THE POWER OF ART

メンタルヘルスの問題解決にアートを通して向き合う——「ウェルカム・トラスト」財団の試み

ロンドンを拠点とする医療研究財団「ウェルカム・トラスト」は、科学を支援することで、緊急の健康課題を解決することを目的に活動している。「メンタルヘルス」「気候変動」「感染症」を、現在取り組むべき3つの課題として掲げる財団は、今年、「メンタルヘルス」をテーマとした国際文化プログラム「マインドスケープス」を立ち上げた。日本でも、生涯を通じて5人に1人がこころの病気にかかると言われる今、「メンタルヘルス」は誰にとっても身近な問題である。東京の森美術館やニューヨークのブルックリン美術館など、国際都市を代表する4つの美術館と連携し、問題を抱えた人々を支援する文化プログラムを行うキュレーターのダニエル・オルセンに、メンタルヘルスの問題解決におけるアートの力について聞いた。

TEXT BY JUN ISHIDA
PHOTO BY MANAMI TAKAHASHI

——まずは「ウェルカム・トラスト」の活動についてお話いただけますか?

オルセン 「ウェルカム・トラスト」は独立系の慈善財団であり、1936年にアメリカ人起業家のヘンリー・ウェルカムがロンドンで設立しました。ヘンリー・ウェルカムは、もともと裕福ではありませんでしたが、ビジネスパートナーとともに世界で初めて錠剤薬を販売し、富を得ました。彼は、財及び富は全て人類および動物の健康促進のために使いたいと遺言を残し、そして誕生したのが「ウェルカム・トラスト」です。私たちは科学の力を支援して、健康関連の問題を解決することを目的としていますが、研究開発は主に好奇心を引き金として行われます。そして誰でも、どこからでも受けられるサポートを促進しています。

ロンドンにあるウェルカムコレクションミュージアム(手前)とウェルカム・トラスト本部(奥) Courtesy Wellcome

——「マインドスケープス」は文化プログラムですが、どのような考えに基づき、科学ではなく文化領域をサポートしているのでしょう?

オルセン 私たちは、科学だけでは全ての問題解決はできないと思っています。文化に着目することにより、初めてあらゆる社会の問題、そして人々をつなぎ合わせることができるのです。多様な人たちが関与することにより、さらなるアイデアや知識を得ることができ、健康に対する対話を促すことができます。

——森美術館の展覧会「地球がまわる音を聴く:パンデミック以降のウェルビーイング」に参加するアーティストの飯山由貴さんをサポートしていますが、プログラムのコラボレーターはどのように見つけるのですか?

オルセン プロジェクトによってプロセスは異なりますが、よく見て、聞いて、調べるのが重要です。2018年から20年にかけて実施したプログラム「Contagious Cities」は「感染症」がテーマでしたが、まずテーマに基づいてコラボレーションする4都市を選びました。ジュネーブにはWHO(世界保健機構)の本部があり、香港やニューヨークは過去にパンデミックに見舞われた経験があります。場所を探すことから始めて、アーティストへとたどり着きました。しかしアーティストを決める上では、リサーチだけでなく直感も必要です。

香港で開催された「Contagious Cities: Far Away, Too Close」の展示風景。「大館―古蹟及芸術館」とコラボレーションし、国内外のアーティストとともに過去の「腺ペスト」をテーマとした展示を行なった。Exhibition view: Contagious Cities: Far Away Too Close, Tai Kwun Contemporary (26 January–28 April 2019). Courtesy Tai Kwun Contemporary.

森美術館「地球がまわる音を聴く:パンデミック以降のウェルビーイング」での飯山由貴の展示。

——飯山由貴さんとはどのように出会ったのですか?

