さまざまな差異を包摂する世界に向けて、アートに何ができるのか——。キュレーターで批評家の四方幸子が、未来の社会を開くインフラとしての〈アート〉の可能性を探る連載「エコゾフィック・フューチャー」の第13回は、アイヌの地を旅し、時間や空間を超えて広がる人と人のつながりに身を置きながら、未来の息吹に触れる。
text by Yukiko Shikata
連載エコゾフィック・フューチャー
Ecosophic Future 13
ウポポイ【公園】舞踊公演提供:(公財)アイヌ民族文化財団
ウポポイ【公園】舞踊公演提供:(公財)アイヌ民族文化財団
text by Yukiko Shikata
雪景色の中を向けひた走る、特急北斗。苫小牧を過ぎると「次は白老(しらおい)」*1 とアイヌ語でもアナウンスが入る。白老は、苫小牧と登別の間にある太平洋に面した25kmの海岸線をもつ町。ここにはかつて白老アイヌコタン(部落)があり、現在も北海道のアイヌ文化の主な拠点のひとつとなっている。アイヌ文化は「ゴールデン・カムイ」でここ数年とりわけ注目を浴びているが、白老には2020年に国立のアイヌ文化復興拠点「ウポポイ」(民族共生象徴空間)*2 がオープンしたので、この町の名を耳にしたり、すでに訪れた人もいるだろう。
白老に来るのは8度目で、今回は、台湾の太魯閣(タロコ)族*3 のアーティストでシャーマンでもある東冬候温(トントン・ホウウェン)(以下「トントン」)を含む3人の台湾のアート関係者の視察に付き添った(2月14〜16日)。トントンは、2015年に台北で会って以来、いずれ日本で紹介したい、できればアイヌ文化との接点をと願っていた存在である。2020年末に台北を「LAB KILL LAB」というプロジェクトのために訪れたが*4、同じプロジェクトの別フレームにトントンが参加、加えて彼が生まれ拠点とする花蓮県洞門村*5 の自然との交歓をテーマとした新作パフォーマンス「Hagay Dreaming*6」も発表された。その数日後、トントンの住む村をアーティストたちと一緒に訪れたが、折しもクリスマスで、村中で祝ったことを思い出す*7。
トントンは、歌唱、作詩作曲、映像など多面的な活動を展開し、ライブで来日したこともある。近年はタロコの若手のクリエイターによる商品のプロデュースや地元のアートフェスティバルのディレクションも手がけ、昨年には先住民研究で修士号も取得している。
トントンは、幼少時から祖父やシャーマンである祖母の日本語を聞いて育ち、片言だが話すこともできる。個人的にも何度か来日しているが、昨秋トントンから、数年ぶりに2月に訪れると連絡があり、それならぜひ白老へと思い、「白老文化芸術共創」のディレクター木野哲也に相談、彼や関係者の協力のもと、素晴らしいスケジュールを組んでいただいた。私がアテンドすることになったが、あと2人、若手のキュレーターでジェンダーや先住民研究を行う呂瑋倫(ルー・ウェイルン)(以下「ルーさん」)と陶芸作家の翁程軒(ウォン・チュンシュアン)(以下「オンさん」)もジョインしてくれた。
そして2月14日、新千歳空港で彼らを出迎え、1駅目の南千歳で北斗に乗り換え30分、白老駅に到着した。
トントンたちとの白老に入る前に、少し長くなるけれど、ここで私と白老とのつながりを伝えたい。
最初に白老を訪れたのは、2013年の5月、初回の札幌国際芸術祭(SIAF)2014*8 にキュレーターとして関わった時で、ポロト湖畔にある一般財団法人アイヌ民族博物館(通称:ポロトコタン)(以下「アイヌ民博」)*9 を訪れた。入口には、ポロトコタンのシンボル的存在である巨像コタンコロクル(村長)*10 があり、別世界に誘われるかのようだった。博物館は、規模は大きくないものの、白老アイヌを中心とした展示が充実して興味深かった。ポロト湖に面した屋外では、木の檻の中でヒグマの子やアイヌ犬が飼われ、吊られた干し鮭が並び、茅葺のチセ(アイヌの家)の中で、アイヌの人たちによる伝統舞踊や歌の公演を観ることができた。公演に加え、観客への声がけも絶妙で、アジアからの観客への各国語による対応には息を呑んだ。アイヌ工芸作家でもある野本正博館長とお話ができ、その人となりに感銘を受けた。
