83歳とは思えない鋭い感性で、今なお、第一線で活躍する写真家、操上和美。その感性に若い頃から影響を受けてきたという藤原ヒロシが、操上の写真人生について、じっくりと聞き出した。北海道時代、上京してから、バブル期、そして今——。クリエイティブであり続けるために、操上が自らに課してきたこととは?
photo by Kazumi Kurigami
interview photo by Makoto Nakamori
edit & text by Yuka Uchida
恐怖すら感じた富良野の静寂。それが上京への決意となった
藤原 お久しぶりです。相変わらず、お元気そうですね。
操上 そうだね。藤原さんも元気そうでなにより。
藤原 昨日、操上さんの生まれ年を改めて確認してみたんです。1936年。戦前なんですね。
操上 もちろん、戦前ですよ。
藤原 何か記憶に残っていることってありますか?
操上 僕は北海道の富良野で育ったんです。周りは牧場だらけで、馬もたくさんいて。小さい頃から馬が好きだったんですよ。その日も大好きな馬に乗って出かけようとしたら、ドーンと空襲があった。
藤原 北海道も空襲があったんですね。
操上 ありましたね。高い建物がないから、空を見上げたらすぐそこに飛行機が飛んでいました。一日に3回空襲があったり。ちょうど終戦の年、僕が小学校の中学年くらいの記憶です。
藤原 そうですか、空襲に遭われていたとは思いませんでした。戦時中の北海道がどんな様子だったかまったく知らなかったので。その後、東京にはいつ頃、出てきたんですか?
操上 24歳の春に出てきました。
藤原 それまでは何を?
操上 実家の農業を手伝っていたんです。ただ、一生ここにいるのは嫌だと思っていた。何か新しいことがしたい、と。その頃、母が亡くなるんですが、富良野の墓地は丘の上にあるんです。お盆の頃で、墓地から富良野盆地を見下ろすと、田んぼの稲穂が揺れて、辺り一面が黄金で。人の話し声もしなければ、車の音もしない。どこまでも静かだった。その静寂さに恐怖を感じたんです。俺はここから出ないといけない、そう決心した瞬間でした。
藤原 カメラマンになりたいという思いは、すでに芽生えていたんですか?
操上 もちろん。ロバート・キャパの戦場写真に憧れてましたから。カメラマンになれば世界中を旅できると夢見ていたんです。でも、決心してすぐには上京できなかった。弟を大学に行かせるために、兄と僕とで働かないといけなかったんです。働いて、働いて、いよいよ北海道を出ないとまずいぞと思い、ようやく24歳で東京にやって来ました。
ジャンルは絞らず、何でも撮る。自分が気に入ってさえいれば
藤原 写真の勉強はどこで?
操上 〈東京綜合写真専門学校〉に行きました。なぜ、そこに行ったかというと、重森弘淹という写真評論家が作った学校だったんです。テクニカルなことより、写真理論を学びたかった。写真の見方、人間の見方、社会の見方。そういったことを教わりました。今思い返しても、とても為になったと思います。
藤原 操上さんの同年代の写真家といえば、誰になるんでしょうか?
操上 篠山紀信とは専門学校時代に出会って友達になりましたね。彼は日本大学の写真学科ですが、僕の専門学校の授業が面白いからと時々聴講しに来ていたんです。彼のほうが年下ですが、僕は田舎者なので、東京の遊び方を教えてもらったり。あとは立木義浩さんは僕の1つ年下ですが先輩です。僕が専門学校に通っている頃にはすでに売れっ子でしたね。
藤原 立木さんはアメリカのかっこいい写真を撮ってらっしゃいますよね。立木さんの息子の立木輝樹さんのことはよく知ってますよ。イギリスのSTUSSYにいたり、日本のSupremeで働いていたり、今はファッションデザイナーですよね。そうか、その立木くんのお父さんと操上さんが同世代ということになるんですね。卒業後はどうやって仕事を始めたんですか?
