「ネット怪談」に、背筋がぞわぞわした経験はないだろうか。インターネットのユーザーたちの書き込みや、繰り返されるコピー&ペーストによって微妙にかたちを変えながら、私たちの手元の画面に表示される、いくつもの怪談──それらはネット普及以降、もはや短くない歴史を紡いできたものでありつつ、近年改めて新時代のコンテンツとして耳目を集めている。その拡がり方と捉え難さは、まさに時代の象徴のようにも見える。 こうしたネット怪談にかんする画期的な概説書として、2024年10月に刊行されて以来じわりと人気を集めつつあるのが、廣田龍平による著書『ネット怪談の民俗学』(ハヤカワ新書)である。インタビュー連載「編集できない世界をめぐる対話」第21回のゲストとして、奥深いネット怪談の世界を、そしてそれらに対するアプローチについて語ってもらった。ひとつだけ、重ねて前置きを。本記事中では、さほど衝撃的なイメージが登場することはない(再生しない限り動画も流れることはない)。怖いものが苦手な人も気軽に、あるいは怖いもの見たさで、ぜひ覗いてみてほしい。
TEXT BY Fumihisa Miyata
PHOTO BY Kaori Nishida
——以前からネット怪談の盛り上がりは気になっていたのですが、それらの代表的な事例を手際よくまとめ、整理された『ネット怪談の民俗学』は大変刺激的でした。
廣田 今回のお話をいただいてから、自分の仕事や嗜好において「編集」的な手法から影響を受けてきた、ということについて考えていました。特に、先だって亡くなられた編集者・松岡正剛さんですね。松岡さんがかつて1990年に監修された『情報の歴史』(NTT出版)という本に、小学生のとき地元の図書館で出会ったことが、現在に至るまで本当に大きな経験になっているんです。あらゆる方面から歴史をまとめた巨大な年表に感動して、すべて手書きで書き写そうかと思ったくらいでした。実際に写しはじめたら、あまりに膨大な量ゆえに先史時代の数ページで挫折してしまったんですが……(笑)。
——小学校時代から、現在のお仕事に近いようなことをされていますね(笑)。
廣田 その頃から、事象をたくさん集成して並べていくという意味での「編集」は大好きだったんです。いいかえれば、年表的なセンスと事典的なセンス、と表現できるかもしれません。『ネット怪談の民俗学』でも当初は年表をつけようとしたものの、やはりネット黎明期の頃は時期の特定が難しい事象も多く見送ったのですが、編集者の方の理解もいただきつつ、「犬鳴村」や「きさらぎ駅」、「くねくね」、「ジェフ・ザ・キラー」といったネット怪談を項目として整理した「怪談索引」をつけることができたという点においては、事典的な「編集」はなんとかできたのではないかと思っています。
——それほどまでに、ご自身の精神を形づくった原体験だったのですね。
廣田 大学生だった2005年には松岡さんの代表的な著作の一冊である『フラジャイル 弱さからの出発』がちくま学芸文庫に入ったのを機に読み、改めて面白いな、と。時期は前後しますが2000年から、古今東西の書籍を紹介する人気連載「千夜一夜」もはじまっていましたね。その後、私が研究者になっていくに従って、専門的な知見にかんする正確さという面において距離をとるようになったのは事実です。でもちょうど最近、自分の原点としての『情報の歴史』の初版を古本で購入していたんですよね。その直後に、松岡さんの訃報が届いたのでした。年表と事典という「編集」の作法は、やはり私の核にあるもののひとつであるように感じています。
——そうした姿勢でまとめた本書には、下記のようにひとまずの定義が書かれています。「『ネット怪談』は、特定の作者への帰属が意識されず、事実かもしれないと見なされるもので、『伝説』の一種である。投稿者は報告者として認識される。それに対して『ネットホラー』は、作者の存在が意識され、フィクションとして恐怖が楽しまれるもので、『創作』の一種である。投稿者は作者として認識される」と。
廣田 民俗学という学問は、なかなか記録に残らないような、あるいは名前を記されることのないような多くの人々の言動や瞬間=「民俗」を追求する学問なので、作者の存在がはっきりとは意識されない、ネット上の“怖い話”が主題になります。それが私の考える「ネット怪談」です。“怖い話”を作った人の存在が受け手に認識されている場合は「ネットホラー」というように区別しています。もちろん、あくまで便宜的な区分けではあるので、当初は「ネットホラー」として創作されたものが、転載や切り抜きなどを繰り返していくうちにやがて作者の存在が希薄化して「ネット怪談」になっていく例もあります。
——英語圏では「クリーピーパスタ」(creepypasta)と呼ばれる創作ホラージャンルのなかで、2009年に明確にひとりの作者が生み出した2枚の画像からはじまった「スレンダーマン」は、無数のネットユーザーによる新たな文章の書き込みや画像のアップロード、果ては商業映画化もあわせて発展していきました。廣田さんはネットユーザーたちを中心にした「共同構築」という側面に、「ネット怪談」の特徴を見出だしていますね。
