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連載エコゾフィック・フューチャー

Ecosophic Future 14

Encounter & Honeymoon

《千鹿頭 CHIKATO》|諏訪での不思議な邂逅と蜜月

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still from CHIKATO

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わたしたちが日々経験する「出会い」に秘められた力の大きさを、あらためて問い直す——。キュレーターで批評家の四方幸子が、未来の社会を開くインフラとしての〈アート〉の可能性を探る連載「エコゾフィック・フューチャー」の第14回は、諏訪・八ヶ岳での人々や自然、精神、遺跡などとの出会いを通してふたりのアーティストが辿った軌跡を追う。

text by Yukiko Shikata

感動の循環へ——《千鹿頭 CHIKATO》から

あなたは最近、何に感動しただろうか? 感動は、人との関わり、アートや本、音楽など創造物、動物や自然に触れた時などさまざまな時に湧き上がる。それは特別なモメントだけに限らない。日々生活する中で、人やモノからエネルギーを受け取りながら私たちは生きている。もちろん私たちそれぞれも、笑顔や振る舞い、創作や仕事を通してもらったエネルギーを新たに発信することで連鎖的な循環を起こしている。

感動とは、一方的なものだろうか?「心の琴線に触れる」という言い方があるけれど、自分の深部で共振すると感じることは、同時に感動をくれたものへの能動的なベクトル—一種の「感応」—をもつように思える。何かが自分に乗り移り、自分が想像的にそのものと重なってしまい、融合を遂げともに変化するような……!

人や動物とは、そのようなことが可能だが、絵画や本などとはどうだろうか。思うに、それらには影響を与えられないものの、その感動を伝えることで世界が変わっていくだろう。感動するために、私たちは生きているのかもしれない。ささやかな幸せを感じ、生きていてよかったと思い、生きていていいんだよ、と背中を押してもらうこと。それは感動を、ともに共有することでもある。感動し合うために、私たちは生きている。

 

鹿面の縄文族 photo: maki ohkojima

 

日々感動することは多いけれど、とりわけ大きな感動に包まれたのは、美術家の大小島真木と編集者の辻陽介による初の映像作品《千鹿頭 CHIKATO》(2023)を見た時である。作品自体の素晴らしさは言うまでもないが、その背後に横たわる、彼らとある人物との運命的にさえ見える不思議な邂逅と蜜月が、心をとらえて離さない。その人物とは、田中基(もとい)*1、長野県茅野市在住の諏訪信仰、縄文図像学の研究者である。個人的には一昨年の秋に一度だけ現地でお会いでき、縄文と舞踊の土方巽についてお話をうかがった。*2

 

田中基(2021) photo: 三好妙心

 

敬愛する田中が大小島、辻と昨年茅野で一種運命的な出会いを遂げ、秘められていた彼のエネルギーが開示され、作品にも出演した……!しかし突然、撮影の翌月の昨年11月に急逝してしまった……。冒頭からあまりにもショッキングで、皆さんを驚かしてしまったかもしれないが、今回は、えもいわれぬ感動をもたらした作品《千鹿頭 CHIKATO》、そして大小島、辻と田中の間に生まれた不思議な邂逅と蜜月について綴ってみたい。作品が語り始めることに加えて、作品ができるプロセスで3人の生きざまがスパークし、アートを通して文化人類学、考古学、信仰研究などを往還する稀有な事例の一つとして、その感動を紹介することで、アートが未来の社会を開いていくインフラを形成しうることを伝えられればと思う。

《千鹿頭 CHIKATO》に至る経緯

《千鹿頭 CHIKATO》は、大小島と辻が、私が関わるアートコモンズ「対話と創造の森*3(長野県茅野市)の2022年の滞在アーティストとして、現地でリサーチをし、撮影を行い、約半年の編集を経て今年5月に完成したばかりの作品である。*4

「対話と創造の森」は、地層的には中央構造線とフォッサマグナの糸静線が十字に交差する特異な地勢、火山性の地層が生み出した諏訪・八ヶ岳地域の自然、そこから生まれた自然信仰や文化を連綿と保つこの地域から学ぶことで、日本の基層を検討していくことをミッションとしている。また今年4月には、東京に「対話と創造の森」の神田サテライトが開設された。