操上 『住まいと暮らしの画報』という雑誌社に就職しました。
藤原 社員カメラマンになったんですね。
操上 でも8カ月で辞めてしまいました(笑)
藤原 それは早い(笑)
操上 編集者とレイアウトを考える時に、毎回、意見が合わないんです。ネクタイを締めて、背広を着て写真を撮るのにも違和感があった。ある時、また写真の使い方で編集長と言い争いになって、こんなに気の合わない編集部なら働かないほうがいいなって。それで辞めて、憧れていた杉木直也さんがスタジオを立ち上げるということで、そこでアシスタントとして働き始めました。
藤原 杉木さんはどんな仕事をしていたんですか。
操上 当時、サントリーが出している『洋酒天国』という広報誌があったんです。杉木さんはその冊子の中で素晴らしいポートレイトを撮っていました。最初の仕事は、東急電鉄のデパート広告ですね。デパートの広告は、ほぼ毎日撮影がある。いいアイディアを出せば写真を撮らせてもらえるし、そこには小池一子さんを始め、当時の面白いクリエイターが集まってきていて、彼らと出会えたのも大きかった。そうやって、広告の作り方を学んでいったんです。
藤原 編集部の所属カメラマンだった頃からすると、一気に最前線の仕事に触れる機会が増えたんですね。
操上 あの頃の仕事はとても勉強になりましたね。
藤原 それから独立してファッションカメラマンとしてやっていくんですね。
操上 いや、僕はファッションカメラマンになろうと思ったことは一度もないんですよ。その頃のカメラマンは大体、ジャンルが分かれていて、例えば山岳写真家とか、料理写真家とか、建築写真家とか。それでよく、君は何写真家なの?と聞かれていました。
藤原 なんて答えていたんですか?
操上 “僕は写真家です”と答えてましたね(笑)。“なんでも撮ります、気に入りさえすれば”ってね。
藤原 ジャンルではなく、自分が撮りたいと思うかどうか。
操上 そう。仕事を始めて少しして、雑誌で勅使河原霞さんの生け花を撮る機会があったんです。仕上がった生け花は肉眼で見ると、とても美しい。でも、カメラのレンズ越しに定点から見ると、余計な線がいくつかあったんです。
藤原 余計な線……。それは、人によっては怒られそうな発言ですね(苦笑)。
操上 そうですよね。でも、勅使河原さんは違った。率直に伝えると、ハサミをすっと差し出してくれました。それで僕が、要らないと思う線を、パチン、パチンと2箇所ほど切ったんです。写真として残すわけですから、その状態になったときに美しいと思えるものを返さないといけないと思ったんです。
藤原 すごい話ですね……。
操上 28歳か29歳の出来事です。若い時にそういった経験を出来たのは大きかったですね。その一件があってから、自分がいいと思うものを率直に伝えていいんだと思うことができました。
藤原 最初に出会った人が懐の深い、真のアーティストだったからですよね。
操上 ラッキーでしたね。だから、若い時から人も、物も、風景もジャンルレスに撮ってきました。自分の心に響くものはすべて。撮らないのは料理くらい。料理は食べた方が旨いですよね(笑)
売れっ子になってからも、いい写真のために、がむしゃらに吸収し続けた
藤原 60年代が働き始めだとすると、仕事として手応えを感じ始めたのは70年代でしょうか。
操上 どうだろう。自分では分からないですが、大阪万博の時はKodakのパビリオンで映像を担当しました。11面のスクリーンに静止画と動画を映し出すような作品を作って。
藤原 その頃から動画を手がけていたんですね。
操上 動画はかなり初期からやっていて、CMのディレクションもしょっちゅう担当してました。最初に頼まれたのはミツワ石鹸のCM。最初はムービーのカメラを回して欲しいという依頼だったんですが、それならディレクションも自分にやらせて欲しいと提案したんです。学生時代に16mmのフィルムカメラも回していたし、どんな絵を撮るか決めるのと、CM全体をディレクションするのは、ほぼ同じことだからって。
藤原 ミツワ石鹸のCMって言ったら、人形が出てくるCMを思い浮かべる人もいますよね。
操上 そんなのもあったね。だけど、もっとオシャレなものにしたかった。それでクライアントがNGと言ったことを全部やってみたんです。白バックで泡を撮っても見えないからダメだと言われていたけれど、真っ白な壁のスタジオに白い猫足のバスタブを持ち込んで、泡風呂を撮った。ちゃんとライティングをすれば泡は映るし、そこにモデルを入れてセクシーなイメージにしました。たちまち話題になって、それから“CMを1本任せられるカメラマン”と思ってもらえるようになったんです。
藤原 企画、演出、撮影まですべてやる。今で言う、マルチクリエイターみたいなことですよね。
操上 自分自身、なんでもやればできるじゃん、と思えた仕事でしたね。
藤原 その頃から、時代はバブル期に突入していきますよね。
操上 海外の仕事がどんどん増えて、ハリウッドの大物俳優と一緒に仕事をしたり。度胸がついていったね。映画『ロッキー』で人気が爆発した直後のシルベスター・スタローンを撮ったりとかね。
藤原 海外スターとはどうやってコミュニケーションを取っていたんですか?
