CITY OF AMORPHOUS

日本の夜明けぜよ——連載:菊地成孔「次の東京オリンピックが来てしまう前に」12

「2020年」に向けて、大なり小なり動きを見せ始めた東京。その変化の後景にある「都市の記憶」を、音楽家/文筆家の菊地成孔が、極私的な視点で紐解く連載シリーズ第12回!

TEXT BY NARUYOSHI KIKUCHI
ILLUSTRATION BY YUTARO OGAWA

第12回:日本の夜明けぜよ

言うまでもなく土佐の英雄、そして日本史の教科書からその名前が消えるだの消えないだの。そんな男の歴史的な名言であるが、相当高い可能性で、僕が今から書く事とは縁もゆかりもない(ちなみにこの短文の「ゆかり」を「由縁」と書くことも減った。SNS時代の趨勢である。縁と由縁を並べると「えんとゆえん」と読まれてしまう可能性もあるし)と思う。

ただ、あるエッセイストが自分より名声も実力もはるかに上のエッセイストから引用するのはかなり恥ずかしげのない行為だと承知の上で、どうしても書きたいので書くが、私が林真理子氏をノーガードで崇拝するのは、女性誌での長期連載の中での以下のような回によるものだ。

ある日、神田うの氏と親友である氏は、青山の有名なプラダの路面店(通称メルティング・グラスタワー。嘘)でプラダの服を買うとき、試着に際して、なかなか服が身体を通らないとき、そして、そんな試着の果てに店員に褒められている最中、内心で、(ごめんなさいね、こんな太ったおばさんが来て、接客に困るでしょう。神田うのちゃんみたいな子の方がいいよね)と恐縮しながら、プラダの服を買う。

そして話は別の日の出来事、九州で行われたイベントの話になる、予想を超えた暑さから大量に発汗してしまった氏は、Tシャツの持ち合わせがない事に気がつく。しかし会場は九州のとある県の、県庁所在地でもない田舎町である。用意してきたハイブランドの服を汗で汚してしまった氏は、近所に洋品店もコンビニもないその街で、仕方なくホテルの土産物売り場に売っていた、背中に「龍馬 RYOMA」とプリントされた坂本龍馬グッズを着てイベントの準備に参加するのである。

これほど優れたウイットとスマートさを手腕とするエッセイストが我が国に一体何人存在するだろうか? 全てが完璧なエッセイである。と、閑話休題というにはやや長めだったが、要するに私が坂本龍馬について思い起こすことは今やこのエピソードを措いて他にはないという事を強く言いたい。という訳である。

そんな、男子たるもの、英雄志向も革命志向も、何なら伸ばした髪を後頭部で縛る気さえ僅かながらありながらにして、だからこそ、だが、坂本龍馬の崇拝者とは絶対に酒を飲みたくない。そして林真理子氏の崇拝者だったら、知見がなくとも共に飲みたい私だが、最近めっきり「日本の夜明け」にハマりっ切り。これは一体、どうした風のふき回し、否、陽の上り回しなのであろうか?

私は夜行性の深夜生活者だ。英語だと「夜行性」はノクターナル(NOCTURNAL)という、ハーレム・ノクターンとか、ショパンのノクターンとかいうときの「小夜曲」、夜中に月光に照らされながら歌い、奏でられるアレである。今後、菊地成孔ではなくノクタナル孔と改名しても、少なくとも私を少しでも知る者達には特には驚かれないぐらい(「ああ、菊地さんならしょうがねえな。むしろ菊地さんしか名乗れないでしょうその名前」)、私は夜行性である。

何せ、私の「夜」は、1993年以降、約25年間、四半世紀に渡って、天然の夜ではなく、人口の夜である(再びの閑話休題。あの素晴らしい、トリュフォーの最高傑作『アメリカの夜』のタイトルは、昼に撮影したフィルムの露出を変えて、夜景に見せる技術に依る。これはアメリカが発祥のドラスティックな技術で、フランス映画界ではこの技法を「ラ・ニュイ・アメリケーヌ(アメリカの夜)」と呼ぶのである)。

例えば読者諸氏は「遮光カーテン」を使用したことがあるだろうか? あるとしてだが、それはいつの話で、あなたにとってどれぐらい大事だろうか? 死活問題とまで言えるだろうか?

