CITY OF AMORPHOUS

タイトルに偽りありでも良いの2作——連載:菊地成孔「次の東京オリンピックが来てしまう前に」15

「2020年」に向けて、大なり小なり動きを見せ始めた東京。その変化の後景にある「都市の記憶」を、音楽家/文筆家の菊地成孔が、極私的な視点で紐解く連載シリーズ第15回!

TEXT BY NARUYOSHI KIKUCHI
ILLUSTRATION BY YUTARO OGAWA

第15回:タイトルに偽りありでも良いの2作

『万引き家族』の事を65%ぐらい、『焼肉ドラゴン』の事を35%ぐらい書く。どちらもタイトルに偽りがある。

しかし、ケイト・ブランシェットが「ル・ファミリエ・ドゥ・マンビキ」とフランス語で言ったときにはのけぞったぜー。ところでパルム・ドール=黄金の棕櫚。棕櫚ってなんだかわかりますか? 棕梠とも書くのだけれども。

と、それはともかく、是枝監督は自分と同い年なので、いわゆる「同世代感覚」としてよく分かるのだが、デビューしたての頃は、アンファンテリブルつうか、何をしでかすか全くわからないまま、ものすごい才気への注目ばかりが集まっていたジャン=ジャック・ベネックスとか、世界的な監督になるだろうというような形の期待に、歯止めが効かなかった頃のリュック・ベッソンとかみたいな感じで、どんな題材も、現代的な感覚でやってみせまっせ、という感じだったように思う。バブル=ポストモダン=あれもこれも。のパターンである。

その後、いつの間にか、というのは雑すぎるけれども、是枝監督は、一本槍の人に転向する。これもパターンと言えばパターンで、広げ切った風呂敷を、敢えてスモールサイジングするのである。

同い年の(元?)映画監督として、漫才師の松本人志がいるが、完全な逆コース、つまり、ガチガチの漫才師一筋から拡大路線に出て、映画監督にまでなり(「事実上」だが)、映画監督は辞めてしまい、また一筋に戻るかなと思いきや、仕事の幅はゆっくりと奇妙に広がっている。

こうして、「何でもあり」と「一筋」の対置と両極を生きるのは、大体55歳、つうか要するにバブルなのだが、現在の実直そうな佇まいからはバブル等とはイメージ出来ない是枝監督は、一本槍になった。何に?「家族」に、である。

『誰も知らない』以降の是枝監督は、「家族。という奇妙で力強い集団を、何か変わったファクターを設置することで浮かび上がらせようとする」といった作品が主流になって行く(『空気人形』みたいな、突然、萌えがなりふり構わず最前線に位置する物も出しているのだが、これは「韓流効果」による狂い咲きに計上するのが適正だろう)。一番シリアスでシンシアなテーマだ。

そのことには何の文句もない。というか、是枝監督にも『万引き家族』にも、その受勲にも何の文句もなく、何が言いたいかというと、最初に『万引き家族』と聞いた時に思ったのは。「とうとう<家族>って言っちゃうのね」という事だった。大丈夫なのだろうか? とさえ思った。長年に渡り、精神分析を不動の裏テーマとしてきたウッディ・アレンが『彼女と精神分析』というタイトル(邦題)の新作を出してきたら、ザワつく人はザワつく。

『万引き家族』は、ある意味、ヒッチコックの『サイコ』のような側面がある。タイトルを聞き、キャストとあらすじを聞き、トレーラーを見た者の99%は「孫から祖母まで、一家全員が万引きによって生計を立てている家族の話」だと思うに決まっている。『夜逃げ屋本舗』と『エバラ家の人々』とか『逆噴射家族』とか、シリアス方面では、当たり屋を生業に、全国を転々とする、大島渚の『少年』とか、そういう感じだ。

ところがこれがミスリードなのである。確かに万引きはする。しかし、家族の中でも数名がするだけである。

それよりも、これは本当にびっくりしたのだけれども、以下ネタバレです。なななななんと、「万引きされた」のは品物だけではなく、というより、家族を構成する、人々なのである。

あの物語は、嘘でも家族が欲しかったリリー・フランキーが、子供や妻たちを「万引き」して構成する家族。なのである。出来が良いかどうか、パルム・ドールにふさわしいかどうか(そんなもん、タイトルにヤラれなくともわからないんだけれども。『うなぎ』って、そんなに凄い映画だろうか?)わからなくなるほどびっくりした。「おおおおお、とうとうはっきり<家族>って言った!」と思ったら、そういうダブルミーニングなのね。そして、それが大成功するのである。びっくりしたあ。