廣田 もちろん語り手は──スレンダーマンの場合はオリジナルの作者も──存在するのですが、その語り手が怖い話にとっての制作主体ではない、と見なされていくと、ネット怪談になります。そうした語り手のことを、私は「報告者」と呼んでいます。主従関係でいえば、作者がいるからこそ怖い話がある、というのでなく、怖い出来事が先に存在し、それを伝える報告者がいる、というかたちです。報告者は、怖い話を広めるための媒介でしかないんですね。報告者たちの言動に、他のネットユーザーたちが反応するようにして、「共同構築」が生じていきます。
——面白いです。2018年以降、朝起きたら真っ暗になってしまったという“異世界”からの配信を続けたTwitter(現X)のアカウント「太陽が消えた」(The Sun Vanished)も紹介されていますが、異世界からの報告者と他のユーザーたちによる共同構築の最近の事例と見ることができるわけですね。そうしたネット怪談を、廣田さんが研究されるようになった経緯をうかがえますか。
廣田 私のバックグラウンドをすこしお話しすると、これまで妖怪研究というものを活動の中心に置いてきています。その延長線上において、過去の文献調査というよりは、現在さまざまな人々が妖怪をどのように重要視したり/しなかったり、あるいは語ったり/語らなかったりしているのかを知りたいと思ったのが、ネット怪談を研究するきっかけだったんですね。
——現在の人々の、不定形の営みのほうに目を向ける、と。
廣田 とはいえ人々の語りを追おうとしても、河童に出会ったとか天狗に騙されたといった話をする人は、いないわけではないものの激減しています。それに対して、インターネット上で怪異や怪談を語る人たちは多くいる。そうしたわけで、妖怪研究の一端として、ネット空間にも注目するようになったんです。振り返ってみれば、中学1年生だった1996年にネットにはじめて触れ、多くのネット怪談が生み出されることになった2ちゃんねるは2001年頃から閲覧するようになりました。文化人類学を学んでいたのに対人的な調査が苦手だった学生時代、入り浸っていた2ちゃんねる発のネット怪談「コトリバコ」を卒論で扱ったのが、先ほど申し上げたネット怪談研究へと踏み出していく大きな転機でした。その後、Twitter(現X)やTikTokなども見ながら、ネット怪談を渉猟しています。
——廣田さんもまた、ネット怪談を「共同構築」するひとりだったのですね。
廣田 2002年以降、2ちゃんねるのオカルト板の「巨大魚・怪魚」スレへの投稿から盛り上がった、ネット起源の未確認生物「ニンゲン」をめぐるやりとりには、当時の私の書き込みもかなり残っていると思います(笑)。
——そもそもネット怪談も含め、なぜ妖怪研究に進まれたのでしょうか。
廣田 私の答えは決まっています。生まれる前から妖怪が好きだったからです(笑)。
——そうなんですね(笑)。
廣田 好きであることに深い理由はないのですが、ただし学問として妖怪を取り扱おうと思った理由は存在します。実際に妖怪や怪異を体験している人たちは、それを実在していると思っているのに、研究する側は非実在としてカテゴライズすることがほとんど。私自身、研究する前まではいわゆる懐疑派で、件のニンゲンのスレでの振る舞いも、他の書き込みの矛盾を指摘するものでした(笑)。
——それは意外なお話です。
廣田 しかし、いざ卒論でネット怪談に取り組んでみようとすると、懐疑派では人文学的な研究が成り立たないし、話者の認識とは正反対の、非実在のものとして扱う態度に強烈な違和感を抱いたんです。あるいは、地方の伝承めいた「コトリバコ」のようなネット怪談を、実際に観察される民俗学的な因習に絡めて論じるというやり方にも忌避感があった。むしろ語り手たちが、どのように語っているのかということ自体に注目したほうが面白いんじゃないか。実際に卒論では指導教員からエスノメソドロジー・会話分析的な方向性を示唆されました。そのように考えつつ、現在に至っているわけなんです。
——なるほど。今回のご著作では、アメリカ民俗学の知見を踏まえて、伝説を再現するなどして身をもって示してみる「オステンション」という行為、いわば心霊スポットからの実況配信のような「やってみた」的な営みに言及されていますね。逆に、スレンダーマンやニンゲンのように、物語のないところに確からしき伝説を生み出していく行為を「逆行的オステンション」と呼ぶとも書かれています。
廣田 そうした逆行的オステンションの最新の事例として、人工的な、それでいて人がいない空間の不穏さだけをビジュアルイメージで提示した「バックルーム」(2018年~)や、同様に不穏さを醸し出す情景を指す「リミナルスペース」(2019年~)のブームなどを挙げることができると思います。
