HILLS LIFE DAILYにて、「新しい教養」を探し求める対談シリーズを行っている石川善樹(予防医学博士)。同シリーズのオルタナティブ版とも言える、より気軽な「雑談ベース」の対談シリーズが、このたびスタート。記念すべき最初のゲストは、石川の友人でもある役者の石田淡朗。石田はなぜ呼ばれたのか。なぜ石川は「雑談」にこだわるのか? まずは本人の口から語っていただこう。
TEXT BY Tomonari Cotani
PHOTO BY KAORI NISHIDA
時々「ニシカワです」って言ってます
石川 今日は淡朗くんと思いっきり雑談しようと思って。
淡朗 雑談ですか(笑)? 何でまた雑談?
石川 学生時代に田中先生という人がいて、とても無邪気な人だったんだけど、ある日「年上の先生に怒られちゃったよ〜」って言うんですよ。「えっ、いったい何を怒られたんですか?」って聞いたら、「『大人っていうのは目的があって集まるんだよ! 目的もなく気軽に合おうとする田中くんみたいな人は、普通いないんだよ!』って怒られたんだよね」って。
淡朗 あはは。
石川 そのとき、「大人になると、あまり雑談をしなくなるばかりか、怒られるのか!」って思ったんです。でも、雑談をそんなに悪者扱いしなくてもいいんじゃないのかと(笑)。誰かが雑談の価値を認めてくれないかなーとは常々思っていて、でもようやく今回、なぜか雑談していく企画を始めることができて。淡朗くんは、その最初のお相手。何しろ淡朗くんは、目的がなくても雑談を楽しんでくれる、僕の大切な友人だからね。
淡朗 ありがとうございます。
石川 淡朗くんは、能と狂言、どちらも子役をやっていた珍しい人なんだよね。それどころかイギリスの演劇学校で学位を取っているという、役者として非常に稀な経歴の持ち主でもある。で、雑談なので早速とりとめもなく話を進めていくけど、能と狂言では泣き方が違うって、以前言ってたよね?
淡朗 そもそも能と狂言の違いですが、ざっくり言うと、能は、神話とか神様とか侍とか、要はえらい人たちのお話なんです。歴史に名を残すような人々の物語が能で、名を残さない人々の物語が狂言だと言えます。大抵は、悲劇と喜劇ということで分けられてしまうのですが。そんな能と狂言ですが、観客に不親切という点では共通しています。そこはオペラに近いかもしれません。
なので、観客の想像力を必要とするんです。能舞台があって、その中で行われていることを見て、観客が自分のあたまで想像力をフルに活用して情景を作り出していく、という作業がとても重要になる演劇で、世界的にもあまりないと思います。
特に能は、必要最小限の情報しか観客に与えません。なので能で泣くというと、右手を少し顔の近くに持っていく動作しかしません。そこにバックコーラスが入ることで、「あっ、この人は泣いているんだな」と観客は察するわけです。
淡朗 シンプルな、削ぎ落とした型だけで「泣く」という行為を浮かびあがらせる能に対し、狂言では両手を使って大きく目を覆い、「えぇー、へっへっへっへっへ……」(編註:ここ、非常に張りのある声で脳内再生を! 実際、部屋の雰囲気が瞬時に異世界へと転換しました)と泣くわけです。「え」と「へ」しか言わない。全然違いますよね! でも、想像力を必要とするという点では共通してるんです。
石川 それだそれだ。雑談しているといろいろなことを話すから、基本的に忘れるんですよ(笑)。でも、いまみたいなインパクトに残ることというか、感情に残ることは忘れないよね。それで思い出したのが、イギリス演劇における母音と子音の重要性、という話。何で母音の話になったかというと、僕も淡朗くんも、どもり体質があるから。僕は、少しストレスがかかると「あいうえお」が言いづらくなる。名前が石川なので、電話に出るときは緊張する。「イシカワです」ってちゃんと言えるかなって。だから電話でお店の予約なんかするときは、とっさに「ニシカワ」ということにしてる。
淡朗 すごく嫌ですよね。僕も石田なので言いづらいのですが、ロンドン生活が15年ということもあって、「タンロウ・イシダ」という機会が多いので助かっています。
石川 僕も「ヨシキ・イシカワ」ならスラッと言える。不思議だよね。それで母音の話になって、実はイギリス演劇において、母音がとても重要ということを淡朗くんが教えてくれたよね。
淡朗 そうでしたね。シェイクスピアとかに顕著なのですが、母音は感情を表現する音であり、子音はその言葉の意味を表現する音である、という考え方をするんです。「あ〜あ」とか「おお!」とか、「え〜?」というのは全部感情です。で、子音の場合も、「ぱぴぷぺぽ」みたいな破裂音や、鋭い「すっ」っていう音や、もうちょっと響きの強い「ゔぁ」という響きなのかで、単語のイメージが違ってくる。というのが基本の考え方です。