滞在制作は、諏訪・八ヶ岳の深層と共振しうるアーティストを年1組茅野に招聘するもので、初年度として大小島と辻が昨年春から諏訪を訪れていた。その中で多くの人々や自然、精神・宗教施設や遺跡などとのディープな出会いがあり、《千鹿頭 CHIKATO》が構想されて行った。予想はしていたものの、それをはるかに超えて2人は諏訪・八ヶ岳の深層に突き当たり、さまざまな存在と感応し、そうして生み出されたのがこの作品である。

 

左)大小島真木 photo: NOJYO、右)辻陽介 photo: NOJYO

 

大小島真木は、人間と非人間—動植物や微生物、石など、世界に存在するあらゆる存在—が絡まり合いながら存在する世界観を一貫して持ちながら、絵画やインスタレーション、映像、陶器、近年は舞台美術と意欲的に活動を拡張してきた。インドやポーランドを含め国内外の滞在制作も多く、異なる自然や文化、人々との交感を取り入れながらフレキシブルに生み出される絵画(壁画など、キャンバスという制約からはみ出ていく)も彼女の特徴である。かつて森の中を一人で彷徨った時の体験から、大小島は、自身も自然の中ではその一部—食うか食われるか、また動植物から「見られている」存在—であると身にしみて実感したという。近年、「モア・ザン・ヒューマン(人間を超えた)」まなざしをもつマルチスピーシーズ文化人類学が注目されているが、大小島はすでに10年以上前、美大生の時からそのような世界観とともに制作をしてきた。持ち前の鋭い直観に加え、実践とともに思考を培った彼女は、その発言で文化人類学の分野でも一目置かれる存在である(と同時にキュートで可憐な自然体の人である)。

(株)コアマガジンの編集者を経て、現在「DOZiNE*5 というWebメディアを主宰する辻は、独自の哲学と世界観をもつ編集者、文筆家である。「DOZiNE」では、クイアやタトゥーをはじめとするサブおよびオルターナティブ・カルチャー、アウトローの世界における身体やアイデンティティに深く切り込むとともに、マルチスピーシーズ文化人類学や自然科学が接触する新たな知の領域を、長文で濃厚な記事として発信している。彼の生きざまや世界観、身体性が滲み出ていると言っていい。子供の頃から登校拒否やハンスト、ヤンキーになる(根っからの「編集者」として、自ら当事者になり修羅場を観察したという!)、勉強する意欲が湧いた時点で猛勉をして大学合格を果たすなど、自分が納得できることにとことんこだわり、強靭な身体と精神で乗り切って生きてきた。

2人はパートナーで、人間を超える存在への感度と世界観を共有しながら相互触発を続けており、私は彼らが諏訪・八ヶ岳の深層に分け入っていく可能性を感じていた。もともとは、大小島を絵画の滞在制作で招聘することを想定していたが、一緒に現地を訪れた大小島と辻は、その自然、歴史、文化的世界の深部と強く共振、そして満を辞した初コラボレーションとして、映像作品の制作を決意する。

諏訪の自然信仰と2人

火山性の地層をもつ諏訪・八ヶ岳地域は、旧石器時代以降、良質の黒曜石がナイフとして重宝され、青森など遠方へも流通してきた。縄文中期には日本で最も人口が多く、縄文文化が栄えていた地である。*6 また古代からのアニミズムが強く残り、「ミシャグジ」と呼ばれる狩猟に根差した自然信仰(関東地方にまで至る)が、神道や仏教が入る前からこの地を支配してきた(明治時代の神仏分離で断絶、当時の儀式も資料も現在は存在しないが、民間信仰として残っている)。