——文字から画像・動画へと移行していくネット怪談の変遷を、廣田さんは追っておられます。
廣田 ほとんどなんの物語もない画像に、人々が物語をいわば勝手に見出だしていくという点で、「バックルーム」や「リミナルスペース」をめぐるナラティヴは、逆行的オステンションと呼ぶことができるでしょう。
——他方で廣田さんは、物語のない不穏さだけを提示する「バックルーム」や「リミナルスペース」、あるいはGoogle EarthやGoogleストリートビューに不気味な風景を見出だそうとするネット怪談の潮流を、レフ・マノヴィッチによるデジタルなニューメディアにかんする議論へ結びつけていますね。以前からある文学や映画のようにナラティヴが優先されるのではなく、脈絡のない画像が並列しているようなデータベースがまず存在するのだ、と。「もはや恐怖に物語(ナラティヴ)は必要ない」と書かれています。
廣田 InstagramやPinterest、Tumblerといったプラットフォーム上や、あるいはそれこそGoogleでの画像検索画面で、ナラティヴやコンテクストが剥奪された画像のデータベースがズラズラと並ぶということですね。いまではそこに、AIが生成した画像も入り込みながら、たくさんの不穏な画像が次から次へと画面の上に現れては流れていく。先述したようにそれらにナラティヴを見出だしていくという営みも一方では存在するのですが、基本的にはデータベースのみで存在できるものであり、グローバルに見ても、ネット怪談の愛好者たちはそこに発生するズレを楽しむという態度が第一にあるんです。
——ズレ、ですか?
廣田 英語圏でのネット上の会話では、offという単語がよく使われます。on、つまりは現実世界にきちんと接している感じではなく、何だかうまくくっついていない、という感覚ですね。それは現実世界の日常生活のみならず、非日常的なもの——「霊」や「地獄」といった伝統的に理解できる概念によっても納得できない何かを示すときの表現だと思われます。
——それらすべてからoffの関係にある、と。
廣田 従来のさまざまな概念のいずれからもズレていて、とにかくヤバい感じがする。しかしそれはわからない何かであり、名指せない怖さである、ということですね。本書では、リミナルスペース流行前の2012年時点で生まれていた新語「アネモイア」(anemoia)も紹介しました。不穏さだけが漂っている画像や動画がアップされると、コメント欄に並ぶのは「どこかで見たことがあるけど思い出せない」「夢の中で見たことがある」「子どもの頃に行った気がする」というような言葉なんです。ノスタルジアを感じるのに、過去とは一致しないという感覚ですね。これらのコメントもまた、大量の画像や動画に皆が匿名でどんどん言及できる現在のメディア環境ゆえの「共同構築」ですね。
——そうした感覚は、現実世界がもはやデジタルでシュミレーテッドなゲーム的な世界であり、そこにバグが発生すれば異世界へ通じるというようなイメージとつながっているのではないか、というような記述も大変興味深かったです。
廣田 この本で提示した、大きな仮説のひとつです。私たちがいま、現実を認識するときに、ゲームなりコンピューターなりの仕組みを通して理解しているのではないか、ということですね。たとえば映画館で作品に没入してから街路に出ると、現実世界が映画から地続きのように感じられたり、あるいは映画館に入る前の世界とはすこし異なるものに思われたり、という体験は多くの人がもっているはずです。
ゲームにおいては、そうした没入のアナロジーが、単なるアナロジーではなく存在論的なレベルで現実世界に対する理解と噛み合っているのではないか、と感じています。スマートフォンも含めて、リアルな世界とデジタルでシュミレーテッドな世界が限りなく私たちの日々のなかで接近していて、ひょんな拍子に構造が交錯する。そうした感覚が、ネット怪談において表象されているのではないか、と。
——同時代を生きる者として、感覚的にわかるような気がします。一方で気になるのは、一部のネット怪談が田舎の因習に対する差別的な認識を反復してきたように見える点です。廣田さんはこうした因習系の怪談の問題に言及しつつ、近年の異世界系怪談やバックルームなどがそこからの脱出口になるのでは、といった旨のことを書いておられます。とはいえ2ちゃんねるが抱えてきたさまざまな問題も存在しますし、そこから派生した4chanはバックルームなどのミームを生み出しながら、他方ではQアノンをはじめとした陰謀論の淵源になっているとも指摘されています。これらをどう考えますか。