私は93年以来、「遮光カーテン」という名称も不安定で、国内での商品数もおぼつかない、特殊な商品だった頃から購買と使用を始め、以後、家具に類するものを買わなければならない、例えば引越しとか、家族とものすごい喧嘩をすることで、部屋自体が半壊してしまった、といった悲喜劇的なから騒ぎの後とか、あるいは何もない時の暇つぶしとしての空想引越しとか、あるいは、あらゆる家電品の私物に物足りなさを感じてしまった時とか、そういった全ての時間に考えるのは遮光カーテンのことだけである。

お洒落な照明のこととか、原稿を書く時の機能的な椅子のことなんか全く眼中にない。椅子屋や照明屋には申し訳ないが、私はゴミ集積所に打ち捨てられている(英語だとアバンダンド/abandoned)椅子と照明で生きていける自信がある。しかし遮光カーテンだけは、最高級品、最高品質品を常に買わないと生きていけないのである。

私は、多少の偏差を揺れ動きながら、この25年間は、早朝9時(軍事用語で33時)に就寝し、午後2時から3時に起床する。私の夜は、飛行機の国際線の夜と同じ、人造の夜であり、天然の夜、にあたる時間は、仕事かプライヴェートの最活動時間帯、すなわち昼なのである。

私の平均的なランチタイムは深夜3時(軍事用語で27時)で、そのままバーに移動した場合「昼飲み」にカウントされる。文字どおり、正午まで飲むことがあるので、これが本当の(あるいは逆転した)「昼飲み」である。午後1時からそば屋でちょいと一合日本酒を頼んでしまう、ニヤニヤしたような粋な背徳をおそらく私は一生知らないまま終わるだろう。しかし、非庶民としか言いようがない、特殊な背徳感と共に、酒と時間を乗りこなしている。

当然その暮らしにとって、自然の日照は避忌され、隠蔽されなければならない。本稿の目的ではないので詳述はしないが、私が自分で創り上げる人工の夜は、非常に緻密に手のかかったもので、遮光カーテンさえ吊るしておけば出来上がる、という代物ではない。

とはいえ、なんてことはない。国際便より雑だ。私の部屋には、朝も昼もない。つまり、非常に緻密に作り上げられた「夜」は、手をつけられることはない。私は人工の深夜に起床し、戸外にだけ朝昼が存在する。それは、とても短いのであろう。気がつくと夜のとばりは降り、天然の夜が来て、私は深夜営業をしているビストロやトラットリア、割烹か寿司屋、窓がなく外光が入らないファミレスなどに行き、日照まで飲み食いに淫してしまった日には必ずバーに行く。

この「一軒目からバーへ」「バーから自宅へ」の移動時間は当然、天然の早朝だからして、強い陽射しを浴びる。季節によっては焼き払われるようだ。この時間も嫌いではない。10分とかからないし、「うひー。本当の朝だ。太陽光線の匂いと味がする」と思いっきり深呼吸をし、笑いながら過ごす時間である(笑いは、「ヤバい。逃げなくては」という危機感からも生まれやすいのは読者諸氏ならばご存知であろう)。

とさて、こうして私は「日本の夜明け」を、第一には、自然現象として完全に自分と切り離して暮らしてきた。太陽光線は有害説と必須説があるが、自然現象、特に天然エネルギー問題と健康、というテーマで語らねばならないとするなら、多くの学者、専門家などからなるパネリストに「ほら、私をみてください。ここに人間ドックの結果もあります」と、我ながら有効としか言いようがない資料を提出することができる。

そんな私が、以下かなり具体的な固有名詞が頻出するので、コンプライアンスに反さないかどうか、ヒルズ側にチェックして貰う必要があるが、ちょっとランチが遅くなり(私は作曲や楽器の練習を自宅でぜったにやらないので、貸しスタジオに入る。そこで、ついつい今まで出来なかったフレーズが、なんと吹けそうになってしまった輝かしい日、とかに)、早朝4時から、になってしまう場合も多々ある。そんなある時、私は行きつけの店全てに飽きて、特に何のひらめきもなく、デニーズの水道道路店に伺ったのである。

デニーズの多く、あるいは全てが(検索すれば瞬時にわかるが、しない。謎と未知というエロティシズムが人生から失われるのは耐えられない)24である。滅多に入らない2階店に私は入店した。11月とかそこらで、まだ外は真っ暗だった。