アイヌ民博は、長くアイヌの人々が住んできた白老で、地元の人々によって1984年に開館、常設展に加えて企画展、そしてアイヌの伝承を学ぶプログラムや出版、海外の先住民との交流など先見的な活動を積極的に行ってきた。学術的なアイヌ文化の伝承と普及と同時に、観光的な側面を備えているのは、前身が1965年にこの地にオープンした観光地「ポロトコタン」だったことによる(後述)。
ちょうどこの頃(2014年)に、アイヌ民博が国立化されるというニュースが流れる*11。それを知った時には、複雑な思いがよぎった。アイヌを中心に白老の人々が立ち上げ維持してきた施設を壊し、国立化する、それも政府が「オリンピック・パラリンピックに向けて整備する」としたこと。国立化がもたらす意味を広く社会で検討しないまま拙速に進められること、そして何よりも、当事者であるアイヌの人々同士の分断を招きかねないのではと。そのような懸念を抱きながら、アイヌ民博やアイヌの知人や関係者と話すことはあったけれど、時間だけが過ぎていった(2014年は「ゴールデン・カムイ」の連載が始まった年でもある)。
2018年3月、アイヌ民博を含むポロトコタンは35年の歴史を閉じ、同じ敷地に2020年の開館をめざしてウポポイが整備されていった(野本館長は、ウポポイに異動された)*12。
ウポポイは2020年7月12日に、新型コロナウイルス感染症の影響で予定より約3カ月遅れてオープン、私は初日に訪問することができた。第一印象は、ポロトコタンの風情から一変し、整備された自然の中のテーマパーク、令和の文化観光施設というものだった。緊張感を持って初日を迎えた国立アイヌ民族博物館の立石学芸主査やウポポイから加わった教育普及スタッフの両角祐子(元教え子)に挨拶し、博物館の建物へ。展示室はクリーンで整然としていて、展示物はクオリティが高く、新しいものが多い。その面で、実際使われていたものも多い既存のアイヌ博物館とは一線を画している。ショップは、工芸品やオリジナル商品が揃っているが、書籍は一般的なものに限られている。
ウポポイは、博物館と公園が別の省庁の管轄となっていて、外からは見えにくいが内部的には複雑な部分があるだろう。しかし佐々木史郎博物館館長を含め、関わっている多くの研究者やスタッフの方々—アイヌも和人も含め、ウポポイ全体で—から、真摯にアイヌ文化の紹介や普及に取り組んでいるパッションが伝わってくる。
以前のアイヌ民博では、白老アイヌを基軸に各地のアイヌについても対象を広げていたが、国立アイヌ民族博物館では、各地のアイヌが対象となっている。館内では、アイヌ語が第一言語として最初に記され、常設展示は「私たち」—アイヌの人々—のまなざしからなされ、大きなスペースに6つのテーマで構成されている。展示品に、この館のための新規制作が多いのは、積極的に現代のものや最新の研究成果を反映したものを見せるという方針に依っている。展示では、今を生きるアイヌの人々の多様な仕事や生活も紹介され、また展示物の主な解説は、それぞれが作られた地域の方言で、アイヌ語を学んだり継承する人に依頼して書かれたという。
一般的に、博物館の展示はここ数十年でかなり変化した。半世紀ほど前の、特に私設や小規模の博物館では、いささか雑多に収蔵物が並んでいたが、1980年代頃から学術面が強化され、システマティックで整然とした展示が主流になる(以前あったアイヌ民博は、この2つの間にある気がする)。今世紀以降は最新の学術的な成果を反映し、空間や展示方法、映像やインタラクティブシステムの活用を含め、来場者を取り込んだ体験的なものになっている。加えて近年は、「誰が何の目的で、誰のために、どこから取得し、どのように収蔵・展示し、誰に見せるのか?」という多文化社会における問題系から博物館や展示のあり方を問う姿勢が、ますます重要となってきている。