また全国に一万社以上あるとされる諏訪神社の総本山である諏訪大社があり(上社の前宮と本宮が、下社の春宮と秋宮の合計4社)、7年目に一度の御柱祭でも有名である。

諏訪大社は、上社の前宮がもともとミシャグジの祭祀場であり、自然信仰の名残りが今も感じられる。現在も毎年4月15日に御頭祭(おんとうさい)が開催される。生き神としての大祝(おおほうり)が約3カ月にわたりおこもりを行った後の儀式で、神輿が本宮から前宮の十間廊に運ばれると、作物や剥製の鹿の頭が供えてあり、神官によって祀りが執り行われる。元々は、三河や駿河も含む各地から集められた75頭分の鹿の頭が供えられ、その中に毎年一頭、耳の裂けた鹿がいたという。なんとも生々しく、想像を絶する光景だが、鹿がこの地域の人々の根幹にあり、いかに神聖な存在であったかがしのばれる。仕留めて生贄(いけにえ)にし、食すことで生きる(生かす)こと……。霧ヶ峰の元御射(もとみさやま)神社では、鹿を射る元御射山祭が鎌倉時代に行われたことなど、諏訪・八ヶ岳地域には、アニミズムを基盤とした諏訪信仰が基盤にあり、それが神道や仏教の影響を受けながらも現在もそこここに息づいている。

 

諏訪大社上社前宮一之御柱の山出し(2022年4月2日 長野県原村)。曳行は「対話と創造の森」(茅野市)がある豊平・玉川地区が引き当てたが、コロナ禍のためトラック輸送となった。

 

昨年は御柱祭の年で、諏訪大社4社それぞれに4本ずつ立てられる新たな御柱を山から出して町へ運ぶ「山出し」を、4月初旬に大小島、辻たちと見学することができた。5、6月に2人は現地に滞在、諏訪信仰に関係する聖地や神社仏閣を微細に回り(即興的に奥へと分け入ることも多々あったという、驚くべき機動力!)、狩猟やジビエ関係者を含め多くの方々にお世話になり、リサーチを進めていった。その中で、森を流れる清流 で鹿の頭骨に出会い、田中基とは、かつて諏訪信仰の研究をともに進めた北村皆雄の紹介で出会いを遂げる。*7

鹿は罠猟の時期で、2人の熱意を受け止めてくれたカントリーレストラン匠亭(たくみてい)の方々の協力を受けた。ある早朝、罠にかかったと連絡があり、すぐに森に直行し雌鹿と対面したという。鉄棒とナイフを渡された辻は、言われるままに頭を連打し気絶させ、ナイフを喉元にスッと差した。流出する鮮血の赤が、周囲の緑と鮮烈なコントラストであったという。*8 大小島と辻は、解体作業を見守り、その後、脳や心臓、肝臓、そして肉をどっさり受け取った。自然の中で生きていた存在を、食べることで自らの身体へと受け入れ、血肉やエネルギーとすること。それは鹿や鹿を育てたこの地の自然との合体であり、*9 聖なる、そしてエロティックな体験でもあるだろう。

田中基との邂逅と蜜月

大小島・辻と田中との邂逅は、まさに蜜月といっていいほど大きなものだった。ミシャグジを契機に約半世紀前から諏訪信仰を研究し、平行して三木成夫の胎生学や生命記憶を参照しつつ縄文図像学を神話文脈で研究していた田中は、晩年に縄文と舞踏の土方巽との関係の検討をあらためて行なっていた。大小島と辻は、そのような田中が彼らに興味を持ち、心を開いてくれたと実感している。実際田中と何度も会い、一緒に神社や自然の中に入って時間を過ごしたという。田中がかねて行きたいと願っていた富士山麓の溶岩墜道「ご胎内」に足を延ばした時、彼は杖を置いて深部へと這って行き、子宮と見なされる場所で「オギャー、オギャー」と声をあげたという。生まれる前の子宮内で産声をあげることは、実際はありえないが、晩年の田中が新たな誕生を切望していたことがうかがえる。

 

「ご胎内」の田中基 photo: maki ohkojima

 

田中の中に芽吹いていたものは、アートや身体表現への共感であり、大小島と辻という若い2人の志向性にそれを感じ取ったはずである。水を得た魚のように生き生きと、彼はエネルギーを発動し始めた。存在感のある彼の顔や手、身体全体が踊るかのように動き、歌を口ずさむその場の波動は、彼ら3人の記憶そして溶岩でできた「胎内」に刻まれたことだろう。

