CITY OF AMORPHOUS

平成は終わらない——連載:菊地成孔「次の東京オリンピックが来てしまう前に」24

「2020年」に向けて、大なり小なり動きを見せ始めた東京。その変化の後景にある「都市の記憶」を、音楽家/文筆家の菊地成孔が、極私的な視点で紐解く連載シリーズ第24回!

TEXT BY NARUYOSHI KIKUCHI
ILLUSTRATION BY YUTARO OGAWA

第24回:平成は終わらない

これがアップされる頃にはもう新元号は発表されているはずだ。僕が推したい新元号は「3-4×10月」か、じゃなかったら「当然」か「突然」が良い。「然」の文字は必ず入れたい。まあそンなことはともかく、今、日本人が一番聴きたくない言葉が今回のタイトルだと思う。どうしてだろう? これほど右を向いても左を見ても多様化が叫ばれるのは、やはりファシズムの予感があるからだろう。勿論、ファシストもファシズムもさほど良い物とは思わない。しかし良いファシズムだって必ずある筈だ。おっと、ファシズム論ではない。いや、ファシズム論かも。誰もが思っている、平成が終わって良かったと。しかも、とても優しい気持ちで。

僕は、この優しさと寛容を多くの人々に共有させている現体制が、基本的には好きだ。どうせ現代社会という存在は、理論的には瞬間的にしか存在しない。どさくさに紛れてはっきり書くが、拉致問題と基地問題は解決しない。解決できないものを、解決しますと言わないといけないのである。これは、絶対悪ではない。そうやって成り立っていることは多々ある。それどころではない、我々は、そうした側面を持たないと破綻してしまう。あなたに問いたい。絶対にできないことを、出来ると言い張ったお陰で保てたことが、あなたの人生に一度もなかったと言えるだろうか? そして、現代社会が完全に混迷を抜け、問題をすべて解決する日など絶対に来ないのだから、せめてこのぐらいの小さな花、平成が終わってよかった、という優しい安堵をみんなが持つ事は噛み締めたいし、大げさに言葉にしたくない。

しかし、エッセイストという仕事は過酷だ。今、「○○は終わっちゃいねえ!」というシリーズで、「こんな<終わっちゃいねえ>は嫌だ」という大喜利があったら、この回答はかなりの正解にして、本当に苦い。終わることに優しくなっているからである。優しい状態を逆なでする以上の悪があるだろうか? それはファシズム以上の悪ではないか? そんな想像力を使って原稿料を貰うのである。

僕は、今になって平成を、クールに突き放して分析している態で、結局悪く云う人々(例えば、ひろゆき)は、自己嫌悪の発露であるとか、平成に悪いことをして上手くいった罪悪感を、瀬戸際で晴らそうとしている卑劣漢だとは決して言わない。それよりはるかに重要なことがある。次の元号になっても、平成はしばらくは続く。平成の最初の5年ぐらいが、実質上の昭和だったように。

まあ、こんな話も詭弁とか自明とまでは言わないが、強く一般論的に正しかろう。デイケイドは今や、麻雀やNFLのように、前半と後半に大体5年づつに2つに割るのが常識化している。「70年代初期(前半)」というのは、まだ60年代だったし、「60年代初期(前半)」も以下同様である。僕の査定では、93年までは明らかに80年代だった。「ウゴウゴルーガ」が軌道に乗った年だ。

10年で必ず切れるデイケイドと違い、元号は最短1日から最長100年ぐらいまで何年続くか分からない。前半か後半かは分からない。だから、元号が変わることは非常に繊細なことではあるが、サプライシングではない。しばらくは平成の名残が続くのである。そして、新元号による新時代が、何をきっかけに(90年代の到来を、「ウゴウゴルーガ」が告げたように)起こるかは誰の目にも明らかであろう。人々がスマホへの依存を、ゆっくりと脱ぎ捨てた時だ。

ただ、いつそれが来るか、どんな大天使の、どんな象徴によってもたらせられるのかは分からない。少なくとも、明確なことは、我々は、これからしばらく、元号だけが変わって、あとはまだ変わっていない、糊代のような数年間を過ごす。それだけだ。この原稿を書こうとした瞬間、僕と同い年の北尾が死んでいたことが発表された。内田裕也やショーケンの死は70年代や80年代の死である。なので、「平成の最後に、平成を代表する人が滑り込みのように亡くなってゆく」というのは、自走してしまったセリフだなと思っていた。

だが、北尾は違う。北尾の死こそ「平成を代表する人が(以下略)」である。北尾とほぼ同一キャラクターなのが、佐竹雅昭(北尾の2つ下)であることは何方からもご賛同いただけると思う。オタクなのに格闘家なのです。相撲や空手といった伝統的な競技界で一瞬にしてトップを取ったが、それが(競技上、という意味ではなく)過ちであったことを、今度は十数年かけてゆっくりゆっくりと、うんざりさせるように証明した。今、佐竹のtwitterを、ほぼ嫌々読んだ。すると、佐竹は、140文字以下のつぶやき一つ一つに、タイトルをつけているという、非常に変わったマナーを守っていることがわかった。それどころか、彼の髪型、体型、何より顔相が異様に若々しく、つまり彼が年をとっていない事がわかる。武蔵も時を止めたままでいる。平成は死んでいない。

僕は、例のあの、小渕さんの生涯の一発、「平成」を、布団の中で、厳密には性行為中に見た。既に性行為は、何よりも熱中できる、何よりも優先される黄金ではなかったけれども、へー、今度は平成っていうのか、なんかスッキリしねえな。まあ、なんでもいいや、と裸で思ったのを覚えている。僕は平成を、言うほど悪い時代だったと思っていない。性行為中に、小渕さんが掲げているのを見たから。という事実はかなり大きい。今、寛容さに包まれて逝こうとしている平成は、僕個人にとって、始まりも寛容の塊のようだった。寛容さが見せた未来の予感。

これを書いているのは3月31日の深夜4時47分である。今から性行為に入る。新元号は性行為中に知るに限る。これは行事のように仕組んだものではない。僕は、今日が何月何日か、かなり怪しい人物で、気がついたらそういう事になっていたのである。やがて人々は性行為中であろうとスマホを持つか、持たないまでも枕元に置いて、いつでも手に取れるようにするだろう。いや、性交後にすぐ手に取る、ぐらいだったら、もう、ほぼほぼなっている筈だ。平成は最後の力を振り絞るだろう。そして、頑固な亡霊を数体残して、やがて完全に消えるだろう。大変苦しい事に、平成は終わらない。今すぐには。そしてこの事について優しく寛容になる必要はない。どころか、我々は一転して、狩猟者の瞳と指先を持たなければならない。


profile

菊地成孔|Naruyoshi Kikuchi
音楽家/文筆家/音楽講師。ジャズメンとして活動/思想の軸足をジャズミュージックに置きながらも、ジャンル横断的な音楽/著述活動を旺盛に展開し、ラジオ/テレビ番組でのナヴィゲーター、選曲家、批評家、ファッションブランドとのコラボレーター、映画/テレビの音楽監督、プロデューサー、パーティーオーガナイザー等々としても評価が高い。「一個人にその全仕事をフォローするのは不可能」と言われるほどの驚異的な多作家でありながら、総ての仕事に一貫する高い実験性と大衆性、独特のエロティシズムと異形のインテリジェンスによって性別、年齢、国籍を越えた高い支持を集めつづけている、現代の東京を代表するディレッタント。