ウポポイの国立アイヌ民族博物館は、これらの動向を踏まえてアイヌの視点やアイヌ文化を優先させた取り組みをしている。その意味でこの館は、ウポポイという新た場で、現在から未来を見据えつつ、できる最大限のことを行なっているように思える。それはまた同時に観る側に、この館以外の博物館や施設にも足を運んで、複数のまなざしで見ていくことの大切さを喚起してくれる。アイヌ文化に出会える施設は、白老の町にも道内にもいくつもあるので、ぜひ訪れてほしい。それに加えて、アイヌの人々が住んでいた場所や自然をめぐるのも、またとない体験となるだろう。
少し話題が飛ぶけれど、2022年1月にウポポイの隣のポロト湖畔に星野リゾート「界 ポロト」が開業したことも伝えておきたい。博物館や白老の町の日常とはまた異ったアングルからの、アイヌへのまなざしといえる。
「白老は わが故郷よ 驛(えき)を出て 先(ま)づ眼にしたる タモの大木」
白老の駅前ロータリーは、線路をはさんでウポポイの反対側にあり、タモの木のたもとに白老の歌人、満岡照子(1892〜1966)の歌碑が佇んでいる。照子は、17歳の頃から歌人として活動し、「中央歌壇」(当時の表現)でも知られていたという。彼女の夫は満岡伸一(1882〜1950)、佐賀県生まれで8歳の時に北海道へ移住、1912年から白老郵便局長を務め、白老のアイヌの人々と懇意にする中、自らアイヌ研究を進め、1924年に『アイヌの足跡』を出版している*13。
「アイヌ古来の風俗、習慣の中には全くおとぎ話の国でなければ見られないような美しいことや神の国でなければ行われないような純真崇高なものが秘められている」(満岡伸一)*14
伸一は、約100年前の白老アイヌの生活や装身具、踊り、儀式などを、自身が見聞きした体験から丁寧に綴りあげた。時折り挿入される素朴で温かみのあるイラストが、その人となりを物語っている。満岡は、アイヌの人々が「内地人に同化され、アイヌ古来の特殊の風俗習慣は日に月に廃れ、今後数年ならずして全く其の足跡をも存せざるに至らんとするを惜しみ」書いたという。ここには「満岡伸一(旧姓蒲原)」と記されている*15。
『アイヌの足跡』を私に授けてくれたのは、蒲原(かんばら)みどり、札幌在住の美術作家で、2015年頃のことである。10年前札幌で知り合ったが、凛とした空気と詩的で機知に溢れた感性をもっている。すでに気づかれたと思うが、満岡伸一は彼女の父方の曽叔父で、照子は曽叔母である。そして2021年の6月28日、訪れた札幌のト・オン・カフェでミラクルが起きた! オーナーの中村一典がカウンターにたまたま並べていた写真の中に、満岡伸一・照子夫妻と子供たちが写っていた。中村から、詩人の文月悠光が伸一・照子のひ孫と聞いて驚き、中村は、私から伸一・照子と蒲原みどりの関係を知って驚く。この瞬間に、文月と蒲原がつながったのだ。すぐに蒲原に伝え、写真を見せるととても驚き、家族に知らせてともに喜んだという。はからずも、途切れていた糸をつなぐ役となった。
つい先日は、白老の仙台藩白老元陣屋資料館で、2022年の秋に企画展「郷土の歌人 満岡照子」が開催されていたことを知った*16。会期中には、文月悠光が「私の曾祖母 照子の生涯と歌」と題した講演会を行っていた。
伸一は『アイヌの足跡』で、「白老アイヌの沿革」についてこう綴っている。「今の熊坂エカシ(アイヌ語で「男性の古老」)より11代前の、祖先イペニックルが日高アッペッより移住したのに始まると言い伝えられている」。その後、今のエカシの6代前の時代に松前藩の会所ができ、和人が分散していた小部落を海岸に集合移転させたことで初めて白老コタン(部落)ができたという。伸一は、現在の白老コタンは白老駅から東方6、7町(約600〜700m)の海岸近くにあり、約90戸あったとしている。
『アイヌの足跡』が出版された前年の1923年には、文字をもたないアイヌの口承文芸ユーカラをアイヌの知里幸恵が日本語とローマ字に起こした『アイヌ神謡集』が刊行されている。