大小島、辻にとっても忘れがたい出会いや強烈な体験に満ちた滞在から、《千鹿頭 CHIKATO》が育っていった。辻は、諏訪・八ヶ岳地域で十字を切る二つの大断層から、自身の名字にある「十」を再発見したという。スティグマにも見える大きな傷は、何かを生み出す突破口でもあり、現在もその深層にマグマというエネルギーを蓄えている。その地勢が、諏訪の自然や信仰、文化に表出しているのではないだろうかと。

大小島にとって映像は、舞台美術という、ダンサーや音など異なる分野の人々とともに作り上げる経験の延長にあるだろう。初夏から夏には撮影の構想が練られ、スタッフィングやキャスティング、衣装などの準備を経て、9月に撮影が行われた。数日という短期間に、ダンサーたち、大島托が展開する縄文タトゥーを全身にまとった縄文族たち(辻もその一人)、*10 コムアイや半々などの撮影が自然の中で敢行された。私は最終日の9月17日に立ち会えたが、山の頂上での撮影で、出演者やスタッフにとって過酷な登山を伴った。頂上は、登山の辛さを忘れるほどに、ごろごろとした岩の隙間を緑が埋め尽くす美しい平野で、眺望も素晴らしく、半々や縄文族を含む息を呑むほど美しい映像となった。夜は「対話と創造の森」で鹿肉のバーベキューを行い、その一部も映像に組み込まれた。鹿を仕留め生贄にし、食するまでが《千鹿頭 CHIKATO》では必須である。これで撮影は終了したはずだったが、大小島と辻は、その後田中が入る必要性を感じ、10月に森の奥の清流のほとりで本人、そしてコムアイとのシーンを撮影する。

 

still from CHIKATO

 

《千鹿頭 CHIKATO》とは、狩猟神である千鹿頭神(ちかとのかみ、ちかとうのかみ)にちなんでいる。*11 千鹿頭神は、長野県を中心に甲信や北関東、南東北にまで至る民間信仰の神で、諏訪信仰ではミシャグジ社と重なっているという。*12 千鹿頭神は、守宅神(洩矢神の息子)の子、ミシャグジの祭礼を代々司る神長官守矢氏の3代目で、名前は守宅神が鹿狩りをした際、千頭の鹿を捕獲したことに由来するという。大小島と辻は、《千鹿頭 CHIKATO》をタイトルにすることで、諏訪ならではの自然と信仰が現在も生きていること、人々が狩猟を介して結ばれ、生と死がつながっていることを示唆している。

《千鹿頭 CHIKATO》、そして田中の急逝

映像は、最初から最後まで美しく鮮烈で、艶かしい。冒頭では、鹿の顔を被り顔を赤く塗り、赤い衣をまとった田中が登場し、森の緑と強烈なコントラストを成している。赤は鹿の血の赤であり、彼自体が生贄でもあり赤子であるようにも見える。森の中では男女、縄文族と鹿の顔を被った女そして半々、田中とコムアイが森を彷徨いながら出会い絡んでいく。男と女が球体(受精卵が分割した状態にも見える)の前で出会い、罠の鹿は解体され、足や毛皮や内臓にはハエがたかる。男女は繭のような球体の中で絡み始め、それ(胎児を保護する胞衣(えな)をイメージ)が破れて生命が誕生したかのようである。と同時に男性が死に、別のシーンでは田中も川のほとりに横たわっている。

 

still from CHIKATO

 

半々と縄文族 still from CHIKATO

 

胞衣が破れた後 still from CHIKATO

 

鹿の解体と分解と同時に、生命の誕生と死がフラットな関係として描かれる。登場する存在は、鹿であったり、ミシャグジ信仰における精霊のメタファーだろうか。赤い顔そして赤い衣をまとった田中は異人であり、*13 出産によって胎児から赤子へと移行する存在—赤子でありながら生贄ともなりうる—のように見える。*14 鹿は生命を失っていくが、肉として乗り移り、別のいのちの中で生きながらえていく……。

