YOSHITOMO NARA DRAWINGS LAST 30 YEARS

奈良美智の30年分のドローイングを観ると視えてくること——Kaikai Kiki Gallery(〜3/8)

奈良美智と村上隆。アーティストとしては作風、スタイルもまったく異なるのに、現代美術をリードするビッグ2としてしばしばセットで語られる。村上の主宰するギャラリーでの奈良の個展「Drawings : 1988-2018 Last 30 years」。30年分、総点数約600枚のドローイングがギャラリーを埋め尽くす。この展示が明らかにしてくれるのは、奈良にとって、描くことは息をするようなもの、つまり生きることそのものであるということだ。

TEXT BY Yoshio Suzuki

「奈良くんってさ、ホーボーなんだよね」とあるとき村上隆がポツリと言った。

ホーボーとはもともとは19世紀末から20世紀初頭、不景気のアメリカで仕事を求め鉄道で旅をしながら放浪する労働者のことだ。奈良美智のこれまでの人生やアーティストとしての活動を見て、村上はホーボーに例えたのだろう。

手紙やファクス、原稿の下書きなどもある。Photo by Yoshio Suzuki

奈良と村上。同時代のアーティストではあるが、作品はもちろん、ライフストーリーやおそらく目指しているところもぜんぜん違う2人。奈良は村上が主宰するカイカイキキギャラリーで30年を回顧する展覧会を行った。そんな機会に村上が奈良について言及した言葉を思い出したのだ。

売れっ子アーティストとなれば、いやでも旅はする。世界各地の美術館から展覧会の誘いは来るし、ギャラリーからの引き合いはくる。コレクターから招かれることもあるし、アートフェアに顔を出すこともあるだろう。村上もきっと年間に旅する回数も相当だろう。制作とマネジメントの拠点は東京&埼玉とニューヨーク、映像のスタジオが札幌にあり、ギャラリーを元麻布と中野に運営している。しかし、それは出張や移動であって、旅ではない。村上から見たら奈良は旅人、ホーボーみたいに見えるのだ。

手近な紙やダンボールに描かれている。筆記用具だけだったり絵具を使っていたり。Photo by Yoshio Suzuki

奈良は1959年、青森県弘前市に生まれた。弘前と聞くと知識がなければ、本州の北の果て、県庁所在地でもない地方都市と思うかもしれないがそれはちょっと違う。明治時代には仙台、盛岡に次ぐ東北第3の都市だった。学園都市とも言われる。青森県の国立大学は青森市ではなく弘前市にあるのだ。街なかに前川國男(ル・コルビュジエ、アントニン・レーモンドの元で学んだ日本のモダニズム建築の旗手)による建築物が多いのだが、それは前川がこの地の出身だからではなく、母の生家が弘前藩士だった縁によるものだが。

奈良が子ども時代、両親は共働き、兄弟はいたものの、2人の兄は歳が離れすぎ、一人で絵を描いたり、家から牛乳を持ち出し、それを水筒代わりにして、家の裏山に一人で出かけることも多かったという。奈良の旅の原点はそこかもしれない。

左上は絵本『ともだちがほしかったこいぬ』のイメージドローイングだと思われる。世田谷美術館「時代の体温」展(1999年)のポスターに描かれている。Photo by Yoshio Suzuki

高校を卒業し、東京造形大学の彫刻科に合格するものの、自分がやりたいのは絵画であると考え、一浪し、武蔵野美術大学の絵画科に入学する。1980年20歳のとき、ヨーロッパとパキスタンを3カ月放浪した。これが奈良の本格的な最初の旅だろう。大学に支払うべき2年度の授業料をこの旅の費用に使ってしまい、それで武蔵野美術大学を中退することになり、学費の安い愛知県立芸術大学に入学し直した。

枠があるということはペインティングの下絵、アイディアだろうか……などと考えてしまう。Photo by Yoshio Suzuki

1983年にも3カ月ほど、ヨーロッパを旅した。中国も。住む場所には執着しないように見える奈良だが、旅では以前訪れた場所に再び足を運び、旧知の人との再会をよくするようで、それも彼の旅のスタイルである。