その中で有名な「to be or not to be(, that is the question.)」は、登場人物のハムレットが非常に悩んでいる状態ですよね。それを、母音だけで言ってみたりするんです。そうすると、「ウ・イ・オー・ウ・ウ・イ」になり、子音だと「トゥ・ブ……・トゥ・トゥ・ブ」なんです。で、これは破裂音が多いので、悩み込んでいる感じではなくて、これかな、あれかな……という感じの悩みなんだな、っていう読み解き方をするんです。
母音が多いシーンは感情的なシーンであって、母音が少ないシーンはもう少し説明的なシーンである……という脚本の読み解き方のひとつなんです。
そういう意味では、日本語は母音が多い言語なので、日本人は感情的なんですかね。あと、イタリア語も母音が多いですよね。母音が多いと音楽に合うんです。母音は伸ばすことができるので。感情と音楽というのはすごくマッチングがいいですし、日本語は、感情的なことを言うのに優れている分、みんな感情的にならないんですかね(笑)?
石川 イギリスでは、役者は感情の達人ということもあって社会的地位が高くて、「何か困ったことがあったら、役者に相談せよ」って思われているんだっけ?
淡朗 人生最大の絶望や恐怖や不安に出会ってしまったときは、役者に相談するのがいいんじゃないかと言われているんです。
石川 それ、すごくおもしろいなと。結局、すごい困難にぶち当たったときは、ほかの人は境遇もよくわからないから力にならない、ということだよね。裏を返すと。
淡朗 役者は公演ごとに、極限の感情とか極限の人間の状態を、毎晩毎晩体現しているわけです。なので、理解というか共感してくれるんです。「あ、この人はこういうことを感じているんだろうな」ということを共感できる訓練を役者はしているので、という考え方です。
石川 共感というキーワードが出てきたけれど、共感と思いやり、英語でいうとエンパシー(empathy)とコンパッション(compassion)だけれど、その2つは脳科学的に違うということを、ドイツの研究者が発見しているんだよね。共感すると、こっちもつらくなるという。「I feel you」というのが共感。「I want to help you」というのが思いやりなのかなと。役者って、役を演じるときは共感と思いやりのどっちなんだろう? 困っているときにすごく共感しちゃうと、つらくならない?
淡朗 つらくならないのは、おそらく目的があるからだと思います。目的なく共感しちゃうとどんどんつらくなりますが、「あなたのことを助けたい」っていう何かしらの目的があった上で感情を共にしているわけなので、多分つらくないんです。そもそも役者の場合は、役を演じるという大きな目的があるのでつらくならない。僕の感覚では、コンパッション(思いやり)で合ってますね。
「真っ白になる」ってどういうこと?
石川 イギリスとアメリカの役者は根本的に違う、という話もあったよね。アメリカの役者の方が精神を病みやすいとか……。
淡朗 アメリカでよくやられているのは、「感情をどう操るか」という訓練です。泣いたり悲しい演技をするとき、自分の過去の悲しかったときの感じを思い出して……つまりは感情を自分の中で探して、それを再現する。というのがアメリカの演技方法なんです。
一方で、イギリスの場合は感情の勉強をほとんどしません。感情ではなく、「意志や意図をどう操るか」という訓練をさんざんするんです。それに感情が付いてくる、という考え方なんです。
泣いてる演技をするのって、日本語的にいうと「大根な演技」になってしまうんです。泣いている状態しか見えないから。そうではなく、「何で泣いているのか」とか、もっと言うと、「ここで泣くことによって、まわりの人や相手に何をして欲しいと求めているのか」といったことを考えるんです。
石川 どの目的に向かって泣いているのか、ということだよね。
淡朗 そういった違いが、アメリカとイギリスにはありますね。
石川 だからアメリカの役者は、感情とか人格を役に持って行かれちゃうんだね。
淡朗 そういう人も多いですね。
石川 でもイギリスの役者は、スッと切り替えられる。
淡朗 スッと入って、スッと出られます。
石川 アメリカだと、感情を自由自在に操る訓練をするのに対して、イギリスは、演じる前に「演じていない自分を探す」というトレーニングをやるんだっけ?