撮影の翌月、突然田中の訃報が届いた。辻には、その前日にも彼の電話を受けたという。大小島と辻にとっては、どれほどショックだっただろう……。田中は、晩年の最後に彼らと出会い、大きく心を開き、それまでにない側面を見せていた。それを受け止め、彼を「赤子」として撮影した大小島と辻。3人は、諏訪・八ヶ岳の自然に感応しながらエネルギーを交感することで、彼らでしか共有できない一種の胎内めぐり—生と死や人間と非人間の境界が曖昧な領域—を旅したように思う。そうして、田中だけが胎内へと旅立って行った。

冒頭のシーンで、田中は鹿の顔を頭部に着け、目を見開きこちらをじっと見つめている(映像で出てくる、鹿の目のシーンと重なってくる。彼は鹿であり、鹿は彼であるだろう)。最後のシーンで横たわった田中は、冥界へ戻る人間のような生贄のような存在であり、祝福されているようにも見える。(人間もしくは鹿の)赤子として、生まれ変わる兆しさえ感じられる。

 

田中基 photo: jun Yamanobe

still from CHIKATO

 

映像では、森で出会った男女が、鈴のようにも見える大きな土のオブジェの前で出会うが、それはあたかも受精卵のようである。白い繭のようなものの中に入り、絡まり合い、最後にそれが破れて女性が濡れながら出てくる。それは胎児の誕生で、繭のようなものは、胎児を包んでいた胞衣(えな)なのだろう。

アートは時に、予言的な役割を果たす時がある。大小島と辻が諏訪・八ヶ岳へ行き、田中と出会ったこと、田中が生き生きと打ち解けたこと、そして彼らが田中を撮影しようと決意したこと。そして田中がかつてない顔を見せ、映像として残ったこと……。《千鹿頭 CHIKATO》は、一種田中との共作ともいえるのではないか。そしてそれは、諏訪の自然や諏訪信仰が呼び込んだものでもあるだろう。田中の映像は、まさにミシャグジの体現ともいえ、彼そして諏訪の自然は、大小島と辻に大きな何か—アートとしての拡張を込めた、世界観の再編成—を託しているのではないだろうか。

御頭祭の日、田中を偲ぶ、そして祭りが始まった

4月15日に田中を偲ぶ会が茅野で開かれ、大小島、辻、そしてコムアイと一緒に向かった。コムアイは、映像の中で田中と微かに手を重ね、最後のシーンで横たわる彼の傍にいた。現在彼女は映像監督の太田光海との子を妊娠中で、今夏に 出産予定である。新しい命が宿り、基は亡くなった。この映像の撮影が昨年10月で、その後に起きた二つの命のめぐりに、不思議な偶然を感じざるを得ない。

 

田中基とコムアイ photo: jun yamanobe

 

偲ぶ会は、御頭祭の日でもあり、肌寒く小雨が降る中、私たち4人は前宮の十間廊で執り行われる祭祀を外から見ることができた。そこでは数々のお供えの品々とともに、剥製の鹿頭が鎮座し、匠亭が備えた鹿肉ジャーキーも並べられていた。

 

御頭祭 神事、諏訪大社上社前宮 十間廊(2007) 角柱に植物の枝が縛りつけられた「御杖柱(みつえばしら)」の向こうに供えられた鹿頭の剥製。左半分は正面、右半分が後ろを向く。photo: 原直正

 

田中が顧問を務めたスワニミズム*15 のメンバーを中心に、地域の研究者や関係者によって行われた偲ぶ会には、北村皆雄、野本三吉をはじめ、半世紀にわたる彼の活動に関わった人々が遠方からも集まった。偲ぶ会は、田中が所有していた鉄鐸を鳴らして始まった。鉄鐸は、諏訪神社の神事で使用するものは6個一組で3組あり、「お宝」と呼ばれているという。*16

 

2023年4月15日に開催された田中基を偲ぶ会で展示された衣装と鉄鐸(原直正スワニミズム会長の手製)は、注13の田中の原稿の神使を想起させる。会場:茅野・ベルビア。photo: maki ohkojima