オルセン 以前から、個人的に、飯山さんが統合失調症の妹さんとともに制作している作品に興味を抱いていました。また飯山さんは、ロンドンのウェルカム医学史研究所のリサーチフェローだった東京大学の鈴木晃仁教授の医療のアーカイブとも過去に連携したとも伺っていました。そして森美術館がウェルビーイングをテーマにした展覧会を企画していると聞き、点がつながったのです。森美術館の出展候補作家のリストにも飯山さんの名前が上がっていたので、アーティスト・イン・レジデンスという形で支援することが決まりました。当初は彼女がどのような作品を作るか知りませんでしたが、提案を受け、この作品は絶対にパワフルなものになると分かっていました。

彼女の作品は、東京でマインドスケープスが行うもう一つの施策にもつながっています。医療人類学を専門とする北中淳子さんは、うつ病を研究しているのですが、当事者の視点を活かした「当事者研究」に着目しています。当事者研究は日本で始まったものですが、自分に照らし合わせて問題を考え、お互いがお互いを支援することも含むものです。飯山さん自身は当事者研究者とは言っていませんが、類似点を見出せると思います。当事者研究は今すぐには解決されないけれど、対話してゆくことを目的とするものです。それは私たちが目標にしていることの一つでもあり、当事者研究はマインドスケープスにおいて重要な存在になりつつあります。

展示では、DVの加害者と被害者双方をインタビューした映像が上映されている。

展示を観た観客がコメントを書き込むスペースも設けられた。

——飯山さんはドメスティック・バイオレンス(DV)をテーマに、被害者と加害者双方の視点を取り入れたインスタレーションを発表しましたが、完成した作品を見ていかがでしたか?

オルセン 誇らしく思いました。彼女が行なったことは、とても勇気のあることです。DVの加害者と被害者、両方の視点を取り上げるのは非常に難しいことですが、その両方の声を聴くことのできる空間を作ったのは、感慨深いものがあります。会場には、作品を観た人が自分の気持ちや思ったことを書き残すスペースもありますが、それも素晴らしいアイデア。私自身、マインドスケープスのコミュニティを紡いでゆきたいと願っていますが、この作品ではすでにそのつながりが築けている。こうした問題に向き合うことは、自分の弱さを曝け出すことであり、それが他の人たちにパワーを与えることにもなります。マインドスケープスがサポートしているベンガルール(インド)のアーティスト、インドゥ・アントニーも近しいテーマの作品を創っていますが、彼女は作品でDVという言葉は使っていません。インドでは文化的に女性がDVということ自体が危険なのです。この2人が出会うことで、面白い化学反応が起きることを期待しています。

——アートはメンタルヘルスの問題にどのように作用すると考えますか?

オルセン アートに触れることにより、メンタルヘルスとウェルビーイングが改善されることは、すでに実証されています。創作活動を通じてだけでなく、作品に触れることによってもメンタルヘルスとウェルビーイングは向上します。アーティストは言葉では語りきれないものを作品を通して発信し、そしてアートには人間ならではの複雑な感情を呼び起こす力があるのです。

ダニエル・オルセン|Danielle Olsen ウェルカム・トラスト文化パートナーシップ・リード。ケンブリッジ大学で科学史と科学哲学を学び教鞭をとる。展覧会のキュレーション、アーティスト・レジデンスの設立と育成などの分野で30年以上の経験を持つ。東京の「マインドスケープス」のプログラムでは、NPO法人「インビジブル」とのコンビーニングや、アーティストのクリスティン・ウォン・ヤップと軽井沢の在宅医療ケア拠点「診療所と大きな台所のあるところ ほっちのロッヂ」とのワークショップも予定している。

森美術館
地球がまわる音を聴く:パンデミック以降のウェルビーイング

会期=開催中〜11月6日(日)※会期中無休
場所=森美術館(六本木ヒルズ森タワー53F)
開館時間=10:00〜22:00(火曜日のみ17:00まで。最終入館は閉館時間の30分前まで。最新情報はウェブサイトにてご確認ください)
料金=[平日]一般 1,800円、学生(高校・大学生)1,200円、子供(4歳~中学生)600円、シニア(65歳以上)1,500円/[土・日・休日]一般 2,000円、学生(高校・大学生)1,300円、子供(4歳~中学生)700円、シニア(65歳以上)1,700円 ※専用オンラインサイトでチケットを購入すると割引料金が適用されます