一方、面白がりで口が悪いネット民が「万引き家族に似てる」と嘯いた作品が『焼肉ドラゴン』だ。これは一部有名な戯曲の映画化で、むちゃくちゃ簡単に言うと『在日韓国人版ALWAYS三丁目の夕日』なのだがけれども、どこが似てると言われたかと言うと、「汚い家屋(もう、見ていて鼻をつまみたくなるような)に人がたくさん住んでいる」つまり、スラムやゲトーライフみたいなものが描かれる、その一点のみで、前者は現代劇、後者は1969年から71年まで、つまり大阪万博の前後を描いているのだが、どちらも「地上げ抵抗した」お陰で、家が汚い。

『焼肉ドラゴン』は、誠実な失敗作である。どう失敗しているかというと、この作品は、感動して泣く、以外に目的が一切ないような一途な映画であって、なのにもかかわらず、あまり泣かせてくれないからだ。

理由は、嫌という程はっきりしている。「泣かせる」という状態に持って行くための反作用というか位置エネルギーというか、弓を射るには最初に引かなければいけない訳で、そのための「笑い」と「痛み」が、少なくとも画面上では遠慮しているようにしか見えないからだ。

何せ、あの、「もう、どのメディアで何の話を、どういう枠組みでしても、面白い以外の結論には持って行かせないだろう」としか思えない、笑いの神に魅入られたが如き大泉洋が、あんまり笑わせてくれないのである。立ってるだけで面白いような所まで上り詰めた、あの大泉が、である(「滑っている」とかでもない。映画自体が、何をやっても笑わせないようなバイブスで貫通されているのだ)。

あと、以下ものすごいネタバレです。肝心要の、いじめから自殺に至ってしまう末息子の、いじめられるシーンが、いかな映画コードがあろうとも、ヌルすぎるのである。

これが韓国の映画かテレビドラマだったら、観客が目を背けるほどの、残虐ないじめの描写があった筈だが、どうしてもこの作品は、刺激(痛みも、笑いも、どちらも刺激だ)に対して、上品に上品になってしまっていて、それを俳優の激しい演技(元々が舞台劇ということもあるが、何せ登場人物は一人を除いて全員が在日韓国人であり、全員があらゆるトラウマによって、女たちまでもが多血漢であり、常に声も枯れんとばかりに、劇中、常に怒鳴りあっている)の定常化が担保してしまっている。そういうバランスなので、いざ泣かそうとした時に、エネルギーの充填がきちんと出来ておらず、泣けない。ちゃんと設計したのに飛ばなかったロケットと同じだ。

と、この、非常に良心的ではあるが、成功か失敗かで言えば失敗してしまっている作品を批評するのが本稿の目的でないことは、当連載の愛読者であればあるほどお分かりであろう。

最初に指摘した、ネット民の気の利いた戯言は戯言として、ちょっと面白い。スラムやゲトー(『万引き家族』は、「一軒屋だけのゲトー」であるけれども)が、ここまでリアルに描かれた日本映画は過去ほとんどなかったし。

それよりも恐るべき事に、この2作は、全く同じ属性を持っているのである。『焼肉ドラゴン』は、のちに万博公園として開発されてしまう、韓国人ゲトーの中で、ホルモン焼き屋を営む家族の話、という意味で、『万引き家族』のミスリードとは逆に、あまりにタイトル通りである。

しかし、なななななななんと、『焼肉ドラゴン』には、肉が焼けるシーンが1秒も出てこないのである。タイトルと設定、炭を入れるシーンと、一回だけの内臓の仕入れシーンがあるだけで、誰もが事前に想像する「肉がジュージュー焼けて、貧しいながらも家族や常連客が焼けて脂と焦げにまみれた内臓を旨そうに貪る」シーンは全くない!

これにはシビれた。なくたって物語は全く問題なく成立するし、泣かせられなかったという失敗は失敗としても、『焼肉ドラゴン』というタイトルで、焼肉シーンがないのは『殺し屋タイガー』というタイトルの、殺し屋を主人公とした映画で、殺人のシーンが一度も出てこないのに等しい。これは、泣かせられなかった=失敗という、因果律がはっきりしている局面とは全くべつのフェイズで、元々が舞台劇で、舞台で焼肉をジュージュー焼くことはなかったのだろうとか、無粋な推測はできるが、それよりも、驚愕していることのほうがはるかに豊かだ。数年後で良いので併映を期待する(嘘。それはどうでもいい)。

profile

菊地成孔|Naruyoshi Kikuchi
音楽家/文筆家/音楽講師。ジャズメンとして活動/思想の軸足をジャズミュージックに置きながらも、ジャンル横断的な音楽/著述活動を旺盛に展開し、ラジオ/テレビ番組でのナヴィゲーター、選曲家、批評家、ファッションブランドとのコラボレーター、映画/テレビの音楽監督、プロデューサー、パーティーオーガナイザー等々としても評価が高い。「一個人にその全仕事をフォローするのは不可能」と言われるほどの驚異的な多作家でありながら、総ての仕事に一貫する高い実験性と大衆性、独特のエロティシズムと異形のインテリジェンスによって性別、年齢、国籍を越えた高い支持を集めつづけている、現代の東京を代表するディレッタント。