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いまエッセイを書くこと——菊地成孔『次の東京オリンピックが来てしまう前に』発売記念インタビュー

HILLS LIFE DAILYで2017年にスタートした菊地成孔の連載『次の東京オリンピックが来てしまう前に』が、平凡社より書籍化され、2021年1月17日に発売となった。平成から令和、米国大統領選、そしてコロナ禍と、この怒涛の3年間を綴った菊地成孔に、本書について話を訊いた。

TEXT BY FUMIHISA MIYATA
PHOTOGRAPHS BY SHINTARO YOSHINATSU

——「私は夜行性の深夜生活者だ」との一節がありますが、こうした生活が、本書で世の中を見る“反転”した目にも関係している気がします。今回の取材は、夕方の16時半、菊地さん曰く「天然の夜」間近に行われていますが。(取材日は2020年12月末)

日によっては、まだ寝ている時間ですね。体が起きていないままに原稿を書いたり作曲したり、ライブがあればサウンドチェックをしている時間帯でもある。皆さんが寝ている頃に深夜パックでスタジオ入りしたり、飲み食いしたりして、早朝にかけてが僕にとってのチルアウトの時間ですね。

——2017年1月から3年半にわたる月記であった本連載では、タクシーで店から店へ移りながら飲み食いする生活が描かれていますが、コロナ禍で影響を受けましたか。

はい。もともと僕は、信頼のおけるシェフと友だちになって、贔屓(ひいき)の店をネットワークさせるようなところがあります。音楽界を見渡しても、たぶん世界中で最も多く、飲食店の店主同士を友だちにさせているんじゃないでしょうか(笑)。それでも最近は、遠くまで食べに行けなくなってしまいました。

——とはいえ、「ニューノーマル」だと論じられやすいコロナを、本書で菊地さんはスタンダードではなく「ハイプ」だと断じています。アフターコロナ/ウィズコロナ的な世界観に真っ向から反対していますね。

これから一生付き合っていくものだと断定しちゃっている人がいますが、僕は「ハイプ」、つまりやがてなくなるものだと考えています。まあ、この博打の勝ち負けの結果は一年やそこらじゃ出ないと思いますが、何せ向こうは一生だと言っているわけですから、止まった段階でこちらの勝ちです(笑)。

——「人生は博打である。我々は世界という賭場に座り込んだままの博徒である」とは本書の言ですが、「2度目のオリンピック」こそが「ハイプ」である、つまりは負ける賭けだという見立てで始まった連載でした。

多くの人が当初、この博打には勝つと思っていましたが、僕は石原慎太郎都知事がオリンピック招致に手を挙げた時点で、負けると思っていましたよ(編注:前著『時事ネタ嫌い』に当時の発言が収録されている)。これはもう、博徒の勘ですけど。

連載の初回で書きましたが、僕は1964年、前の東京オリンピックに、滑り込みで行けました。親に連れられて女子飛び込みを見に行った1歳児が、旧ソ連の女子選手に抱えられた写真が、実家に残っている。その記憶を持つ者として、「次のオリンピックはおそらくダメだろう」というところから始まった本であるわけです。

——「薬にも毒にもならない、洒落た都会的エッセイ」を志したが、やがて「手酷い世相へのアジテート」になっていきました。

パーティーが盛り上がっているのに盛り上がれない自分にコンプレックスを持つ人や、運動会の日に憂鬱な子っていますよね。みんなが楽しんでいるのに楽しめない自分が嫌だし、嫌な奴だと思われているだろうなとも感じて、二重の客観意識によって落ち込んじゃう。だからといって無理に作り笑いをして疲れても、全体主義の犠牲じゃないですか。

そこで個人主義だ、というのが本書のアティチュードではありました。個人主義というのは、自分が楽しめる精神的余裕を自分で保つ、というアティチュードのことです。それでも連載終盤は、どうしても社会に引っ張られましたが(笑)。