バチェラー八重子、偉星北斗と並んで「アイヌの三大歌人」とされるのが、白老コタンで生まれた森竹竹市(1902〜1976)である。竹市は15歳の時、俳人で白老郵便局長を務めていた満岡伸一のはからいで同局で仕事を得たが、俳句会「老蛙会」へも誘われる。照子の影響もあり、竹市は21歳で「筑堂」という俳号で活動を開始する。その後の国鉄勤務を経て、30代には白老に戻って詩集を自費出版、35歳で出版した『若きアイヌの詩集 原生林』では、以下の言葉を残している。「同族の同化向上に喜びの心躍るを禁じ得ない反面、何か言い知れない寂寥の感に打たれるものをどうすることもできない」。その言葉ににじみ出ているように、竹市は後半生をアイヌ文化の伝承や普及のために捧げた。晩年、1967年から白老町立白老民族資料館初代館長を務めたが、それが後のアイヌ民博となる。
「神われに大業をせよの啓示かな 40.3.15(思入院)
アイヌコタンポロトに名残止どめけり」(森竹竹市)*17
1965年に白老コタンが海岸近くからポロト湖畔(現在のウポポイ)に移転、「ポロトコタン」という観光施設がオープンしたが*18 、その頃の歌だろう。移転は、1960年代の北海道観光ブームが白老コタンに大きな影響を及ぼしたことによるという。ポロトコタンも同様で、観光客が押し寄せたため、「白老民俗資料館」を1984年に「アイヌ民族博物館」という登録博物館にすることで、観光だけでなく民族伝承に力を入れ始めたという*19。その「アイヌ民族博物館」が、現在のウポポイの国立アイヌ民族博物館へと至ることになる。
蒲原みどり、満岡伸一・照子、文月悠光、そして森竹竹市…。白老をめぐる中でおのずと出会ったアイヌ文化や歌や文学、芸術のつながりは、ささやかだけれど、私の白老の原点となっている。
冒頭のトントンたちが白老駅に着いた場面に、ようやく戻る。
まず到着したのは、木彫りが施された一軒家のアトリエ&カフェ「いぶり工藝舎」。薪ストーブが焚かれ、剥製に加えて美しい木彫工芸がそこここに置かれ、全体で居心地のいいい小宇宙を成している。ここではオリジナルのムックリ(竹製の口琴)*20 を作っているが(水野良子さんが笑顔で製作中!)、カフェもあり、ムックリ作りワークショップなども行なっている。経営者は、今回のキーパーソンである木野哲也、地元の工芸の伝統と創造の発信を核に、さまざまな人が出会い集う場となっている。木彫りは水野練平によるもので、アイヌ民博で働いていた頃に習得し、伝統技法の木彫やオリジナル作品を手がけている。
トントンは、持参の台湾の口琴を披露してくれ(日本のものと違い、銅が差し込まれている)、演奏! 音は日本のものと変わらない。その後、トントンたちとムックリ制作に挑戦した。最後の削り(仕上げ)部分だけではあるものの、刃がうまく入らず削れない。トントンは真っ先に仕上げ、余裕で演奏! オンさんも次に仕上げて演奏! ルーさんも仕上げて音を出したが、私はほぼ良子さんに仕上げてもらった上、音を出す前に時間切れ!……とはいえ、かけがえのない体験となった。
この日は、白老アイヌの人々が小部落を成していた地や聖地を雪とともに踏みしめた。まず訪れたのは、海岸の近くの小高い丘の間にある小さな入江で、海を臨む左右の丘は、それぞれ聖地や砦となっている。
その後、聖地のアフンルパロ(アイヌ語で「あの世への入口」という意味)へ。ずっしりとした巨大な岩が積み上がった崖下の裂け目に開いた穴とその向こうの空間だが、残念なことに現在は砂でふさがっている。以前は海のみぎわにあったが、すでに埋め立てられ、手前では工事が続いている。海が遠くなり、自然の流れが遮断されてしまった聖地の光景に、言葉を失った……。
その後、「歩いて巡る屋外写真展」*21(主催:ウイマム文化芸術プロジェクト、こちらも木野がディレクター)を見に、水産業者が軒を連ねる海岸近くをトントンたちと歩く。漁業に生きる白老の人々の営みを写した写真(1950〜1970年代)を、海辺沿いのいくつもの建物の壁に大きく引き伸ばして展示したもので、写真が撮られた当時の白老がオーバーラップする体験となった。歩いていると高齢の男性が鱈を干していて、ついつい話しこむと、なんと当時6歳だった自分も写っているという! その後近所を歩き、幼少の本人が写った写真に遭遇! なんともいえない感動が突き抜けた。
