常に説得力がある。因みにかのミシェル・ルグランはここの出身である。でないと、ゴダールとマイルスとジャック・ドゥミと(以下、綺羅星の如し数百名)仕事ができるわけがない。

もうシンガーになっているので名前を出すが、入江陽という鬼才がいて、本当に歌がうまい。特に高音のピッチは「冷酷」というほど正確で、オペラ歌手のようだ。彼は元・精神科医である。4段落前にちらと名前が出た「サブカル批評としての方が一般的」である精神科医は、最近、外来をやめ、違った形の治療スタイルに移行すると聞いたが、それよりも何よりも、彼がアマチュアのオペラ歌手として、物凄い歌唱力である、と、共通の知人(4段落前の、「僕が参加しているバンド」のリーダー)に聞いた。近代の作品である、難易度の高いアリアを、「一音も外してなかったよ。驚いた」と知人は言っていた。

以下、ギリギリなので、もし不都合があったらカットして欲しいのだが、彼の伴奏者は、彼の奥様なのである。素敵ではないか。教育分析再び。そして精神科医たちは、僕が知る限りでは音楽、特に歌が好きで、場合によっては自分で歌って、ちょっとしたプロよりも上手いのである(僕が伴奏している彼は、まだビギナーなので……まあその……まだビギナーだが・笑・意欲と没入度は間違いない)。

突然だが、夏ほど歌を歌うのに過酷な季節はない。冷房は一点張りで喉に攻撃を仕掛けてくるし、頭部や胸部に残熱があると、そもそも歌を歌おうという意欲が削がれるし、最悪、音程感を保つための様々な器官がヤラれることも多い。冷房を逃れて炎天下で日傘の下で歌う。というわけにもいかない(因みに、春が一番良い。サマーソングがおしなべて調子良いのは、春に録音するからである)。所謂「夏フェス」のライブ盤というのが少ないのは、権利関係とか、業界の慣習というより、演奏も歌もかなり荒れるからだと思う。

精神分析学のオリジネーターであるフロイトは、あっという間に臨床治療用であることを超え、絵画や小説、映画などの芸術分析や宗教文化の分析などにスキルの対象を拡大したが、本人は音楽について完全にギブアップしている。何せ、自分が何で、モーツァルトの通俗的な8小節しか楽しめず、現代音楽などの、いかにも病跡学の素材になりそうなものの意味が全くわからないのか、そもそも、通俗的な8小節になぜ心惹かれるのかのメカニズムが全くわからないことをカムアウトした手紙が出てきており、そこには「患者である音楽家に相談した」という事実まで残されている。

この夏、精神科医の歌の伴奏をしながら僕は、「ほかのみんなも聴いたり歌ったりしているのかな?」と考えていた。当たり前だが、精神科医だって、精神分析医だって、好きな音楽を聴いて胸を熱くしたり、時には情熱的に歌い上げているかもしれないのだ。我々と同じように。そして、彼らはアイスをどうしているのだろうか? かき氷スタイルのカップアイスを木製のスプーンでシャリシャリ言わせながら、良い気分で好きな歌を口ずさんでいたりするのだろうか? 猛暑での治療や分析というのは、演奏のように過酷なものなのなのだろうか? それともフロイトに倣い、何故、通俗的な音楽が好きになるのだという自己分析に挫折し続け、音楽家に相談しているのだろうか?
 
連載「次の東京オリンピックが来てしまう前に」

profile

菊地成孔|Naruyoshi Kikuchi
音楽家/文筆家/音楽講師。ジャズメンとして活動/思想の軸足をジャズミュージックに置きながらも、ジャンル横断的な音楽/著述活動を旺盛に展開し、ラジオ/テレビ番組でのナヴィゲーター、選曲家、批評家、ファッションブランドとのコラボレーター、映画/テレビの音楽監督、プロデューサー、パーティーオーガナイザー等々としても評価が高い。「一個人にその全仕事をフォローするのは不可能」と言われるほどの驚異的な多作家でありながら、総ての仕事に一貫する高い実験性と大衆性、独特のエロティシズムと異形のインテリジェンスによって性別、年齢、国籍を越えた高い支持を集めつづけている、現代の東京を代表するディレッタント。