CITY OF AMORPHOUS

次の東京オリンピックは、いつだと思いますか?また、いつが良いと思いますか?あなたは不易さん?それともと流行さん? / 2度の休載を経た最終回がもたらす安堵について——連載:菊地成孔「次の東京オリンピックが来てしまう前に」36|最終回

時代の変化の後景にある「都市の記憶」を、音楽家 / 文筆家の菊地成孔が極私的な視点で紐解く好評連載。いよいよ最終回!

TEXT BY NARUYOSHI KIKUCHI
ILLUSTRATION BY YUTARO OGAWA

まず何より、2連続で休載した事をお詫びしたい。最初の休載(前々回。執筆時──コロナ禍が騒がれ出した時期)は筆者から申し出たもので、「今、エッセイストとして何かを書く気力を完全に失ったので、休ませて欲しい。その代わりに、予定されていた最終回一回前と最終回は必ず書くので、その2回分をひと月後ろにズラせて欲しい。そうしたところで、タイトルにある<東京オリンピックが来てしまう前に>という理念は守られるし」と申告したところ、快諾を受けた。言わばギヴアップである。お恥ずかしい。

そこで1回分を自主的に休載し、前回(執筆時──緊急非常事態宣言が解除される直前)の原稿を送信したところ、今度は3年間にわたる当連載史上初めて、「掲載不可」の措置が取られた。言わばコーション&ディサプルーヴァルである。

自分の原稿が──いかなる理由があるにせよ──掲載出来ないと判断されて、腹を立てぬエッセイストは居ないだろう。しかし、筆者は、これは諧謔でも嘘でも皮肉でも何でもなく、単なる本心で、全く腹を立てていないし、あらゆるネガティヴィティも抱いていない。

当連載は──中後期の2年間は特に──意図的にオフェンシヴかつアグレッシヴに書いており、正直「よくもまあこんな原稿が、こんなビッグカンパニーのウエブサイトに掲載されたもんだ」という、感謝と痛快さを毎回味わっており、つまり、いつ掲載NGの措置が取られても全くおかしく無い。というアティテュードならびにトーン&マナーでいた上に、何せ時期が時期であり、何を書いても、気を使おうと使うまいと、ありとあらゆる公式な発言は全て雁字搦めに張り巡らされすぎたコンプライアンスの蜘蛛の糸に引っ掛かってしまうのは自明のようでさえあった。

因みに、タイトルだけ掲載しておく。そして、この原稿は「幻の休載回」にはならない。お陰さまを持って、としか言いようがないが、当連載は、最終回である本稿がアップされてすぐに、書籍化の作業が始まる。

<「今のニューヨークは来月の日本だ」と言ったこけ脅し野郎。ただ謝るだけじゃ済まねえぞ、アイーンしながら「スンマセンでした。アイーン」と云う動画を上げない限り、地獄の底まで追いかけてやる / 「もし地球が100人の村だったら」再び>

は、単行本『菊地成孔の<次のオリンピックが来てしまう前に>』に収録されるので、そちらをお読みいただければ幸いである。シームレスに繋げられなかったので、ここまでは落語で言うところの枕、オペラで言うところのレチタチーヴォとなる。イントロダクションの最後に再び、2度の休載をお詫びしたい。

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最大級の敬意を抱いている人物名と、最大級の軽蔑を抱いている人物名と、友愛や親近感を抱いている人物名と、特に敬意も軽蔑もしていない、心理的に完全にフラットな人物名とが、敬称略という状態で共存する居心地の悪さを読者諸氏と共有できると幸いである。

1984年、小林信彦は、自著『道化師のためのレッスン』(白夜書房)の冒頭に、糸井重里との対談を設置した。初出は、筆者の記憶では写真雑誌だったような気がするのだが、それはどうでも良い。どうでも良くないのはそのタイトルである。

それは「不易と流行」というもので、1984年当時の両名の、時代との関わり合いの形、発言者としての強度と意味、を、なるべく適切に考慮に入れれば入れるほど、その鋭敏さが理解できるのだが、本来は俳諧の用語である「不易流行」の間に「と」を入れる事で、本来の俳諧の用語としての意味を換骨奪胎し、現代語的に言い直すと「ハイプとスタンダード」という事になろう。その視点から展開される、冒頭の<萩本欽一論>、その快刀乱麻を断つ斬れ味は、21歳の筆者を感嘆に至らせ、それは現在読み直しても全く色あせていない。

今、我々に、全方向的に問われているのがこのテーマであることは、読者諸氏をして概ね御首肯頂けると思う。コロナはハイプかスタンダードか? それによって巻き起こったあらゆる変化はハイプかスタンダードか? そして、「2度目の東京オリンピック」はハイプかスタンダードか?「近代オリンピック」自体がハイプかスタンダードか?流行語としての「経済効果」はハイプかスタンダードか?あらゆる死はハイプかスタンダードか?