屋外写真展は、昨年「白老文化芸術共創」を訪れた時に初めて見たのだが、両者が相互に連携して地域を活性化している印象をもった。「白老文化芸術共創」は2021年に開始、地域の人々とともに町や自然の中でプロジェクトを行うことで、ウポポイやウポポイ来訪者と町をつなげ、地域の文化・観光産業の活性化することをめざしている。具体的には、アーティスト滞在を含め地元の人々や組織、店、公共施設などとともにプロジェクトや展示をこれまでふた夏、実施してきた。昨年は梅田哲也や是恒さくら、鈴木ヒラクなどの滞在制作やイヌイットの工芸など、広範囲の展示に加え、地域の鯨伝承や町の記憶を元にした新作人形劇、採取した土で顔を作り、野焼きした上で展示する参加型プロジェクトなど、いずれもユニークなものだった。
午後は、海沿いの国道から車で20分(約6Km)ほど森側の奥地に入ったところにある飛生アートコミュニティーを訪問、飛生芸術祭の主宰者で彫刻家でもある国松希根太が迎えてくれる。彼の父で彫刻家の国松明日香らが1986年に廃校を共同アトリエにしたことに始まり、自主的に音楽やアートのイベントを開催してきた。希根太は第二世代として、20年にわたりこのアトリエで創作活動を継続、校舎の裏にある敷地では2011年より森づくりプロジェクトを主導している。毎年9月に開催される飛生芸術祭(木野もメインメンバーとして10年以上関わる)は、アーティストの滞在制作や展示、ライブなども含め、道内外の人々に支持されてきた。地域や道内外のネットワークも深く、アーティストの奈良美智も友人として何度も訪れ滞在し、展示している。
希根太に新作の彫刻や平面作品を見せてもらう。巨木の形状を生かしながら、内部に火を入れ炭化させることで生み出される彫刻は、有機的な質感と風合いが、物質でありながらそれを超えた深遠を感じさせる。その後、木野がミニ除雪車で森に開けてくれた出来立ての雪の筋をたどり、木々の間の常設作品を見にいく。そして暖かいカフェスペースに戻り、コーヒーを飲みながら、飛生芸術祭やトントンが企画した地元・洞門村でのフェスティバルの映像を見る。ともにアーティストでありフェスの企画にも携わる希根太とトントンは、自然を敬いながら行う方向性が共通していて、互いに共感しきり。このような時間から、未来が芽生えていくように思う。
この日は一日、トントンたちとウポポイの中でさまざまな体験をした。私は4度目の訪問だが、初めて人で賑わっているウポポイを見た。ようやく当初の想定に沿った人出になってきたようだ。
まず若手のアイヌによる伝統芸能(踊りや歌、ムックリ演奏)を鑑賞、その後佐々木史郎館長とお会いする。トントンたちはそれぞれの活動や白老やウポポイの印象について話し、今後の白老と花蓮の関係可能性も含め、和やかで実りの多い時間となった。
午後には上映プログラム「アイヌの歴史と文化」、そして常設展示を見学した後、チセの中で口承文芸の語りを聞き、その後コースターの木彫りワークショップに参加(私は見学)、トントンたちはしっかり仕上げていた!(今回ムックリ、しらおいイオル事務所「チキサニ」でのアイヌ刺繍、木彫り、と手仕事でアイヌ文化に触れることができたことは、彼らにとって貴重な体験だったようだ)。
夕刻には、地元の白老民族芸能保存会の人々による普段の練習を見学に、白老中央生活館にお邪魔する。男性と少年による緊張に満ちた剣の舞(エムシ・リムセ)、女性たちによる鶴の舞(サロルンチカプ・リムセ)、そして男性二人の弓の舞(ク・リムセ)の踊りと女性の歌唱の掛け合いの後、みんなで輪になり回りながら歌い踊る場面では、見ている私の身体も動き始めた。以前聴いた独特のウポポ(歌唱)のリズムや反復になじんでいたからだろう。
保存会の方から踊りの感想を聞かれると、トントンは、「小さい頃祖母(シャーマン)が教えてくれた踊りに似ていて……」と涙を見せた。アイヌの踊りを見てトントンが涙ぐみ、彼の言葉で踊った方々が感激し、それを見てみんながじん、とくる……という感動の連鎖が起きた。
