CITY OF AMORPHOUS

街中が彼女だらけになってしまった日に、彼女はいない——連載:菊地成孔「次の東京オリンピックが来てしまう前に」34

いよいよ2020年を迎えた東京。時代の変化の後景にある「都市の記憶」を、音楽家 / 文筆家の菊地成孔が極私的な視点で紐解く好評連載シリーズ第34回!

TEXT BY NARUYOSHI KIKUCHI
ILLUSTRATION BY YUTARO OGAWA

今から、何度重ねるかわからない溜息とともに、むかし愛していたのに去ってしまった女性の話、をするので、当連載の中でも、かなりセンティメントな内容になるだろうからして、読者諸氏に於いては心してお読みいただきたい。

彼女は去ってしまったのに、今、街を埋め尽くしている。しかし今、この街を埋め尽くしている、筆者がむかし愛した、しかし筆者から去ってしまった彼女は、この街のどこにもいない。

それはさながら、リルケの詩と、マグリットの絵のマッシュアップ。

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NBS製作、TBS放送の「人間密着ドキュメンタリー」番組、「情熱大陸」は、「近代オリンピック」と非常によく似ている点がある。<アスリートのバックヤードにも、テレビ局のカメラがドキュメントとして密着する>ではない。<「情熱大陸」と云うタイトル自体がオリンピックを暗喩しているかのようである>でもない。

1998年から、実に22年の長きにわたって、ほとんど放送フォームを変えずに継続している「情熱大陸」と、1896年から、実に124年の、意外と短かきにわたって、ゆっくりと、かつ大胆に大会内容を変化させながら継続している「近代オリンピック」。継続年数こそ6対1という大差がありながら(厳密には124÷22=5・6363636363636363636363636363636363636363以下反復)、両者には強い相同性がある。

<経済効果>である。

一般語だとしても、<経済効果>と云うものに、プラス型とマイナス型がある事は言うまでもないだろう。まさか、、、、、いや。世界にはまだトランプが非戦の大統領であることを認めない程の、「苛立つ愚者たちの黒い群れ(T・S・エリオット)」がいるのだからして、<オリンピックさえすれば絶対に儲かる(プラス型の経済効果がある)>という、前近代のユートピア論のような牧歌を奏でる牧童が、飢えたる市井の民の中には言うまでもなく、富みたる官公庁、上場企業のトップの中にも多数いたとしても全くおかしくない、と云う現状を見つめるに、千葉県マザー牧場での羊毛刈りアトラクション用の電気バリカンで、そいつら全員の頭を虎刈りに刈ってしまえ!昭和の柔道部の学生のように!!という、パンキッシュな衝動が抑えきれない。

そもそもオリンピックは博打である。リオも、ロンドンも、直近のギリシャも負けた。ソウルは負けが込み、IMFの監査が入った。筆者は、英国のEU離脱と、ロンドンオリンピックの、「これが英国式のブラックユーモア?」としか言いようがない(経済破綻に近い状態で、ロンドン塔がモデルのマスコットキャラクターが大量に余り、トラックで運ばれて廃棄処分された)大赤字が無関係だとはとても思えない。

オリンピックが博打であると全員が認識するならば、世界はかなり良い賭場であろう。博徒は剃刀の刃の上で、一か八か、極限のクールとテンションを自らに課す。しかし、近代オリンピックという賭場に参加する者共の浅ましさ、愚かしさは、「博打さえすれば必ず儲かる」「したからには必ず勝つ」と思っている。という意味で、「結婚すれば必ず幸せになれる」「自分の劣等感さえ解消されれば必ず心は晴れる」と思っている者共と同程度に滑稽である。哀れかつ滑稽なので、いってみればチャップリンだ。虎刈りチャップリンである。