対談をもう一例挙げる。昨年、創刊30年を迎えた文藝春秋社発行の『クレア』に、故・ナンシー関と大月隆寛の対談連載があった。現在は「地獄に仏」というタイトルで書籍化されているが、この連載の内容や詳細は兎も角、ほぼほぼ最終回近くに、地下鉄サリン事件が起こっている。

この回に、大月隆寛は、ガスマスクを購入したと赤裸々に発言し、現在言う所の、「引く、引いてみせる」というパフォーマンスを、当時から半ば積極的な表現として行なっていた故・ナンシー関に、「思いっきり引かれてる間に、一回費やしてしまった回」と評価できる。故人の「引き芸」の説得力は強く、読んでいて「これ芸じゃなくガチで思いっきり引いてるなナンシー関」と思ったものだ。

大月隆寛の主張は明確である。「地下鉄サリン事件によって、東京の治安幻想は終わった。これからは、日常的に、宗教テロか無宗教テロか、地下鉄か地上かに関わらず、科学 / 生物兵器を使ったテロリズムに備えないといけない時代が到来したので、ガスマスクを購入し、常時持ち歩く事にした」

民俗学者であり、宗教学にも精通している大月は<余りに、オウム事件に衝撃を受けた結果>、オウム真理教ならびに、あらゆる新興宗教が起こすテロリズムを、そして我が国に於ける、毒物による、公共の場でのテロリズム全般の可能性を、ハイプではなくスタンダードとしたのである。

因果関係は定かではないが、連載はこの回ののち1年を待たずに終了し、1995年からの大月の民俗学者、サブカル批評としての活動は「不遇」としか言いようが無いまま、現在に至っている。

この、大月の明らかな大ミスから雪崩れ始めるキャリアに対して、同情的になる必要性も、また、大ミスの原因と、大月のプロファイリング履歴を冷静に、関数的に結ぶ必要も、少なくとも本稿には無い。

ただ、大月は、博打で言えば読み誤って大負けしたのである。ほとんどのダメな博徒は、大負けの直後に、一発逆転を狙って墓穴を掘る事になる。そしてこれは諧謔でも嘘でも皮肉でも何でもなく、単なる本心で、人生は博打である。我々は世界という賭場に座り込んだままの博徒なのだ。

いとうせいこうと伊集院光は、コロナについて、ほぼほぼ同じ捉え方をしている。それは、要約するならば

「コヴィッド19それ自体は、漸近線的に収束するであろう。しかし、同レヴェルの疫病禍はこれからも連続的に(あたかも、毎年のように局地的に大きい被害を出す自然災害のように)起こる。もう、スタジオでの出演者間距離や、遮蔽壁、無観客性、という、今回生まれた新事実は、ピンマイクやリモート出演(これはコロナ以前からあった)、2本撮りやドローンの使用、昭和より厳格なテレビコード(特に性的な)、のように、我々の日常になるのだ。だから落ち着け。来るべき日常に対して。と言いたい。こうした正しい把握ができずに冷静で居られぬ現場のDやP、スタッフ等に、脱臼的で滑稽な動きが出ている」

といったもので、この捉え方は、私見では、コヴィッド19はハイプだが、同列の疫病はスタンダードなのだと言っている態で、コヴィッド19をスタンダード視しているのと同様である。

そして、もしそうだとした場合、私見だが両氏共にこの博打には負けた。負け方としては、掛け金を置くのにつんのめり過ぎたし、負けを恐れながら勝とうとしているので、これは原理的に負ける。フロイド的に言えば、合理化が過ぎるからである。合理化は基本的に自らにしか効力を持たない。

「死・破滅・崩壊への恐怖」が強い傾向を持つ者は、先ずはこの博打に乗るべきでは無い。正しい判断を下す能力が失調するからである。同様に「答えのない状態」が耐えられない傾向の者も、今はチップを置かない方が良い。原理的に負ける。現状が「そう」だからだ。合衆国に於けるコロナのリアリティはあるか? ある。ブラジルにおけるそれは? ある。中華人民共和国に於けるそれも、大韓民国、ユーロ各国に対するそれもある。

しかし、昔から大本営発表と外面史上主義という美悪の両徳を持つ我が国に於いては「世界的な問題」に関する「自分ちの状況」が、必ずリアリティを失う、という一種の国是がある。毎日株価の変動のように伝えられる「感染者数」に、「テレビで言ってるから」「ネットで書いてあるから」以上の、博徒の嗅覚に訴えるリアリティはあるだろうか? それ以前に、あの、あられもなく堂々とした数字は、一体何を意味しているのだろうか?気温や湿度のようなものなのだろうか?国民一人一人が判断すべき、神の託宣とでもいうのだろうか?