最後の輪になる踊りはみんなで、ということでトントンたちや私も含めて見ていた全員が参加し、手をつないでともに踊り、歌った。このようなこと自体が、まさに共同創造なのだろう。
最後にトントンが、踊りのお礼に皆さんのために歌いたいと申し出てくれ、照明を落として皆なで聴き入った。大広間にこだまするトントンの歌唱—山の原住民の歌だという—心の奥底から発せられた声は伸びやかで深く、空間全体そしてそれぞれの心の隅々へと染み渡っていった。
あまりにも濃く、感動に満ちた白老の3日間だった。今後はトントンたちが白老にもたらしたもの、そして白老の皆さんがトントンたちにもたらしたものが次第に育っていくだろう。
今回、木野ディレクターはじめ、アイヌ文化を継承する個人や組織の皆さん、ウポポイ、地域おこし協力隊、アーティスト、経営者、町の職員、町会議員、飲食店など多くの方々にお世話になった。そして出会った各人からそれぞれの「白老愛(しらおいあい)」(四方)が伝わってきた。
白老には、すでに飛生アートコミュニティーが育んできた文化の土壌がある。そしてウポポイ開館後、ウポポイと町を有機的に結びつける動きとして、「白老芸術文化共創」が新たな生態系を作りつつある。
白老では、海外からの個人旅行者も増えている。彼らはウポポイに加えて、白老の町に息づくアイヌ文化や歴史、自然、そして日常の食や生活、アートに触れに来ている。今後は、住む人に加えて、何度も訪れる人々も含めた「関係人口」とともに地域の文化や経済を考えることも重要だろう。
白老からは、未来への息吹を感じる。それは自然や歴史を介した人と人とのつながりによる。白老に住む人(近年の移住者も多い)、訪れる人、住んでいた人、これから住む人……さまざまな人々がつながるために、アートができること。それに気づいて実践する人たちがいる。
「アイヌ」は人間という意味である。「アイヌ」を広く「人間」と読み替えてみれば、アイヌに加えてさまざまな先住民の人々、そして和人も含めた多様な人々も含まれる。そこではジェンダーや障害、国籍や経済格差などさまざまな差異を包摂する世界が想像されうるように思う。
自然・街・アイヌ(人間)、ともに作る未来……白老から、大切なインスピレーションをいただいた。
*1 「白老(原名シラウォイ siraw-o-i)虻(あぶ)の多いところ、という意味」、満岡伸一『アイヌの足跡』(1924、財団法人アイヌ民族博物館より1987年に復刊)。
*2 「日本の北海道にあるアイヌをテーマとしたナショナルセンター」。「ウポポイ」はアイヌ語で「(おおぜいで)歌うこと」を意味。国立アイヌ民族博物館、国立民族共生公園、慰霊施設などで構成されている。
*3 台湾東部の北に位置する花蓮県の山側に居住する原住民(台湾では「先」でなく「原」を使用)。
*4 メディアアーティストであるシュー・リー・チェン企画によるプロジェクト「LAB KILL LAB」の一つとして、バイオ&デジタルアートのワークステーション「Forking PiraGene」(チェンとの共同キュレーション)を2020年12月14-20日に台北C-LABで展開。
*5 花蓮から山側へ車で約30分、翡翠の谷でも有名。神社跡など日本統治時代の名残も残る。シャーマンの祖母の世代は日本語ができたため、トントンも片言だが日本語を話す。
*6 「Hagay Dreaaming」は昨年オーストリア・リンツでヴァージョンアップされ上演、今年10月台湾でも上演が予定されてる。
*7 原住民にはクリスチャンが多く、洞門村にも複数のキリスト教会がある。
*8 札幌国際芸術祭2014「都市と自然」(ゲスト・ディレクター:坂本龍一、アソシエイト・キュレーター:飯田志保子、四方幸子、地域ディレクター:端聡)。
*9 ポロトコタンは、アイヌ語で「大きい湖の集落」の意味。通称となっているが、アイヌ民族博物館は、ポロトコタン(野外博物館)の一部として位置づけられる。2018年3月で閉館した。
