WORDS TO WEAR

聖域——連載|鈴木涼美「今日はこの言葉を纏う」04

その異常の先にしか見えてこない世界があるんだよ。
——『サンクチュアリ -聖域-』より

TEXT BY Suzumi Suzuki
PHOTO BY Ittetsu Matsuoka
hair & make by Rie Tomomori
design by Akira Sasaki

若い研究者カップルの子どもとして育ったので、今の実家がある鎌倉に引っ越す前のもっと幼い頃は母の父、つまり私の祖父が所有するシュー・ボックス・アパートメントと言って良いような狭い部屋で、シンプルな、と言えば聞こえがいいけれども単にバブルや好景気な時代とは無関係の質素な生活をしていた。幸運だったのは母がお金をかけない旅の達人で、普通の家庭よりずっと収入が低いにも関わらず、私がよちよち歩きだすとすぐに色々な国に連れて行ってもらえたことで、三歳の頃に行ったバリの宿はほとんど掘っ立て小屋で、頼りない電線を引っ張ってかろうじて電灯はつくものの、雨や風でその電線に不具合が生じると部屋はすぐ真っ暗になるし、髪や身体を洗うのは土間の大人の身長とほぼ同じ高さのところに設置された蛇口からでる水だけで、お湯もシャワーもなかったけれど、案外大学時代に行ったそこそこ綺麗なホテルなんかよりも、そういった場所の方がしっかり記憶に残っていることもある。蛇口からちょろちょろ出る水で母と頭を洗っている最中に、ただでさえ頼りない勢いの水が完全に止まって、しかたなくキッチンでシャンプーを洗い落とした、その最中のシャンプーの目に染みる感じと、ようやく目を開けた瞬間に急なスコールで敷地内にあった小さいプールの表面が炭酸のように泡立っていたことなんかは、昨日の夕飯や去年付き合った男のことよりずっと鮮明に覚えている。

そんな我が家であったから、東京にいようが旅先にいようが家族で楽しむエンタメというのはごく限られていて、その一つが父の仕事をかねてバレエを観に行くことだった。母の主張としてはもともとは母の趣味だったものを父が横で猛スピードで詳しくなって仕事にまでしたのだと言っていたが、こういったことに関するうちの両親の見解は往々にして食い違うので私は双方話半分に聞いている。それはどっちでもいいのだけど、いずれにせよ子どもの頃にそこそこちゃんとした服を着てお出かけをするというと、専ら上野の東京文化会館に行くことだった。家族で行くのは小難しいコンテンポラリーやジゼルなどの大人受けする演目ではなく、シンデレラやくるみ割り人形など子どもでもお話を良く知っていて、華やかでわかりやすい演出のものである。

最初は三時間も席に座っているのは苦痛なのだが、少し大きくなるとバレエダンサーの華麗な跳躍や回転に見入って、鑑賞した翌日は狭いアパートの畳の部屋で、靴下でくるくる回っていた。父方の祖母は日本舞踊のお師匠だったので、私は日ごろ日舞を習わされていて、派手なバレエに比べて動きも音楽も控えめで退屈な日舞はあんまり楽しくなかったのだけど、バレエの方は軽やかで楽しそうに見えた。

一度、最終日だったのか公演が終わった後のバックヤードに親に連れられて入ることができて、ロシアのバレエ団だったか、外国人のプリマダンサーがその場にいる唯一の子どもだった私に、その日に使ったトウ・シューズを投げてくれたことがあった。最初は憧れのバレリーナ・グッズがもらえることに気持ちは沸き立っていたのだが、実際に手に持ったそれはしなやかで楽しげな踊りが想像できないほど固く、遠目には綺麗なつま先立ちのように見えていたダンサーの足元の過酷な実態を目の当たりにした気分だった。

上野に行くときには大抵先にご飯を食べて、バレエを観て帰っていたのだが、その時は休日のマチネだったのか、公演のあとに家族でレストランに入った。家まで待てなくてもらったトウ・シューズに足を当ててみるも、それまでの靴の概念が脱構築されるほど異質なもので、それを履いて軽やかに歩き、つま先立ちで跳躍するなんてとても考えられなかった。結局私はバレエを習わせてもらうことはなかったので、トウ・シューズで立てたことは一度もない。中学の時の親友が一人、プロのダンサーになったのだが、かつて彼女のつま先が出血と水ぶくれを繰り返し、人の皮膚ではないような色になっていたこともあった。

トウ・シューズの衝撃は小学校や中学校に上がっても長らく私の胸に残っていた。私の通った鎌倉市の小学校は、靴下や靴のみならず、鉛筆やハンカチもすべて指定のものを使わなくてはならず、実に理不尽だと思っていたのだけど、一度母が規則についてこんなことを言った。

「私も中高時代は制服の不格好なベルトの廃止運動に腐心したし、上から押し付けられる規則って窮屈だなとしか思わないんだけど、バレエのトウ・シューズってあんなに不自由で痛くて過酷で、でもそれがないとあんなに自由に華麗に踊ることはできないわけだし、みんな同じ靴を履いているのに個性豊かな芸術じゃない。生きてて窮屈だと思う校則とか法律とか、トウ・シューズみたいなものだと思ってみるのもいいかも」

私はそれでも校則が嫌で、結局その学校を飛び出すのだけど、痛い思いをしてつま先を鍛えて初めて生み出される芸術があるように、縛られるからこそ生まれる何かがあるのはそれはそうだろうと思った。今の私には髪型や服装や、起きる時間すら強制されるものは何もないのだけど、そういう状態が必ずしも自由とは限らないと最近思うのだ。それに、制服を着てもにじみ出る個性が本物の個性だという気はする。

大相撲の世界で異端児として道を歩んでいく若者を描いた配信ドラマ『サンクチュアリ』は、女性は土俵に上がってはいけないとか、いじめのようなしごき稽古など、ある意味異常な世界を強調して描いている。その異常さのすべてが今後の世界でも受け入れられていくかはわからないが、その異常さを指摘する外部の目すら魅了していく伝統は、少なくともフィクションの世界では実に眩い。

 

profile

鈴木涼美|Suzumi Suzuki
1983年生まれ、東京都出身 / 作家。慶應義塾大学環境情報学部卒。東京大学大学院学際情報学府修士課程修了。5年半勤務した日本経済新聞社を退社後、執筆業を中心に活動。小説に『ギフテッド』『グレイスレス』(文藝春秋/ともに芥川賞候補作)。主な著書に、修士論文を書籍化した『「AV女優」の社会学 増補新版』(青土社)『身体を売ったらサヨウナラ〜夜のオネエサンの愛と幸福論〜』(幻冬舎)『娼婦の本棚』(中公新書ラクレ)など。6/29に小説『浮き身』(新潮社)が刊行されたばかり。