チャップリンはエグい。あらゆる意味で。赤狩りで合衆国を追われた1952年にはヘルシンキで、2度目のヘルシンキ大会が行われた。1度目は1940年、言うまでもなく、予定されていたが日中戦争の影響で中止になった東京大会の代替開催である。その後チャップリンが、合衆国に歓待とともに迎え入れられた1972年のミュンヘン大会では、近代オリンピック史上最も痛ましい選手村へのテロリズム(中東戦争の出張)があり、10人以上が銃撃戦で命を落とした。ヒューマニストであるチャップリンはどれほど胸を痛めただろうか? 筆者の推測では、さほど、或いは全く痛めていない。

閑話休題、こうした、チャップリンが創造したキャラクター同様、哀れかつ滑稽な者共の多くが「(まだ)情熱大陸に出ればプラスの経済効果がある」と信じて疑っていない可能性は低くはない筈だ。刈ってやるぞ頭をーっ!!

しかし、盗人にも五部だか三部だかの理と云うものがある。浜田真理子さんだけではない。近代オリンピックの開催が、必ずプラスの経済効果を生み出す。という発想根拠の中でも、かなり大きな素材が「1964年の東京大会によって、日本が世界を驚嘆させるほどの経済復興を遂げた」という事実であろう。この事実は、浜田真理子さんの事実同様、捏造でも間違いでもない。紛れも無い真実である。

しかし、因果関係はいかほどであろうか? 当連載の初回に書いた通り、筆者は最年少(1歳)の観客として、64年の東京大会を観戦している(プールへの飛び込み競技だけ→女子バレーが満員で入れなかったので)。筆者を抱き上げた最初の外国人であり、最初のアスリートは、当時ソヴェート連邦共和国の、飛び込みの選手である。そして、大変美しく優しく力強い彼女に高く持ち上げられた筆者ははっきりと確信していた。「オリンピックのおかげでインフラが整い、国家的な開発事業が成功し、雇用はうなぎのぼり。然るに日本が復興した。のではない」と。「日本は放っておいても敗戦トラウマから復興したに決まっている。怨念にも似たエネルギーの渦が生んだ、復興という決定路線の上にオリンピックが引き込まれたのだ。でないと、<オリンピックが開催されなかったら、日本は復興しなかった>ということになるではないか。アホか? 感動したがりの虎刈りチャップリンども」と。

そして、既にどなたでも同意されるであろう。少なくとも21世紀に入ってからは。とするが、博打に勝った国は非常に少ない。要するに、負けが込んでいるときに我が国は一世一代の賭場に立つのである。オリンピックに否定的な者は全員、様々な、それなりの根拠を持っている。しかし、「博打が嫌いだ。博打が怖い。博打を悪事である」と云った、博打への抵抗感が、あらゆる根拠を持つ、彼等全員の根底に共有されている。「博打は依存するほど大好きだが、このオリンピックには乗れない」という心性に移入するのは非常に難しい。博打をこよなく愛する筆者は毎日大変にワクワクしている。大負けの予感がするからである。

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言うまでもないが、本稿は、まだ正式名称も定まっていない、謎に満ちた新型ウィルスの感染拡大期に書かれている。トリキの客は泥酔の蛮行を行わない(蛮行はネットでするから)。安倍政権の長命は、小泉政権のトラウマに原因がある。トランプは戦争をしない。咳に対する拒絶は、医学的根拠に基づいて拒否権の獲得に至る。然して筆者は予想屋ではない。自分の考えを、人目を気にせずに思った通りに書いているだけだ。当たったか外れたか、そんなことはどうでも良いのだ。何せ金が動かない。

それよりも遥かに、当連載を執筆する筆者はエッセイストである。そして嗚呼。今回は詩人にすらならなければいけない。何故なら、「情熱大陸」は、近代オリンピックと同様「ここんとこ、負けが込んでいる」し、「近代オリンピック同様、初期には大勝ちが1〜2回あり、愚かな博徒に夢を見せたままになっている」事によって、1度恋が終わり、今、やっと忘れかけた、その終わった恋を、世界に、街に、ほら、思い出せよ、よく見てみろ。と見せつけられているのだから。

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2005年7月3日、番組開始後7年目の夜の事を、筆者は一生忘れないだろう。丁度1年前の2004年7月4日には、まだインディーシーンの中でさえ知る人ぞ知る存在であった、シンガーの浜田真理子氏が出演し、オンエア翌日に、CDの注文が1日で20万枚に達した。という都市伝説があった。