淡朗 そうなんですよ! イギリスの演劇学校でまずやることは、真っ白なキャンバスというか、ゼロの状態になること。入学する時点までの人生で付いてしまった癖をすべて取る、という作業を10カ月くらいかけてやるんです。癖というのは、身体的なものだったり、発声の癖だったり、あとは思考の癖も含まれるのですが、いったん全部落とすんです。落とすことによって「じゃあ、残ったものは何か」というと、それが自分なんじゃないかと。
本当の自分というか、本当の素顔をまずは見つけるんです。自分がどういう人間なのかはわかったと。だからこそ、違う人間を演じることができるという考え方をするんです。
まっさらな状態になったから、「あっ、これとこれを足してみたら、こういう役になるよね」、「こういう人間になるよね」という感覚です。職人的とも言われるのですが。
石川 役という仮面をつけるためには、仮面を付けていない自分を知る必要があって、仮面を外せるから、次の仮面を付けられる、という考え方なんだね。それがアメリカの場合は、いろいろな仮面を付けすぎて、わからなくなっているという感じなのかな(笑)。
イライラしてたのが恥ずかしくなった
石川 これはすごいおもしろいなと思って、自分でもやってみようと考えたわけですよ。具体的に何をするかというと、感情が動いたときに、「一体何の目的に向かってこの感情が動いたんだろう」、「なぜいま、何の目的に向ってイラッとしたんだろう」といったことを、よく考えてみるようになったのね。
実はこの年末年始にすごいイライラしていたことがあって、その感情の正体を探っていった結果、とても恥ずかしい気持ちになったという話なんですけど(笑)。
淡朗 「恥ずかしい」も、とても重要な感情ですよね。
石川 「イライラしていたことが恥ずかしい」、ということに気づいた話なのですが(笑)。まず誰にイライラしていたかというと、妻にイライラしていたんです。帰宅すると「大変だ」って言うわけですよ。「今日は大変だった」と。「こっちも大変だったぞ」みたいな(笑)。
淡朗 あはは!
石川 とにかく自分のことばかり話すわけです。「わたしが……」と(笑)。クリスマスのときも突然泣き始めて……。「どうしたんですか」と聞くと、「結婚してから一度も誕生日プレゼントをくれないし、クリスマスプレゼントももらったことがない」と言うわけです。「それはそうだよ、欲しいって言わないんだから」と。
淡朗 えっ……(困惑)!?
石川 「言わないとわからないよ」って。まあそれはさておき……。
淡朗 さておくんですね(笑)。
石川 うん、それでそのとき、「あ!これはいいチャンスかも」と思ったのね。何で僕はこんなに、「自分が自分が」って言っている妻に対してイライラするんだろうっていう疑問を抱いたわけ。その正体を探ろうと。しばらくわからなかったんだけど、年が明けて、全然別の出来事が起きたの。友だちの奧さんが病気で、最近手術を受けたんだけど予後がよくないという話をしてて、「それはつらいね……」と。
その瞬間にハッと気づいたのが、健康で生きているだけで、こんなにありがたいことはないと。一体自分は、何に対して不満を抱いていたのかと。妻がいて当たり前と思っていて、その存在のありがたさに気づいていないと。昔見たドラマに、すごい名言があって。
“おらが おらが の 「が」 を捨てて おかげ おかげ の 「げ」で生きよ”
というもので、突然それを思い出し、「うわー、俺は一体何をしていたんだー!!」と急に恥ずかしくなり、妻に対して申し訳なく思ったわけです。
淡朗 「恥ずかしく」なったんですね……。
石川 うゎーっと。でもそこから、なんか自分が変わったんです。妻が「私が……」と言ってきても、ありがたいなぁと。いままでイラッとしていたことが、「今日もがんばったんだね!」って。
……で、いまの話を改めて振り返ると、人が変わるときってどういう感情を抱くんだろうと考えたとき、「罪と恥」なんじゃないかと思ったんです。罪を感じて、恥ずかしい思いをしないと、人は変わらないなと。イライラしているくらいでは変わらない。苦しいくらい恥ずかしい思いをしないと、自分のような情けない人間は変わらないんだということに、気づいたわけです。
スマートの語源は「鋭い痛み」!?