操上 現場には通訳がいるんだけど、彼らを通してやりとりすると、どうもギクシャクしてしまう。だから、通訳を飛び越えて、自らセッションするような感覚でやってました。相手も僕のアイディアを楽しんでくれて。でも、事前準備はしっかりやっていましたよ。ひと言でもいいから、相手をちゃんと理解していることを示せるようにと準備していた。その人についての本を読んだり、映画を見たり、音楽を聴いたり。大江健三郎さんを撮らせてもらったときは、大江さんの本を全部読みましたし。自分は人より勉強していないんだ、という意識がすごくありましたから。大御所にも怯まずポージングを要求する。そのセッションが面白ければ面白いほど、唯一無二のポートレートが生まれる。
藤原 でも、そういったいわゆる勉強ではない”勉強”って大人になってからするものですからね。
操上 人が想像もできないくらい何も知らなかったんですよ。当時の富良野には本当に何もなかったので。流行りの音楽すら入ってこない。そして、音楽を聴く余裕も暇もなかった。東京に来て、音楽も勉強する感覚で、がむしゃらに吸収しました。
藤原 そうやって感性が磨かれていくんですね。
操上 とにかく強迫観念があったんです。自分は学校に行っていない。だから野蛮な人間だと思っていた。東京に来てから本を読んだり、雑誌を穴が開くほど眺めたり、少しでも写真の糧になればとがむしゃらに勉強しました。
美しいものには興味がない。自分の理性に響くものを撮りたい
藤原 操上さんは、現代の写真のあり方についてはどう思っていますか? 例えば、80年代はカメラを持ち歩いている人は限られていたわけですし、ましてやクラブにカメラを持ち込んで写真を撮る人なんていなかった。写真家は特権的に写真を撮って発表していたとも言えますが、今は違いますよね。
操上 そうですね。でも、僕は昔から、誰だって写真を撮ればいいと思っていたんですよね。
藤原 それは意外です。
操上 かつて記者とカメラマンは一緒に行動していて、彼らの指示に従ってカメラマンが写真を撮っていましたが、その頃から「記者が自分で撮ればいいのに」と思っていました。プロもアマチュアも、さほど変わらない。カメラの機材だけで言えば、アマチュアの方がいいものを持っていることが多いですしね。
藤原 僕らアマチュアも100枚くらいシャッターを切れば、その中になかなかいいなと思う写真が1枚、2枚見つかる。そんな風に思ったりもします。
操上 そう思うでしょう? でも、それは違うんですよ。プロは撮るときも100%の力を発揮していますが、選ぶときも100%のエネルギーを使っている。シューティングとセレクション。2つを納得いくまで高めて、初めて自分の写真になるんです。
藤原 確かに、操上さんの美意識は独特ですよね。単に美しいのではない。どこか厭らしいというか。僕なら絶対選ばない写真を選んでくる。
操上 ただ美しいものには興味がないんです。花なら朽ちかけたところ、食べ物なら腐りかけたところに惹かれる。
藤原 その感覚が、ある種の闇を生むというか……。
操上 そう、だから北海道の美しい風景より、東京のカオスの方が面白かった。
藤原 以前、雑誌で操上さんに僕のポートレートを撮ってもらったことがありましたよね。
操上 藤原さんはいつもサングラスをかけて、スマートな出で立ちで現れる。それを壊すと、中から何が出てくるんだろう?と思ったんです。だから、髪を上げて、サングラスを取ってもらえますか?とリクエストした。
藤原 それで、「口元に笑みを」ともリクエストされて、あの一枚が仕上がったと。「この人一体何を考えているんだろう?」と、そんな印象になる一枚でした。被写体への鋭い観察眼と、それをぶち壊して、新しいイメージを作ろうとする衝動。そこにどこか意地悪な視点も混ざっているから、世の中の想像を超えたものが出てくる。
操上 被写体には常に、生理的に自分にアタックしてくるものを求めているんだと思います。
藤原 “見たいものを見る”というストイックな姿勢は、きっと勅使河原さんの生け花を2本切ったところから、始まっているんでしょうね(笑) 今日は操上さんの写真の根っこの部分に触れられた気がします。ありがとうございました。
藤原ヒロシ|Hiroshi Fujiwara
1964年三重県生まれ。DJ、音楽プロデューサー、ファッションクリエイター。英米で触れたクラブ文化を80年代の日本に持ち込むなど、音楽とファッションの両軸で日本のストリートカルチャーを牽引。現在、デジタルメディア「Ring of Colour」を運営する。京都精華大学ポピュラーカルチャー学部客員教授。
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