「2020年」に向けて、大なり小なり動きを見せ始めた東京。その変化の後景にある「都市の記憶」を、音楽家/文筆家の菊地成孔が、極私的な視点で紐解く連載シリーズ第9回!
TEXT BY NARUYOSHI KIKUCHI
ILLUSTRATION BY YUTARO OGAWA
第9回:2017とは?(特にここ数年全く変わらないが)
私にとって「今年を総括する」という時、それはもう時事ネタではなくなってしまった。「あなたの<今年を表す一文字>は?」アホくさ。特に「北」とした人々。結構はっきり言うが、君たちは後先を考える。という能力をアプリかなんかの中に落としてきたか? 今年が「北」なら、来年も同じ理由で、ほぼ「北」だ。だったら。
考えが浅すぎないか? 再来年辺りには、「ものすげー北」とかになっちゃって、一文字では済まない。「今年を総括する一文字」は、芥川賞とかと同じで「今年は該当なし」もありにした方が面白い、絶対。まあ、「虎」にしたって、50歩100歩だ。勿論、トランプの事である。「札」でも良いけれども、小賢しい感じは抜けない。トランプが実際に髪型をトランプのキングみたいにしている事のヤバさの、足元にも及ばない。
そして、ただ面白いだけで言えば、変わり雛のが面白い。一時期、変わり雛の株価は著しく下がったが、継続は力なり。昨年のことだが、テレビ番組の街頭インタビューで、自分は森進一のファンだという壮年の女性が、自分がいかに森進一のことを好きか語り、グッズもいろいろ見せて、止めに「写真も撮らせて貰った」と言って、デジタルカメラを出してきた。
果たして「ほら、これや」と言って彼女が出してきた写真は、なんと(驚きますよこのカッコ抜けたら)、変わり雛だった。彼女は雛人形の写真を、「これは森進一本人だ」と強弁し続けた。スタッフが笑いながら「本当に森さんですか?」とか突っ込んだのだが、「そうや、見ればわかるやろ」と言って譲らない。私は涙を流して笑いながら、このまま笑い死ぬかと思った。この不条理な映像を私は一生忘れないだろう。この映像は、変わり雛がない限り絶対に存立し得ない。
流行語大賞も「インスタ映え」って、もう本当にどうにかしてくれ。「北」と違って、「来年もインスタ映え」という事はほぼほぼありえないので、「今年を象徴する」という意味ではかなり正しいが、正しかろうと嫌なものは嫌だ。え? 嫌な理由? 私は、ポルノグラフィやグラヴィア誌や水着写真集、というものに対して、貨幣や紙幣を払って育った人間である。PCがコロッケを、スマホが小さなビスケットを、各々インターネットによって、無料でユーザーに提供するようになったら、絶対に食費をゼロに抑える者たちが出てくる。最初は極論者的な行動者だった彼らも、そのうち、最強の当たり前になるのである。
え? 何を言ってるかわからない。それなら結構だ。なんか適当に検索でもしているが良い。モンゴル人の頭部が割れて、医療用ホチキスで止められた、中から別人が出てきそうなグロテスクアートみたいなやつ。あれはものすげえインスタ映えするぞ。SNSの世界に性善説はない。法規制しない限り、そのうち、死にそうな顔、や、てひどい傷、や、痛々しい全て、つまりインスタ映えのダークサイドの側面が爆発する。ミクシィの時も、ツイッターの時も、馬鹿どもは「荒れないんだよ今度のは!」と目を輝かせて私に言い、私は「命にかけていうが、1年以内に荒れて燃えてが当たり前になる」と言ったら、「お前性格悪いな」と言った。私の性格は良いとは言えないが、悪さに関して、あいつらの頭とは比べ物にはならない。
「クレージーキャッツが一人、また一人と亡くなってゆく。という時代」も、終わってしまった。犬塚弘さんだけが残ったのである。それはもう、数え終わったこととほぼほぼ同義である。悲しい時代だったが、時代を象徴することが悲しみであって悪いはずがない。そしてそれが終わった。