石川 話は少し飛ぶけど、語源っていいよね。
淡朗 うん、飛んだね(笑)。
石川 だね(笑)。まあそれはさておき、最近「スマートって何だろう」って不思議に思ってね。スマート・ハウスとかスマート・ライフとかのスマートって何だろうって。それでスマートの語源を調べたら、sharp painなのね。
淡朗 へぇ!
石川 鋭い痛み。鋭い痛みがない人生は、スマートじゃないんですよ!! 難がないから、無難な人生。その一方で、難がある人生は、有難いんだなと。だから、鋭い痛みを伴うスマート・ライフを送らなきゃなと(笑)。
それで、ここで話が戻ってくるんだけど、鋭い痛みというのは「罪や恥」という感情とともにやって来るんだなということに年始に気がついたから、今年はいっぱい「罪」をおかして「恥ずかしい」思いをしようと。すればするほど、自分がスマートになっていくぞと(笑)。
そう思って、ここから淡朗くんと恥ずかしい話をしたいなと。どう? 最近恥ずかしいことあった?
淡朗 あはは。でもその恥ずかしいって、俗に言う恥ずかしいとは一線を画していませんか?
石川 違う?
淡朗 違うんじゃないかなぁ。「自分はこうありたい」っていう理想像があったときに、そこにたどり着けていない、もしくはそことは違う面を見せてしまったというときに、恥って感じるんじゃないかな。そういう意味では、理想像があったわけじゃないんですものね?
石川 ない。今日電車に乗ろうとしたら、締まるときに駆け込もうとした人がいて、結局その人乗れなかったのね。そうしたら、何ごともなかったように向こうに歩いていって(笑)。彼はきっと恥ずかしかったんだろうなと。僕は目の前でドアがしまっても、そこで立ち止まりますね。それこそ、「威風堂々とはこのことなり!」という感じで(笑)。何も恥じることはないじゃないですか。
淡朗 そこで立ち去る人は、シャープなペインを避けているんですよね。そこで立ち止まることが、シャープなペインを感じるってことですよね。乗り込めなかった自分に正面から向き合うという。
石川 なるほど。人がどういうときに恥ずかしい思いを抱くのかを考えるにあたって、淡朗くんが言うように、逃げているのか、ちゃんと向き合っているのかという視点を設定してみるのはおもしろいね、確かに。
淡朗 恥ということで言うと、最近悩んでいるのが、日本人的感覚と西欧人的感覚、ということなんです。最近、日本で生活する時間が長くなってきたのですが、ある瞬間に「自分が思っていたよりも西欧人的態度とか考え方をしちゃっているんだな」ってふと気づいたときは、怒りでもないし、悲しみでもないし、モヤモヤでもないし、やっぱり恥なのかなぁって思います。
自分はうまくここにハマっていないというか、自分は考え違いをしていたなと感じたときに、「ああ……」と思ったのですが、それって、善樹さんの先程の奥さんとのケースに近くないですか? でもそれを「恥」と呼んでいいものなのかどうか。
石川 僕の直近の恥は、ニューヨークかな。あっちの人って、会議なんかの休憩時間にカジュアルな会話をするじゃない。コーヒーが置いてあるところとかで、初対面であっても。まず、そもそも語学力が……という面もあるけれど、これだけ雑談が大事とか言いながら、英語で雑談ができない。できなくて、「うゎっ」てなる。日本だと誰とでも雑談できるのに、海外だとこんなにできないのかと。
淡朗 僕がその状況にあったころって、自意識が高かったのか、自分が日本人として見られているという意識が強かったので、「自分は日本人を代表しちゃっているんじゃないか」っていう理想像と、「なのに、ちゃんと英語でコミュニケーション取れない自分」というギャップに恥ずかしさを感じて、「いや、いいです……」みたいな感じになっていたところはあります。そのプレッシャーが外れたときに、そういう経験をしなくなりましたね。
演劇学校っていろいろなことを教えてくれるのですが、卒業して役者にならなかった人でも、「演劇学校に行ってよかった」ってよく言うんです。そのひとつが、「聴く」っていうことをすごく習うということだと僕は思っています。
いま、日々実践できているかはさておき、「耳を傾けることによって共感する」ことは、できるようになったと思っています。たとえば異業種の人たちに囲まれても「この業種の人たちって、こういうことを問題に感じているんだ」ということを聞くことで、それが話題につながる。みたいなことが、演劇学校に行ったことによってできるようになりましたね。
石川 役者ならではの「聴く」っていうのは、何か特徴があるのかな?
