CITY OF AMORPHOUS 1

連載「次の東京オリンピックが来てしまう前に」① ——菊地成孔(音楽家/文筆家)

「2020年」に向けて、大なり小なり動きを見せ始めた東京。その変化の後景にある「都市の記憶」を、極私的な視点で紐解く。

TEXT BY NARUYOSHI KIKUCHI
ILLUSTRATION_YUTARO OGAWA

第1回:僕は東京オリンピックに行った

 よくある話だが、どういう連載にするか、トーンとマナー(古い、しかも広告屋の言葉だ。何で使ってしまったんだろうファック)が決まっていないまま、連載タイトルだけは先にくれと言われ、とりあえず思いつきで決めてしまった。

 依頼の後に行われた打ち合わせでは「東京について(街っ子の遊び人として)色々書く」という、「これほど茫漠としたテーマがあるだろうか」というほどのもので、ちょうど母親を亡くしたばかり、というタイミングも手伝い、そして僕は途方に暮れていた訳だが、やはり初回は、思いつきで決めてしまった連載タイトルに準じて、前の東京オリンピックについて書くことにした。この回を、ちょっとだけ、母親に捧げる(編註:この原稿は2016年11月に執筆された)。

 僕は1963年の53歳、ついでに6月14日生まれで、言うまでもないが、この歳で誕生日を知ってもらいたい、等といった欲望などある訳がない。今、テレビ(地上波)を消音つけっぱなしで書いているのだが、どのチャンネルにもドナルド・トランプ(少しだけ威張らせてもらうが、僕は全メディア「ヒラリー有利」を伝える中「絶対トランプに決まってんじゃん。バカかお前ら?」と全メディアに突っ込み続けたので、現在、大満足である)が出ている。

 彼と僕と、ついでにエルネスト・チェ・ゲバラ(と、ついでに大塚寧々も)は同じ誕生日である。ゲバラで思い出したが、僕が生まれてはじめて知った「大人のジョーク」は、洒脱方面ではなく、下劣方面で、「キューバのスカトロ政権」というものだ。実家が飲み屋だから仕方がない。初めて耳にしたのが小学生、意味を知ったのが中学生、といった所だろうか。下劣方面とはいえ、やや洒落ている、とも言えるし「60年代初頭ならば、なんだってみんなそこそこ洒落ている」とも言える。

「全然関係ねえし」などと安易に突っ込まれては困る。1964年の「オリンピックの記憶」は、僕の中では「生まれてはじめて知った大人の世界シリーズ」というフォルダに観念連合として投げ込まれており、地下茎的に全部繋がっている。大体こんな風に連載が続くと予想される。

 僕は東京オリンピックに行った。僕と同い年とはいえ、KONISHIKI、宮根誠司、松本人志、ブラッド・ピット、ジョニー・デップ、等々は、第一には東京から遠く離れていたので来ることが不可能だったと推測される(ラッシャー板前、板尾創路、出川哲朗、等々は、出身地がわからない)。これはよくある戦後史懐古的なノスタルジーとか、ましてや単純に自慢とか、あるいは悪い思い出があったとか言った文学的な趣向でもなく、単に「自分は万博は逃しました(大阪はまだ遠かったからね)」ということとバーターになっているのだが、一方で、0歳児を連れて家族でオリンピックに行った家庭が、当時全国でどれぐらいあったか、推測もつかない。

 はっきりしている事は、前の東京オリンピックの入場者の中で、最も若い入場者であったこと、そして、その時に唯一残されている写真が、「ソヴェート連邦(当時)の女子飛び込みの選手に自分が抱かれている」というものだということである。

 すでに両親とも亡くなったが、千葉県銚子市という田舎の港町の、しかも飲み屋の一家が観たかったのが「東洋の魔女(一応念のため、女子バレーボールのこと)」だったのは言うまでもない。そして、東京の下町よりもさらに下の下、東の果てにある港町の板前と寿司屋の娘が、「長い行列に黙って並ぶ」等といった殊勝なことが出来るはずがない(因みに。だが、後に彼らー僕も含めてーは、マクドナルドの一号店が銀座に出店した時は、殊勝に並び、今でもニュースフィルムに写り込んでいる。まあ、列の長さが比べものにならなかったのだろう)、短気でせっかちで、ついでに終戦直後に闇米によって商売を成功させ、つまり配給待ちの列を逃れる事により成功体験を身につけた両親は、途方も無い列を目の当たりにした段階で、一発で東洋の魔女は諦めた。

 更に彼らは「じゃあ、次に観たい競技は何か?」といった、今では当たり前の、コンテンツとコスパに基づいた思考法を持たなかった。繰り返すが、本州の最東端であり、古来、江戸を逃れて東方に逃げた罪人たちが溜まったドン突きが、遠洋漁業と醤油造りをメインに現在の町の文化的な基盤を作った、千葉県銚子市で生まれ育った故・菊地徳太郎と、故・菊地知可子は、ぐずりのキツかった嬰児である菊地成孔を背負子で背負いながら、おそらく現在の代々木第一であろう。夫婦は「一番空いている競技会場」に向かった。

 それは、女子飛び込みである。いうまでもないが、このエッセイは飛び込みを侮辱するものではない。動画サイトレヴェルで、会場観戦こそしたことはないが、現在の僕が好きな競技の中でも、女子飛び込みは確実に五指に入る。ただ、当時の日本人は、女子飛び込みについて、ほとんど何も知らなかったのである。

 何故か、(膨大にあっても良さそうなものである「東京オリンピック観戦アルバム」の中で)一葉だけ残されている写真は、「かわいい赤子を抱え、ほっぺたにキスをしている、ソヴェート連邦(当時)の飛び込みの選手3人」である。勿論、試合直後とかではなく、終了後のバックヤードであるからして、ウエアは所謂ジャージ(勿論、赤の)で、胸には「CCCP」の文字が踊っている。僕が目にした、最初の「4レターワーズ(これは一般には「LOVE」のことを指すが)」がコレだ。

 いうまでもなくソヴェート連邦はCCCPもしくはUSSRが略称である。前者がロシア語、ザ・ビートルズの曲名としても有名な後者は英語であり、どちらも「ユニオン・オヴ・ソビエト・ソシアリスト・リパブリック」即ち「ソヴェート社会主義共和国連邦」を略したものだ。

 実家をどこまで漁っても写真はこれ以上出てこない。どうしてコレ一枚?という理由を聞くこともなく両親は亡くなったので、理由は一生わからない。はっきりしているのは、僕に最初にキスをした外国人女性は旧ソ連の、女子飛び込みの選手だという事である。一生を左右する重大事には違いない。
 
連載「次の東京オリンピックが来てしまう前に」

profile

菊地成孔|Naruyoshi Kikuchi
音楽家/文筆家/音楽講師。ジャズメンとして活動/思想の軸足をジャズミュージックに置きながらも、ジャンル横断的な音楽/著述活動を旺盛に展開し、ラジオ/テレビ番組でのナヴィゲーター、選曲家、批評家、ファッションブランドとのコラボレーター、映画/テレビの音楽監督、プロデューサー、パーティーオーガナイザー等々としても評価が高い。「一個人にその全仕事をフォローするのは不可能」と言われるほどの驚異的な多作家でありながら、総ての仕事に一貫する高い実験性と大衆性、独特のエロティシズムと異形のインテリジェンスによって性別、年齢、国籍を越えた高い支持を集めつづけている、現代の東京を代表するディレッタント。