田中の鉄鐸(2022年12月18日撮影) photo: 三好妙心

 

田中の鉄鐸の作りは諏訪神社の鉄鐸(お宝)とほぼ同じだという。 約半世紀前、田中が考古学者 藤森栄一のインタビューのために諏訪を訪れたときに古物屋で見つけ購入、藤森宅で本人に見せたところ、原稿代はいらないからそれをくれといわれ渡したという。藤森が亡くなってから、当時のいきさつを知る奥さんが田中に返してくれた品である。*17

大小島と辻は、最晩年の友人としてあいさつを述べ、その後モニターで、セミファイナル版の《千鹿頭 CHIKATO》が披露された。集まった人数が75、かつて御頭祭で並べられた鹿の頭と奇しくも同じ数だったことは、偶然にしては出来すぎている。会は、鉄鐸を再び鳴らして幕を閉じた。いや会の終了と同時に、祭りが始ったのかもしれない。

「さて祭場の前で神官が行う申立(もうしたて)(祝詞)は、つねに次のような言葉で始まっている。「かけまくもかしこ、つねのあとによりてつかえまつる…の」(『旧記』と。この言葉を吐くことによって祭場が始原状態に、「常の後(つねのあと)」に一挙にひきもどされる。いまここで行っている神事劇は、遠い過去より始祖たちがとり行ってきた神事と単一な状態になる。その光景は「かけまくもかしこ」という畏怖すべき状態である。「注連(しめ)のうち宗(おも)さの鈴(鉄鐸)を振り鳴らし」御左口神が降りてくる。祭場の樹々や岩坐が光を発し始める。祭だッ!」(田中基「穴巣始(あなすはじめ)と外来魂(みたまほかい)—古諏訪祭政体の冬期構成-」、古部族研究会 編『日本原初考 諏訪信仰の発生と展開』、人間社文庫、2017)
 
        * * *

田中は映像に出演することで、パフォーマーとしての新たな顔を見せてくれた。諏訪信仰研究に長年関わってきた彼の出演は、この作品に命を吹き込んだ。そして映像を残して、彼は逝ってしまった。

どうしようもない、大きな喪失感……。しかしそれとともに、田中が大小島と辻に託したもの、映像を介して多くの知人や関係者、読者、そして新たに映像を見る人々に託したものは、彼の残した仕事とともに、新たに誕生した赤子なのではないだろうか。死でも終わりでもなく、むしろアートを通じて進化を遂げた田中であり、未来へ向けて開始された祭りなのではないか。

大小島、辻と田中の間の類いまれな邂逅とエネルギーのスパーク。祭りは、映像を通して続いていき、人々そして世界に新たなエネルギーや感動を生み出していくことだろう。

 