*10 高さ16m、幅7m。コタン(部落)のエカシ(長老)をイメージしたもので、右にイナウ、左に刀にかけ、訪れる人の安全と幸福を願うとされていた。
*11 2014年、「アイヌ文化の復興等を促進するための「民族共生の象徴となる空間」の整備及び管理運営に関する基本方針」が閣議決定された。
*12 ポロトコタンの歴史については、以下を参照:キュレーターズノート「ポロトコタンの半世紀──行幸、万博、オリンピックを補助線として」立石信一(国立アイヌ民族博物館運営準備室)2019年07月15日号/キュレーターズノート「ポロトコタンのあゆみ 1976-2018」立石信一(国立アイヌ民族博物館運営準備室)2019年11月01日号
*13 満岡伸一『アイヌの足跡』(1924、財団法人アイヌ民族博物館より1987年に復刊)。再版の動きも出ているという。
*14 満岡伸一『アイヌの足跡』(1924、財団法人アイヌ民族博物館より1987年に復刊)。
*15 本文前の「自序」部分。満岡伸一『アイヌの足跡』(1924、財団法人アイヌ民族博物館より1987年に復刊)。
*16 domingo.ne.jp/event/33130
*17 『森竹竹市遺稿集 —評論—』(森竹竹市研究会、2009)より。
*18 白老観光コンサルタント株式会社が経営した観光施設。1976年に発展的に解消し、財団法人白老民俗文化伝承保存財団が誕した。
*19 1984年に「アイヌ古式舞踊」が国の「重要無形民俗文化財」に指定。それを受けて財団が伝承公開のための民俗資料常設展示施設「アイヌ民族博物館」(新館)が開館した。
*20 アイヌ語では「ムックリ(ムックル)」と呼ばれる口琴は、大陸から日本、台湾、アジアにも広がっている。
*21 屋外写真展は2021年に始まり、作品が残されている。
四方幸子(キュレーター・批評家)の連載「エコゾフィック・フューチャー」では、フランスの哲学者・精神分析家フェリックス・ガタリが『三つのエコロジー』(1989)において提唱した「エコゾフィー」(環境・精神・社会におけるエコロジー)を、ポストパンデミックの時代において循環させ、未来の社会を開いていくインフラとしての〈アート〉の可能性を、実践的に検討し提案してゆきます。
Planning
四方幸子|YUKIKO SHIKATA
キュレーティングおよび批評。京都府出身。美術評論家連盟会長。多摩美術大学・東京造形大学客員教授、IAMAS・武蔵野美術大学・國學院大学非常勤講師。対話と創造の森(茅野、および東京神田サテライト)アーティスティックディレクター。データ、水、人、動植物、気象など「情報のフロー」というアプローチからアート、自然・社会科学を横断する活動を展開。キヤノン・アートラボ(1990-2001)、森美術館(2002-04)、NTT ICC(2004-10)と並行し、資生堂CyGnetをはじめ、フリーで先進的な展覧会やプロジェクトを数多く実現。近年の仕事に美術評論家連盟2020年度シンポジウム「文化 / 地殻 / 変動 訪れつつある世界とその後に来る芸術」(実行委員長)、オンライン・フェスティバルMMFS2020(ディレクター)、「ForkingPiraGene」(共同キュレーター、C-Lab台北)、2021年にフォーラム「想像力としての<資本>」(企画&モデレーション、京都府)、「EIR(エナジー・イン・ルーラル)」(共同キュレーター、国際芸術センター青森+Liminaria、継続中)、フォーラム「精神としてのエネルギー|石・水・森・人」(企画&モデレーション、一社ダイアローグプレイス)、「STUDY:大阪関西国際芸術祭」2022, 2023キュレーターなど。国内外の審査員を歴任。共著多数。yukikoshikata.com
本連載の原稿を含む初単著『エコゾフィック・アート 自然・精神・社会をつなぐアート論』(フィルムアート社)が、2023年4月26日に刊行予定。
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