1987年、3度めのヨーロッパ旅行。旅日記に奈良はこんなことを記している。9月18日、フランス南部の町、タラスコンからストラスブールに向かう列車の中で書いた。

「旅の実感を味わいながら、自分を思うとき、それはそれは懐かしく、夢のように過ぎていった日々に自分が交わって溶けていく。そんな気持ちで頭が空っぽになってしまう。僕はなんていい旅をしてるんだろう」(『美術手帖』2000年7月号)。

この旅の途中、デュッセルドルフに住む友人の家に何日か滞在しているうちに、留学を決意した。翌年1988年の5月、奈良はデュッセルドルフアカデミーに入学するため日本を旅立つ。28歳だった。以後、12年間、ドイツが拠点となる。

描くこと、旅をすることからは逃れられない

今回の展覧会「Drawings : 1988-2018 Last 30 years」は奈良の30年分のドローイングを一度に見渡すものだ。そういうわけで1988年というのはデュッセルドルフに移り住んだ年、そこから現在までということになる。

渡独した年、1988年のドローイングから展示は始まる。Photo by Kozo Takayama

「美術学校で習うような表現方法とはちょっと、いや、かなり違う。そんな子供時代からの延長にある表現、言葉でうまく表現できなかった、いや、言葉よりも描いた方が思っていることを気持ちよく伝えられるはずだ、という確信に満ちて描かれているドローイングたち」(本展に寄せた奈良によるアーティストステートメントより)

奈良によれば、ドローイングを描くことは息をするようなものだとも言っている。ときにそれは溜息だったり、吐息だったり、叫びだったり、欠伸だったりする。

線だけのもの、色を付けたもの、メモのようなものなどいろいろ見せている。Photo by Yoshio Suzuki

さらに美術史に自分の作品が残るとするならば……としてどんな位置に置かれるかまでにも触れている。もしそうなったとしてもそれはペインティング作品が対象になり、ドローイングはそこからはみ出す存在だろうということも(実際にはあるドローイング群がニューヨーク近代美術館にも収蔵されていて、それが後世の研究者の調査対象になるかもしれないが)。

封筒の表や裏に描かれることが多い。箱を潰してそこに描いたものも。Photo by Yoshio Suzuki

奈良にとって、ドローイングを描くことはカンヴァスに絵具と筆で描くこととはまったく違って、ごく日常的なものであり、息をするのと同じくらいに当たり前のこと、意識せずにやっていることなのだ。同様に、彼にとって旅をすることは、学校に通い、なにかを学んだり、そこで教師に巡り合ったり、友だちを見つけたりすることよりも優先度が高く、やらねばならないことなのだ。ドローイングも旅も生きることそのものであり、常にある静かな衝動であった。そして、これからもきっとそうなのだろう。

展示は1988年から2018年までクロノロジカルに淡々と。額装され壁に掛けられたものとテーブル上に展開されるものと。Photo by Kozo Takayama

『POPEYE』2018年3月号「二十歳(ハタチ)のとき、何をしていたか?」に奈良も登場している。若い日のヨーロッパ旅行が自分を変えてくれたという話をしたあとで、こう締めくくっている。

「旅は今でもずっと続けていて、2002年にタリバンがいなくなった直後にアフガニスタンに行ったり、自分の祖父が炭鉱作業員として過ごしたサハリンを訪ねたり。自分は本当はこういうことがやりたかったのかなと。そういうことがわかったのは、今まで絵を描いてきたおかげでもあって。結局、僕はどこにでもいる。たまたま絵が少し上手な子で、ずっと描き続けてきた。それだけのことなんだと思うんです」

奈良美智「Drawings : 1988-2018 Last 30 years」
会期 〜3月8日(木) 開廊時間 11:00 〜19:00 閉廊日 日曜・月曜・祝日

奈良美智|Yoshitomo Nara
1959年青森県生まれ。大学院修了後に渡独、国立デュッセルドルフ芸術アカデミーに在籍。ケルン在住を経て2000年に帰国。以降、国内外で大規模な個展を開催する。

profile

鈴木芳雄|YOSHIO SUZUKI
編集者/美術ジャーナリスト。明治学院大学非常勤講師。雑誌ブルータス元・副編集長(フクヘン)。共編著に『村上隆のスーパーフラット・コレクション』『光琳ART 光琳と現代美術』『チームラボって、何者?』など。雑誌「ブルータス」「婦人画報」「ハーパーズバザー」などに寄稿。