——「アイソレーション」というダンス用語が登場します。「首を振る時に肩が動かないように、腰を動かすときに膝がついてこないように、人体の各パーツの連動を絶って、単独化させるベーシックスキル」であると。

アイソレーションとは文字通り、分節化することです。分節なしに踊りは成立しないのですが、僕はアナロジーとして、「あらゆる感情を、一度分節しないといけない」と書きました。今の時代は、自分がシリアスだと考えていることに対して、いろんな関連言語の中からさらにシリアスなことを次々と引っ張ってきて、組み上げる。重みと強度をもたせて、SNSで一言決めてやりたい、likeをたくさんもらいたい、というような欲望に溢れています。そして、マインドが硬化していく。

自粛によって息苦しさを覚えている人には、過去のあらゆる息苦しさが寄ってきてしまうでしょう。誰かと何かを言い合うにしても、関連するネガティブな思いを磁力のように引き寄せてしまい、いわゆる“盛る”状態になって、話はどんどんデカくなる。ですから、ネトウヨの次に来るのはネトリベですよ。一言付け加えれば、僕が私淑するフロイド的にいえば、自分の最大の抑圧者は自分です。リベラルと言うのだったら、まず自分から自由になれ、と言いたい。

喧嘩をやめたいとき、一番簡単なのはアイソレーションすることです。磁力によって引き寄せたものを断ち切り、分節化すれば、話は小さくなり、重みと強度は失われる。シリアスと不謹慎の二極ではなく、軽く、弱弱しく、その中道をいくわけです。

——今、「エッセイを書く」行為はどのような位置にあるのでしょう。

ひょっとしたら、エッセイを書いたり読んだりするのは、ほんの一部の人になっていくんじゃないか、という思いを抱くことがあります。たとえばTwitterで、「noteを書いたからみてください」とリンクが貼ってある。よほど長いものを書いたんだなと思ってクリックすると、4ツイートぐらいの文章であるわけです(笑)。いえ、誰もが大食いのアスリートにはなれないように、皆が長文を書けないのは当たり前のことなのですが、今は誰でも長文が書けて発信できるという幻想が、SNSによって伝わってしまった。

そうすると、書けない人が頑張ることによって、書ける人の力はどんどん阻害されていってしまう。圧倒的な文筆力のある人が憧れられるような、それこそスポーティーな構図は発生しようがない。はっきり言って、不健康な状態だと思います。

——時代に対峙しながらエッセイを書くとき、たとえば伊勢丹の宮川で、何十年か振りに鰻に山椒をかけて食べた回のように、個人の「記憶」をひとつの足場とされています。まるで中華料理のように感じた鰻が、故郷である「銚子の女たち」が汗と血にまみれ笑顔で捌いていた鰻の「記憶」へ結ばれ、デタラメに再編された「アジアの歴史」へつながる描写が印象的です。

小説のそれとも違った、エッセイだけが持っている物語性や歴史性というものがあります。それは、資料性ともまたちょっと違うんですね。僕は校閲者の方々へ、心から尊敬の念を抱いているし、素晴らしいお仕事をされていると思います。一方で、今のコンプライアンス主義を目の当たりにすると、「間違っているけど伝わる」ことの大切さも思わざるをえません。

僕が優れていると思う先達のエッセイストたちを読むと、本当に粗いし、言葉や記憶の間違いなんてザラですよ(笑)。でも、たとえばスラングは言語としてはエラーでありながら伝わる力、いわば言語の共時性があるし、それはストリートの力であり、ひいてはエッセイの力につながっているものでしょう。

そもそも、社会やマーケットにうまく適応でき、ステータスとフェーム(名声)を持っている人は、エッセイストにならないと思います。たとえばジェフ・ベソスがエッセイを書いたら、それは自伝になっちゃいますから(笑)。僕はエッセイストであるという自負が強いゆえに、極端な言い方をすれば、フェームをあまり手に入れないようにしているのかもしれません。街の遊び人でありたいのです。