事を「戦局」と考えた場合、だが、「今は何も断言できない」という、判断保留、思考停止が求められる局面は不可避的、不連続的に起こる。指揮官から最下位兵まで、全員が「何が起きているか分かっていない」「どうすべきか、という展望を完全に失っている」という状況を、筆者は、耐え難い苦境であるとは全く思わない。

これは数学や宗教に於けるカオス=混沌、という、予め美的な物ではなく、違う階層の、些かハードコアな混乱 / アネイブルコントロールである。

この、多分にエキサイティングで、誤解を恐れずに言えば「美しい」「楽しい」「ヤバい」とさえ言える状況の一瞬後に、突然判断は下る。待てるか待てないかは博徒の優劣を決する最大のスキルである。

筆者はコロナネタで当連載を終える事にかなりの逡巡を覚えながら、結局こうした事になった。現在は前述の混乱状態であるが、筆者はコロナをハイプと断じており、厳密に言えば、最終回に於いては、現状で最大のハイプを題材にするしか、エッセイストとしての選択肢はない。と判断したからである。

当連載の本懐は「2020年のオリンピックは、ロクな事にならない。と、開催決定年から直感していた(その段階で、掛け金を一銭残らず「オリンピック=負け」に置いていた)者の、迫り来る国家的負け博打に対して、日々を悠然と過ごす、その月記であり、これは「21世紀のオリンピック=経済=文化」というスタンダードを扱う事である。

そして、このゲーム最大の目的は、「オリンピックが始まってしまう前」に、連載を終了する事であり、つまり無事本懐もポイントゲットも果たした事に、現在は些かの安堵を感じている。

筆者の証言は、最古のものが『菊地成孔 時事ネタ嫌い』(文庫ぎんが堂)に収録された「前略・新都知事様」で、2007年、東京都知事選で石原慎太郎が3度目の当選を果たした時に執筆されている。石原は、半ば公約として掲げた<オリンピック誘致宣言>の際に「歌舞伎町を浄化する」「あんな三国人だらけの街」「あなた、あんな街、世界中のお客様に見せられると思いますか?」と発言した。つまり、事は13年前からフィクスされていたのである。「浄化」特に「民族浄化」の使用例は古代からあるが、最近だとアドルフ・ヒトラーがよく使った。マチズモがインポテンツに陥ると発しやすい単語である。

当時、歌舞伎町在住だった筆者は徹底的な悪態で抗し、現実は石原による栄誉に満ちた誘致という最悪事態を回避したものの、最終的に開催決定まで漕ぎ着けた(その、負け戦の経過は、前述『菊地成孔 時事ネタ嫌い』に全て収められている)。筆者はその経過中も、所属しているヒップホップクルー「JAZZ DOMMUNISTERS」のセカンドアルバム『キューピッド&バタイユ / ダーティー・マイクロフォン』(Sony Music Artists / 2007)収録の「秘数2+1」のリリック、ラジオ番組「菊地成孔の粋な夜電波」(2011~2018 / TBSラジオ)の最終回のコメント、と継続的に「このオリンピックは禍を呼ぶので注意するように」と警報をアナウンスし続けてきた。上記アナウンスの記録は現在でも確認は簡にして易である。そしてアナウンスを小休止した時、コロナ禍が始まったのである。関係者への謝辞は全て書籍に譲る。読者諸氏に於いては、3年にわたるご愛読に感謝します。何度聴いてきたかわからない「観測史上最長」の梅雨が明ける頃、あなたが、コロナのみならない、あらゆる死の可能性をくぐり抜け、勝ったり負けたりしていますよう。そして博打は勝ってもすぐ次。負けてもすぐ次。3年などあっという間だ。

profile

菊地成孔|Naruyoshi Kikuchi
音楽家/文筆家/音楽講師。ジャズメンとして活動/思想の軸足をジャズミュージックに置きながらも、ジャンル横断的な音楽/著述活動を旺盛に展開し、ラジオ/テレビ番組でのナヴィゲーター、選曲家、批評家、ファッションブランドとのコラボレーター、映画/テレビの音楽監督、プロデューサー、パーティーオーガナイザー等々としても評価が高い。「一個人にその全仕事をフォローするのは不可能」と言われるほどの驚異的な多作家でありながら、総ての仕事に一貫する高い実験性と大衆性、独特のエロティシズムと異形のインテリジェンスによって性別、年齢、国籍を越えた高い支持を集めつづけている、現代の東京を代表するディレッタント。