そして、その夜は筆者が出演し、14年住んだ歌舞伎町のワンルームマンションで、ワンパースンでオンエアを見ていた。PCのメーリングソフトは立ち上がりっぱなしになっていた(当時筆者は、インターネットでちょっと調べ物をする以外、PCを原稿の執筆と送信、メールのやり取りにしか使っていなかったので、ほぼ常に立ち上げていた)。

驚異的だったのは、テレビジョンの液晶モニターよりも、遥かにPCのモニター上である。番組が開始するや否や、「番組を見た。あなたに好感を持ったので応援する」旨のメールが届き、それは加速度的に増えて行き、15分が経過する頃は、1分間に500通以上の着信が報告され、やがてそれはみるみるうちに600、700、と数字を増やしていった。

900を超えたあたりで「このままではPCが爆発する」という激しい恐怖に駆られた筆者は、PCを強制終了させ、テレビジョンも消し、室内灯も消して、夜の歌舞伎町へ出ていった。そして、「ここなら見つかるまい」という、錯乱しているとしか言いようのない安堵と共に、「航海屋」というラーメン屋に避難し、カウンターに腰掛けるや否や、向かいのカウンターに座っていた見知らぬ会社員に「あ!あんたさっきテレビでとったジャズの人やろ!カッコええなあ!応援するわ!頑張り!!」と満面の笑顔で言われ、危うく失禁するところだった。筆者には、一夜にして有名になり、すべての人々に好意を持たれる事。への激しい恐怖がある。

そして、「<情熱大陸>があったから、今の自分があったか?」と問われれば、「東京オリンピックと同じですよ」としか言いようがない。15年が経ち、筆者の実演を聴きに来る聴衆のほとんどが、あの情熱大陸を見ていないし、あの情熱大陸を見て、筆者に興奮してエールを送った人々の90%以上が、現在、筆者の実演を聴きには来ていないか、筆者の存在すら忘れているだろう。
 
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イスラム教徒の女性がヒジャーブと云うヴェールで、目以外をすべて隠す習慣に、少年期から性的な興奮を抱いていた筆者は、彼女の、モダンアートと言うに全く躊躇がない、驚異的な技術力とコンセプトに圧倒され、たちまちファンになった。鼻と口さえ隠せば、誰にだってなれる。夢でデートもした。ヴェールを付けたままのセックスも夢想した。勿論、全裸で互いの性器を結合させている最中も、ヴェールは絶対に取らない。筆者は、驚異的なスキルを持った女性に良性の転移を起こし(=恋をし)、互いに激しく傷つけあう事への恐怖がある。神経症の症状であろう。そして恐怖が大いなる官能であることはどなたでもご存知であってほしい。筆者は自らの顔を持たぬ彼女を愛していた。

筆者の一方的で在り来たりな性愛を尻目に、現代の魔法使いの一人であった彼女は、アンチがほとんどいない。と云う奇跡の数年間を過ごし、やがて「情熱大陸」への出演が決まった。

2014年の7月13日である。「奇しくも10年後の7月」と言うのはナルシシズムの暴走であろう。何れにせよ、既に「情熱大陸」は、予め博打であった、と言う当たり前の事実を露呈しており、特にSNSという魔女狩りの装置が一般化してからは「(火傷せず)トントンならラッキー」というほどのリスキーな博打になっていた。

そして彼女は、一世一代の大博打に出た。魔法のヴェール、正しくはコンビニで売っているマスク、をこの番組で、とうとう外したのである。露出への嘆願と、露出しないことへの嘆願は、果たしてどちらが切実なのだろう。