*1 田中基(1941-2022)は、茅野在住の諏訪信仰、縄文図像学研究者。山口県生まれ、早稲田大学卒業。1973-81年まで季刊『どるめん』を編集。著書『縄文のメデューサ』(現代書館)、共著『諏訪学』。古部族研究会同人、スワニミズム顧問。
*2 2021年11月6日に茅野の「対話と創造の森」で企画・実施したヨーゼフ・ボイス生誕百周年/「対話と創造の森」誕生記念フォーラム「精神というエネルギー|石・水・森・人」の終了後、同日夜に開かれた諏訪信仰研究会「スワニミズム」の飲み会にお邪魔しお会いできた。
*3 具体的には、さまざまな領域にわたるアートコモンズのメンバーが交流しながらそれぞれが(「部」ではなく、生態系に近い意味での)「類」としてのグループ活動(アート類、ラーニング類、メディア類など)を自律的に行うもので、そこではアートを、すべての分野をつなぎ、未来の創造的な社会へ向けた可能性として位置付けている。Ecosophic Future #8「諏訪・八ヶ岳で始動する、新たなコモンズの実践の場 対話と創造の森」(2021/11/3)も参照。
*4 今後インスタレーションや上映形式で発表される予定。
*5 「土人」は、その地に生まれて住む土地の人、原住民、未開とされる地域の原始的な生活をしている人々への差別的な用語、土着の人種などの意味がある(Wikipediaより抜粋、2023/5/7)。そのような意味を踏まえながら、辻はこの言葉に「Do Zine」や「同人」の意味を重ねている。
*6 水や蛇、カエルの紋様を持つユニークな形状の土器や土偶(「井戸尻文化」と称される)が富士見町を中心に、国宝となった5体の土偶の2体が茅野市で発掘されている。
*7 1974年に、諏訪の考古学者、藤森栄一(1911-1973)の影響を受けていた田中基、北村皆雄、野本三吉が、古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究のために、藤森の死後、茅野在住の研究者、今井野菊を訪れ一週間滞在、その成果が永井出版企画から古部族研究会 編「日本原初考」三部作『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』『古諏訪の祭祀と氏族』『 諏訪信仰の発生と展開』として1975-78年に刊行された(現在は人間社文庫刊行)。古部族研究会は、諏訪に関心を抱いていた田中と北村が、野本三吉と立ち上げた。北村は、映像人類学、民俗学者、映画監督、プロデューサーで、(株)ヴィジュアルフォークロア代表、野本(加藤彰彦)は教育学者、作家。沖縄大学・横浜市立大学名誉教授。いずれもスワニミズム顧問。
*8 「僕にとってはそれが人生で初めての仕留めだったにもかかわらず、そこに一切の躊躇や逡巡も生じなかったということだ。(略)二つの命が森で邂逅し、一方が一方の命を奪う。/その鹿の死の感触はあまりにも軽かった。そして、それは同時に僕自身の命の軽さをも意味していた。今日はたまたまお前の方が死に、たまたま僕の方が生きのびた。だが、明日はどうだか分からない。いずれ後先。命は等しく尊く、等しく軽いのだ」(辻陽介「命は、尊くて、軽い。― 諏訪、御贄の王国にて―」、『QJ(クイック・ジャパン)』163、太田出版、2022/10/26)
*9 「歴史の闇に消えた王国=諏訪祭政体は、動物霊と植物霊に満たされ守られた、生き神たちの王国であった。それは植物の生命で自らを荘厳し、聖獣たちの生き血と肉と臓物をたえず自己の体内に取り込むことで維持・再生していく、御贄の王国にほかならない」(山本ひろ子「囚われの聖童たち 諏訪祭政体の大祝と神使をめぐって」、山本ひろ子編『諏訪学』、国書刊行会、2018)
*10 [参考] 辻陽介「汝はいかにして“縄文族”になりしや──《JOMON TRIBE》外伝 ❶| 縄文タトゥーをその身に纏いし人々」(「DOZiNE」、2021/8/4)
*11 諏訪信仰では、洩矢神の御子神、孫神、あるいはその異名とされる。建御名方神の御子神の内県神と同視されることもある。明治初期に成立した『神長守矢氏系譜』によれば、守宅神(洩矢神の息子)の子であり、祭政を受け継ぐ守矢氏の3代目に数えられる。名前は守宅神が鹿狩りをした時に1,000頭の鹿を捕獲したことに由来するといわれている。(Wikipedia, 2023/5/6)
*12 野本三吉「千鹿神へのアプローチ」参照(古部族研究会 編『日本原初考 諏訪信仰の発生と展開』、人間社文庫、2017)参照。
*13 「厳寒の御室入りから約三月ののちに大祝とともに御室からミアレして廻堪に出る六人の神使たちは、頭に真綿で包んだ立烏帽子をかぶり、赤袍の下から二丈5尺の赤い半尾(はんび)の裾を引き、手にした杖の先には鉄鐸をつけていました」という。「それは御室という胎内空間から、頭にまだ胞衣をつけたまま生まれ、真紅の尻尾を引きずった半人半蛇の生々しい胎児の姿であり、そして石垣島のマユンガナシのような、他界空間(ニライカナイ)から人間の世界を訪れる、やはり胞衣(笠)や胎盤(蓑)をまとった異人(まれびと)としての姿をあらわにしたものだったのです」(田中基「土に聞きましょう」、古部族研究会 編『日本原初考 諏訪信仰の発生と展開』、人間社文庫、2017)。映像の、赤色を顔に塗った田中の扮装は、衣が真綿でなく鹿の顔であるものの、まさに彼が語った胎児、そして異人として描かれている。
*14 「ミシャグジ=胎児説は、中世的な儀軌思想の影響下に派生したものと考えられよう。(略)精進屋籠りが入胎にアナロジーされるとき、精進屋のミシャグジは、胞衣に包まれた胎児の姿に重なってくる。一方神使いは、精進屋において常にミシャグジと共にあった。それゆえに、神使が身にまとう胞衣の「赤」は胞衣の色ではないか、という説が生起しても不思議ではない」(山本ひろ子「囚われの聖童たち 諏訪祭政体の大祝と神使をめぐって」、山本ひろ子編『諏訪学』、国書出版会、2018)
*15 諏訪信仰や縄文文化研究者の集まり。研究会の他、これまで会誌『スワニミズム』(スワニミズム事務局)を5冊刊行。田中基は顧問の1人。
*16 「精霊降下の儀式は、ミサグジ降ろしと呼ばれ、神長のやる仕事ですが、(略)やはり「注連(しめ)のうち宗(おも)さの鈴(鉄鐸)を振りならし」と記されているように、第一の神宝として現存している鉄鐸を突いて鳴らし、強力なシャーマニスティックなタマフリの呪術を行なったと考えます(略)以上のような精霊観、生命観は、樹や石に精霊が常住しているとするアニミズムとは異なっています。時を定めて、空から降りてくる外来魂という自然に対する一つの考え方です」(田中基「洩矢祭政体の原始農耕儀礼要素」、『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』、人間社文庫、2017)
*17 田中基から直接聞いたと原直正スワニミズム会長から教えていただいた(Facebook messenger、2023年5月8日)