こうして、54歳の私にとって、「今年を象徴/総括する物事」は消え失せてしまった。レコード大賞も、とっくにどうでも良い。特に「あまちゃんのテーマ」が、最優秀作曲賞を受賞したあたりから、もう「いやあれは、誰がどう考えたって話題賞とかでしょ。<黒い花びら>から連綿と続く、日本歌謡界に於ける<最優秀な作曲>の意味、って、もうどうでもいいのか? 誰だ審査員は?」と心の奥底から問いのテレパシーを投げたら(友達が作ったから、まあ嬉しいが、それとこれは別だ)、ちゃんと届いて、日本有線大賞がまず無くなった。レコード大賞も近いうちに無くなるだろう。つまり、もうとっくに、「この1曲」もない。「俺のこの1曲」はあるが、問題は、それで満足できないことだ。恐るべきことに、個人が個人的な、ささやかな喜びより、国家的な共有を目指すインターネットファシズム傾向に、私は流されてしまっている。外気を吸っているから仕方がない。
数年前、「パンダの子の次の名前は、短いセンテンスの繰り返しにはしない(かも)」と上野が公言した時はかなり興奮した。あの興奮は忘れられないが、現状はご存知の通りである。漫才のチーム名ほど自由自在にしろとは言わないが、私の純情は私の予想を遥かに超えて期待しており、私は好きな女性に振られたぐらいの気持ちのままだ。パンダの名前が繰り返しになったことで、振られたぐらいの気持ちになっている日本人は、ひょっとして私だけかもしれない。宇宙で。
そんな私が現在、「ああ、今年も終わったな」と心から感慨に耽るのは、「今年も1年、スマホを買わずに過ごせた」という事だけになってしまった。敵はそこまで押し寄せて来ている。私にクリティカルヒットを打ち込み、陥落寸前まで追い込むのはシャザム(音声検索ソフト)だ。今の所、居酒屋で気になる音楽が流れてきた時は、同行者の誰かにシャザムで検索してもらい、それをペンでノートに書き写している。私はユ○○○ー○とシャザムだけのボードが欲しいのだが、そういう事が現在のテクノロジーでは出来ないらしい。絶対に嘘だ。
「それはお前さ、チャーハンの中のネギだけ欲しい、と言っているようなもんだ(えっへん)」と、わけ知り顔に言われた。こいつは、坂本龍馬が教科書からいなくなるかも。と言われて、「まあ、歴史の授業ってのは、現代から逆行してゆくのが良いに決まってるよな」と言って、ちょっとたじろぐほどドヤっていた。原理的に言って「歴史教育は現代から逆行」には、ほぼほぼ意味はない。というか、逆行は順行(現状)を呼び寄せることしかできない。順行が逆行を呼び寄せているように。
この程度の発想でドヤれるのが平均値である、インスタ映えする世の中と私は命がけで戦っている。スマホを買わないでいられるかどうかだ。この戦いは二次大戦の名だたる消耗戦や激戦に近く、よしんば戦いが終わった後も私にはPTSDが残るだろう。私は「SNSをやらないと人はダサくなり、クリエイティヴィティは下がってしまうかどうか?」という人体実験を、自らの体を張って行っている。今年でこの戦いも10周年になった。ああ!それが今年の!!!
菊地成孔|Naruyoshi Kikuchi
音楽家/文筆家/音楽講師。ジャズメンとして活動/思想の軸足をジャズミュージックに置きながらも、ジャンル横断的な音楽/著述活動を旺盛に展開し、ラジオ/テレビ番組でのナヴィゲーター、選曲家、批評家、ファッションブランドとのコラボレーター、映画/テレビの音楽監督、プロデューサー、パーティーオーガナイザー等々としても評価が高い。「一個人にその全仕事をフォローするのは不可能」と言われるほどの驚異的な多作家でありながら、総ての仕事に一貫する高い実験性と大衆性、独特のエロティシズムと異形のインテリジェンスによって性別、年齢、国籍を越えた高い支持を集めつづけている、現代の東京を代表するディレッタント。
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