固唾を呑む。というのは、ああいう瞬間であろう。それは、脱衣を見るよりも遥かに、フェティッシュでエロティークで、スペクタクルですらあった。既に6年前の話である。

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その後、彼女の人生がどう変わったかについては、ロマンティークとセンティメントのみによって記述を駆動させていただきたい。即ち、彼女は(検索でどこまででも追いかける。という行動を日常的にしない)筆者の前から去ってしまった。人生にはミッシングパースンの3人や4人はいた方が豊かで自然だ。しかし、シンプルに言えば、彼女は取らない方が良かったと思う。つまりこう云うことだ。探さないよざわちん。今でも愛してる。でも、君は間違ってた。

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WHOのトップがテレビに出演し、サーズだかマーズだかがステージ5から6へ移行しただの、パンデミックがどうのと、大いに恐怖を煽ったのが何年前だかは覚えていない。理由は兎も角、我が国は甚大な被害が出なかったし、世界的にも、警告されるようなパンデミックは起こらなかった。あの一件が遺した最大の効果は、「映画で、国連クラスの組織のトップに、有色人種の女性がキャスティングされるようになった事」であろう。

あれから何年が過ぎただろうか。嫌咳権どころのリージョンではなくなった世界は、前の東京オリンピックの次ぐらいに懐かしい、「オイルショックの時の、大阪府の主婦の狂態(トレペの買い占め)」の、リアル全国版の様相を呈している。マスクがなくなり、紙オムツがなくなり、これを書いている最中に、とうとうトレペまでなくなった。40年前のあれはヤラセである。カットが割ってあったし、カメラは下舐めで、「オカン達の爆走」を効果的に見せるように位置していた。

エッセイストとして、この事態をどう書けば良いのか。言うまでもない、書かないのが一番スマートなのである。ヒステリーを求める民は、マスクがそもそも、あらゆる微生物をブロックする予防用グッズだという(マスクがブロックできるのは花粉症だけである)、一言クソセコいとしか言いようがない考えをそのうち改めるだろう。我々はまず、マスクを外すべきだし、ついでに副流煙を吸ってみるべきだ。「<クレームは、病気になってからでは遅い>等という事ない。クレームこそが病気なのだ」等と云うウィズダムは、そのうち必要もなくなる。「恫喝を仕掛けてくる相手に、恐怖と怒りを返すのは、太陽に向かって鏡をかざすような行為、とまでは言わないが、チンピラに突っかかってゆくような行為、即ち思う壺だ」と言うウィズダムも。

筆者が、他にいくらもネタがあるというのに、こんなベタなネタで、残り少ない(もしオリンピックが中止、もしくは延期になっても、連載は予定通り終了する)1回分を埋めるのは正直心苦しい。しかし、昭和43年から重症花粉症(そんな名称すらなかった)だった筆者にとって、マスクが手に入らない日々は結構な憂鬱で、それは、何度重ねるかわからない溜息とともに、むかし愛していたのに去ってしまった女性の話をするから、という言い訳と癒着している。

筆者は今、マスクなしでマンションのベランダに立ち、通りを見下ろして何度も溜息をついている。何が経済効果だ。何がコストパフォーマンスだ。何がエビデンスだ。何がポイント10倍だ。筆者は、近代オリンピックを情熱大陸だと思うように、科学は宗教だと思っている。その時信じられていた科学は、必ず後に覆されるからだ。つまり、何が科学だ。経済も宗教である。あれが理論的なら、恐慌は予測できる筈だ。つまり、何が経済だ。大負けすれば良いのだ。街中がざわちんになってしまった日に。

profile

菊地成孔|Naruyoshi Kikuchi
音楽家/文筆家/音楽講師。ジャズメンとして活動/思想の軸足をジャズミュージックに置きながらも、ジャンル横断的な音楽/著述活動を旺盛に展開し、ラジオ/テレビ番組でのナヴィゲーター、選曲家、批評家、ファッションブランドとのコラボレーター、映画/テレビの音楽監督、プロデューサー、パーティーオーガナイザー等々としても評価が高い。「一個人にその全仕事をフォローするのは不可能」と言われるほどの驚異的な多作家でありながら、総ての仕事に一貫する高い実験性と大衆性、独特のエロティシズムと異形のインテリジェンスによって性別、年齢、国籍を越えた高い支持を集めつづけている、現代の東京を代表するディレッタント。