淡朗 おそらく「聴く」というより、「あなたの立場だったら私はどう感じるかな」という考え方をするんです。もうひとつ、コミュニティというのは常に流動的というか、変化していくものなので、必ずギクシャクするタイミングが訪れるんです。それは「仕方がない」って思うようにしています。
石川 なるほどー!ふ、ふ、ふかすぎる。悟ってらっしゃいますね。
淡朗 そんな大げさな(笑)。
神聖なる空間、その名はthe magic space!
淡朗 ところでさっきから気になっているのですが、いまこの場で、善樹さんって「見られているな」っていう感覚を持っていますか?(編註:今回の対談は、数名のギャラリーが同席している中、六本木ヒルズの会議室にて行われた。さらに言うと、この対談終了後、両名とギャラリーは場所を移動し、飲食店でリアルな雑談を交わした。石川としてはそちらこそが「本番」だったと言える)
石川 ないない、全然ない。
淡朗 ないんだ。そこがおもしろいですね。僕は少しあるんです。実は、演劇学校に入ってわりと最初の方にやるエクササイズで、the magic spaceというものがあります。「能舞台から発想を得ている」と先生は言っていましたけど、僕は能舞台のことをよく知っているので、「んんっ本当?」って思いましたが(笑)。
それはさておき、the magic spaceでは、十数人いる空間に椅子を並べて完璧な正方形を作ります。そうすることで、「正方形の中は神聖な場所である」という仮定をするんです。その空間のことを、the magic spaceと呼びます。その「神聖な空間」にひとりひとり入っていって、その空間に耐えられるかどうか、というエクササイズをするんです。
石川 みんなは正方形の外側で見ているってことね。
淡朗 そう。自分はみんなで作った神聖な正方形の内側に、ひとりでいるんです。みんなから感じる目線と、神聖な場に入ってしまっている自分との葛藤を感じることになります。
石川 ただ立っているだけなの? 何かしゃべるの?
淡朗 何をしてもいいんです。でも、自然体じゃなければいけない。演技をしてはいけないんです。このエクササイズをすると、結構パターンが2つに分かれるんです。入った瞬間に「恐い、無理!」って言って出ちゃう人と、入ると、ちょっとショーマンシップを出しちゃって不自然な態度を取る人。「私はこの空間をすごく見て、感じていますよ」っていう演技をし出すわけです。そうではなくて、自然体で、素の自分になって、どういう風な気持ちになるかを感じて欲しい、というエクササイズなのに、それができない人がすごく多いんです。
石川 おもしろい!!
淡朗 正解とか間違いはないのですが、それをすることによって、「見られている自分とは何なのか」とか、「演技をしている自分/演技をしていない自分とは何なのか」ということに気づくんです。話を戻すと、いまこの会議室の状況だと、僕は普通に話をしつつも、視界の脇に目線を感じるタイプなんです。そうすると、たとえば映画の撮影だったら、こういうシーンをやっていても、「カメラはここにあってこっち向いている」とか、「照明がここだから、そっちへいったらまずいな、こっちにいよう」とか、そういうことを常に考えているのですが、善樹さんは、常に自然体、ということなんですよね。それ、すごいと思います。なかなかいないですよ!