廣田 まずおっしゃる通り、因習系の怪談については批判的に言及していますし、それは民俗学および文化人類学の研究者として大事な仕事だと思っています。それらに自ら加担しない、ということも重要です。と同時に、これは及川祥平さんという民俗学者の方の言葉を引用しながら論じているのですが、そうした状況をどのようにしていくのかを決め、答えを導いていくのは研究者ではなく、生活者自身です。私としては、読者の方々が「そうか、因習系の怪談にはそうした問題もあるんだ」と気づいていただければそれでよいし、そうした問題を踏まえてなおネット怪談を楽しんでいくのであれば、その動向もまた研究対象になる、ということなんです。陰謀論にかんしても同様の立場ですね。
ただ私が難しいなと思っているのは、現在は非常勤講師なので、今後のこととして、指導する学生が、元ネタを知らずに差別的なミームを使ったり、あるいはそうしたミームについて研究で言及してきたりした場合にどういう対応をとるか、ということです。直接的に蔑視や差別をしているというわけではないが、しかしそこにたしかに問題はあるという場合にどうするか。これから手探りを続けていければと思っています。
——今後の話が出ましたが、ご研究の方向性も気になるところです。これまでのご著作では、民俗学や文化人類学の歩みをめぐる反省的な記述も目立ちますね。
廣田 『妖怪の誕生』という本などで論じてきたことでもあるのですが、私の専門のひとつである文化人類学では長い間、自分たち以外の民俗の文化に対して、自分たちがまず合理的であり、彼らには彼らの(別の)合理性があるというような見方がなされて、対象を相対的に研究してきました。自然的/超自然的というような、妖怪にも密接に関連するカテゴライズも、この一環です。しかし、ここ四半世紀ほどは、そのようにして「他者の文化」に還元して切り取るのではなく、人々の経験や語りのリアリティをそのまま書くということはどう可能なのか、といった問題をめぐる「存在論的転回」と呼ばれる議論がなされています。
民俗学においては、民俗はあくまで研究者の合理性の外にあるように考えられがちな状況が続いてきました。私はそうした民俗学を更新するべく、人類学者であるブルーノ・ラトゥールらが提唱した「アクターネットワーク理論」(ANT)を参照してきています。ANTをごく簡略化して紹介するとすれば、自然と文化、現実と超自然などを分析の前から分けて考えるのではなく、とりあえず混淆したネットワークとしてそのつながりを記述していき、その結果としてどのようなものが生じるかに注目するアプローチです。たとえば目の前にある『ネット怪談の民俗学』という本も、紙やインクといった物質(自然)と、私の思考(文化)が混ざり合ったものです。その思考も、神経細胞間の電気信号(自然)で成り立っているし、この会話は音の震えでもある(自然と文化)。そうしたゴチャゴチャの状態を考えることからはじめましょう、という立場なんですね。私はそうしたANT的な立場で、妖怪やネット怪談の研究や叙述を試みているわけです。
——加えて、その関係論的観点からも零れ落ちる「プラズマ」なる概念にもラトゥールは言及していて、廣田さんも注目されているようですね。
廣田 これもまたごく簡単にいってしまえば、ゴチャゴチャした関係性を丹念に見つめていって、つながりをたどっていってもなお、研究者にとってのみならず、当の人々にとっても「これは何だろう、わからん……」と判断に迷って片隅に残り続けるもののことなんです。そしてそれが、『ネット怪談の民俗学』で描いた不穏さやズレ、あるいはoffといった感覚につながるんですね。
ネットワークのなかでの関係性がわかりそうでわからない、あるいはわかったと思った瞬間にブツリとその関係性が切れて逃げ去っていってしまうようなもの。そうした「プラズマ」がこの世には膨大に漂っていて、私たちはある瞬間にフッとそれを目撃する。その意図せぬ目撃の感覚が、おそらくバックルームやリミナルスペースのイメージになるのではないか、ということなのです。
——廣田さんもこれから、さらにそうした膨大な断片を目撃し続けるのでしょうね。
廣田 将来の夢は、世界妖怪事典をつくることなんです。『ネット怪談の民俗学』はデータベース的な怪談を読みやすくナラティヴ化するところがあったのですが、私自身は本来的にはデータベース的人間なんですね。索引と文献と注は、そうした『ネット怪談の民俗学』を再びすこしデータベース化するという試みでもありました。そうした蓄積を踏まえつつ、現代に範囲を限定せず、古今東西の妖怪を集めた事典をつくってみたいんです。今後も、ナラティヴとデータベース、そしてネットワークのなかで試行錯誤してみたいと思います。
1985年、神奈川県生まれ。フリーランス編集者。博士(総合社会文化)。2016年に株式会社文藝春秋から独立。2022年3月刊、津野海太郎著『編集の提案』(黒鳥社)の編者を務める。各媒体でポン・ジュノ、タル・ベーラらにインタビューするほか、対談の構成や書籍の編集協力などを担う。
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