 
本連載の原稿を含む四方幸子『エコゾフィック・アート 自然・精神・社会をつなぐアート論』(フィルムアート社)が刊行されました!

連載Ecosophic Future
エコゾフィック・フューチャー

四方幸子(キュレーター・批評家)の連載「エコゾフィック・フューチャー」では、フランスの哲学者・精神分析家フェリックス・ガタリが『三つのエコロジー』(1989)において提唱した「エコゾフィー」(環境・精神・社会におけるエコロジー)を、ポストパンデミックの時代において循環させ、未来の社会を開いていくインフラとしての〈アート〉の可能性を、実践的に検討し提案してゆきます。
 
Planning
四方幸子|YUKIKO SHIKATA

キュレーティングおよび批評。京都府出身。美術評論家連盟会長。多摩美術大学・東京造形大学客員教授、IAMAS・武蔵野美術大学・國學院大学非常勤講師。対話と創造の森(茅野、および東京神田サテライト)アーティスティックディレクター。データ、水、人、動植物、気象など「情報のフロー」というアプローチからアート、自然・社会科学を横断する活動を展開。キヤノン・アートラボ(1990-2001)、森美術館(2002-04)、NTT ICC(2004-10)と並行し、資生堂CyGnetをはじめ、フリーで先進的な展覧会やプロジェクトを数多く実現。近年の仕事に美術評論家連盟2020年度シンポジウム「文化 / 地殻 / 変動 訪れつつある世界とその後に来る芸術」(実行委員長)、オンライン・フェスティバルMMFS2020(ディレクター)、「ForkingPiraGene」(共同キュレーター、C-Lab台北)、2021年にフォーラム「想像力としての<資本>」(企画&モデレーション、京都府)、「EIR(エナジー・イン・ルーラル)」(共同キュレーター、国際芸術センター青森+Liminaria、継続中)、フォーラム「精神としてのエネルギー|石・水・森・人」(企画&モデレーション、一社ダイアローグプレイス)、「STUDY:大阪関西国際芸術祭」2022, 2023キュレーターなど。国内外の審査員を歴任。共著多数。yukikoshikata.com

NEXTEcosophic Future 15

Living in Extreme Environments

極限環境へ|拡張するアートのミッション