——個人主義のエッセイが、ときに予言性をまとうのはなぜでしょう。2019年12月の回にはこうあります。「来年は『嫌煙権』から派生的に『嫌咳権』が生じ」、「食品加工工場並みの強制力でマスク着用が義務付けられ」、「手洗いは現在よりも遥かに頻繁な行為として定着」するだろう、と。

僕が思うに、雑念にとらわれていなければ、先のことは誰にでもわかるんじゃないでしょうか。僕に超能力はないですし(笑)、なんとなく今回のオリンピックも大変なことになると思っていただけです。

以前に雑誌の連載で、日本と韓国の憎しみ合いがこれほど激化するのは、時差がないからだと書いたことがありました(編注:前掲書に収録)。当時の読者には伝わらなかったけど、ライブのMCでも度々触れていたらその後、韓国で標準時を30分遅らせようという改正法案が提案されたんですよ。すぐに却下されていましたが。

今はみんなホットになって、目の前で起こっていることに対して眼鏡が曇ってしまっている。もちろん、僕の眼鏡もある程度曇っています。57歳にもなってね、恋人とひどい喧嘩をするんですよ。眼鏡が曇っていなかったら喧嘩なんて一瞬で終わるんだけど、夜通しぐずり合うことさえある(笑)。ただ、視野狭窄に陥った、頭が凝り固まった時間があったとしても、過ぎたらリラックスして、クールに物事に対処すればいい。我々は子どもではなく、大人なんですから。そうすれば、先のことは誰にでもわかるんじゃないでしょうか。

——なるほど。最後に、連載媒体だったHILLS LIFE DAILYの読者に、伝えたいことはありますか。

ヒルズは買い物に行くのも本当に好きなので、そこで連載できるのは嬉しかったです。原稿が掲載されてからタクシーに乗ると、菊地成孔の連載が、と広告が出るんですよ(笑)。こんな経験、今までどんな連載や番組をやっていてもなかったですし、これがメディアだと打ち震えるような感動がありました。ヒルズの品格を汚すことのないようギリギリのところを攻めてもいたのですが、まあ、先程挙がったアイソレーションの話をした回だけはアウトでしたね、ハハハハハ!

——未掲載回は本書を読んでのお楽しみということで……。

それはともかく、読者の方に伝えたいのは、享楽するときの意識ですね。贅沢をしながら、意識高くエコロジカルで、サステイナブルで、リベラルで……という、正しさも豊かさも取ると言うのは、欲張りすぎだと思います。いや、僕自身、消費文化も大好きですし、贅沢も大いに結構だと思う。ただ、自分が歩いているストリートのすぐ脇に、とんでもない生活をしている人たちがいる、ということは念頭に置いたほうがいい。あなたに何の悪意がなくても、です。その上で享楽してもらいたいな、と。

——まさに、アイソレーションですね。

僕たちの世代は、何か贅沢していると、そこに少しの罪の意識がありました。ゾクゾクするようなことの中には、常に罪の意識が入っていたんです。そのうえで贅沢することが、楽しみだったんですよ。この意識なく贅沢している人たちが、今の世には出てきている気がする。賢明なる読者の皆さんにはぜひ、リスクを考えた上で楽しんでいただきたいと思います。

菊地成孔|Naruyoshi Kikuchi 1963年生まれの音楽家/文筆家/大学講師。音楽家としてはソングライティング/アレンジ/バン ドリーダー/プロデュースをこなすサキソフォン奏者/シンガー/キーボーディスト/ラッパーであり、文 筆家としてはエッセイストであり、音楽批評、映画批評、モード批評、格闘技批評を執筆。ラジオパースナ リティやDJ、テレビ番組等々の出演も多数。2013年、個人事務所株式会社ビュロー菊地を設立。2020年より、ビュロー菊地チャンネルでフェイクラジオ「大恐慌へのラジオデイズ」や料理動画「ナルズキッチン」など多彩な動画コンテンツをスタート。