石川 そうなのかなぁ(笑)。そういえば、ある政治家の人に「うちの講演会でしゃべってくれ」と言われて、30分くらい時間をもらったことがあったのね。聴衆は1,000人ほどいたかな。で、終わったあと、後援者の人たちに「石川さんみたいな人は始めてです」って言われたんだよね。「何がですか?」って聞いたら、「普通、政治家の人に呼ばれて講演をするときは、最初にその政治家と自分の関係性を話す」って。「自分は〇〇先生とこういうところで知り合って……」といった具合に。「だけど石川さん、あんたはそれをしなかったばかりか、自己紹介すらせずに終わったよね」と。
「確かに!」って、そのとき思ったんだよね(笑)。
淡朗 自己紹介しなかったんだ!(笑)
石川 そういわれてみると、確かにみんな、プレゼンの時は自己紹介しているなと気づいて。それで自分もやってみようと思ったんだ。
淡朗 どうでした?
石川 たまたま機会があったのが、昨年、SXSWというテキサス州オースティンで開催されるテック系のカンファレンスに参加したとき。ほかの人のプレゼンを見ていると、やっぱりみんなキチンと冒頭に自己紹介している。「作法なんだな」と、35歳にして気づいたわけです。
でも、みんなと同じはイヤじゃないですか。「いっそのこと自分は、自己紹介をプレゼンの真ん中でしてみよう」と思ったんです。それで30分ほど話した後に、「by the way…I’m Yoshiki Ishikawa」っていったらみんな超ウケてて(笑)。
それで思ったのが、「自己紹介もおもしろいな」っていうことと、「別に最初にしなくてもいいんだな」ってこと。淡朗くんが言った「あんまり気にしない」っていうのは、そういうところなのかもしれないね。
判明! 石川善樹に欠けていること
淡朗 今日、雑談していてもわかるのは、「善樹さんに恥と感じさせることは、とても難しい」ということです。だって普通、写真を撮られるとわかっている取材に、天才バカボンのTシャツを着て来ませんよ(笑)。
石川 恥ずかしいの、これ(笑)?
淡朗 まぁ、着るのが恥ずかしいと思う人の方が、多いとは思います。恥っておもしろいですね。人によっていろいろあるんだなって、改めて思いました。
石川 逆に聞くけど、人は何で最初に自己紹介するの?
淡朗 ひとつにはマウンティングと、あとは自分の正体をさらすことで、安心感を与えるということもあるでしょうね。戦国時代だったら、「やあやあ我こそは」って言うじゃないですか。それは、自分の身分を証明するという意味合いもあるだろうし。
あと、たとえば狂言の演目のおよそ85%くらいは、「これはこのあたりに住まい致す者でござる」という自己紹介から始まるんです。自分の立場を表明するというのは、あってしかるべきですよね(笑)。
石川 くー、やはりそうか(笑)。さっき、外国での雑談が苦手と言ったけど、心当たりがあるのは、「お前は誰なんだ?」「何やってるんだ?」って言われても、「それはいいからさ」って明かさないから、向こうは去って行くのかもしれないね。「誰なんだ??」みたいな。僕の人生に決定的に欠けていたのは、名乗ることだったのか。うーん、恥ずかしくなってきた……(笑)
石田淡朗 | Tanroh Ishida1987年、東京都生まれ。役者。3歳より能楽師の父・石田幸雄を継ぎ、人間国宝・野村万作に師事。能狂言の舞台に立つ。2003年渡英。ギルドホール音楽演劇学校の3年演劇学科を卒業(日本人初)。同窓生には、ダニエル・クレイグ、ユアン・マクレガー、オーランド・ブルームらがいる。コリン・ファース主演の『レイルウェイ 運命の旅路』(2013)やキアヌ・リーヴス主演の『47RONIN』(2013)等に出演。
石川善樹|Yoshiki Ishikawa1981年、広島県生まれ。東京大学医学部健康科学科卒業、ハーバード大学公衆衛生大学院修了後、自治医科大学で博士(医学)取得。「人がより良く生きるとは何か」をテーマとして、企業や大学と学際的研究を行う。専門分野は、予防医学、行動科学、計算創造学など。近著に『仕事はうかつに始めるな』(プレジデント)『ノーリバウンド・ダイエット』(法研社)など。
SHARE