デニーズはジョナサンと並び、前菜の小皿に力を入れている。私は海老フライと、ほうれん草とベーコン炒め、たらこマヨネーズが添えられたフレンチフライを注文し、グラスワインの赤を一杯、そして、それら全てをカスタマイズすべく、ラボの中の研究員よろしく、ミニマルで確実に正確に動きまくった。

ほうれん草は乳脂肪と油脂を吸収しやすい。コーヒーフレッシュ3個は、瞬く間に吸収されてクレーム・ド・スピナッチとなり、皿には一滴のミルクも残らない。ただ塩気が下がるので、テーブルにある塩で味を調整する。チーズの味に近くまで、が目安だ。海老フライは通常、中濃ソースが付く(タルタルソースも付く)が、これを下げてもらい、ケチャップとマヨネーズとウスターソースを頼み、オーロラソース紛いを作る。ワインは生で飲めるほどの味ではないので、インスタントのサングリアにする。サングリア液の調合配分はカルピスグレープ4、ミニッツメイドのオレンジジュース1、セルフメイドで濃いめに煎れたアイスダージリンを1。これを使って、一杯の赤ワインを二杯のインスタント・サングリアにする。トートバックに常備されている、日本で最も辛い赤唐辛子である「バードアイ」をたらこマヨネーズのソースにほんのひとふり。

凄まじい充実感と虚しさ。料理人の一家に生まれ、料理人になるべく英才教育を受けた私は、そこから逃げ、さらに逃げ、あらゆるものから逃げまくって、今、自炊は全くせず、早朝からデニーズの料理をカスタマイズして満足しているのである。

そこから見えたのは、日本の夜明けであった。

有名な(車の「ミニ」社展示場の2階にある)新宿中央公園店もそうだが、デニーズの2階店舗は、ウインドウを極限まで大きく取っていて、外景がすっかり見えるようになっている事を、私は昔から知っていた。しかし、特に夏場、そこに居座っていれば、わずか40分もすると、白々と夜があけてくる。

私が落涙したのは、水道道路店の禁煙席で、並び席全てをカバーする巨大なウインドウからは、初台の新国立劇場の裏手に当たる、かなり大きいと言ってやぶさかでないテニスコートが見下ろせる。

私はクレーム・ド・スピナッチを口に入れ、ロッソのサングリアで流し込んでいると、誰もいなかったテニスコートに、蟻のように小さい、フィラのテニスウエアを着た青年と老人が現れた。私は傷ついていた。音楽家である私は悲しいことが大好物である。忌まわしいことも、耐え難いことも、因果なことに大好物なのである。

人生は短い。大変な享楽の裏には、ほんとうに悲しい出来事や、きつい仕打ちが待っている。友人を亡くすことも増えた。妻と愛人の双方と、修羅場をダブルで味わった後も私は24のファミレスに行っていた。彼女たちが泣き疲れて寝てしまってから。音楽ビジネス、特にコンテンツ商売がこんなに辛い産業になったのは20世紀のツケである。ツケを払う時代に、わざわざ私はフリーランスをやめ、事務所の代表取締役になり、つまり業界全体がツケを払う、その先端に並んだのだ。おあつらえ向きに。

神は無慈悲で、これら全てが一つの物語の中に全て含まれてしまうことだってある。ああ、辛いなあ。へへへへへ。よくここまで来たよなあ。そもそもこの店、離婚した前妻と、親友のように仲がよかった頃、よく来てた。ああ、人生とは何のためにあるのだろう。今日のオーロラソースはすごく上手くいった。練りを入念にやったからだ。旨い。ああ、旨いなあ。旨いものを食っているだけで後ろめたい。

私は、無音の、広くて美しい、綺麗に並んだテニスコートのひとつで、蟻のような大きさの一番乗りが準備運動や素振りをする姿を通して、夜明けを見ていた。巨大なウインドウ越しに。こんなにまじまじと夜明けを見るのは何年ぶりであろうか。

全てが完璧に配置されていた。テニスコート、国立劇場の裏、デニーズのテーブル、その上のエビ、ベーコン、フレンチフライ、赤ワインと、即席サングリア用の混合液。悲しみ、喜び、静寂、それらを、夜明けの光が、プールの中の水のように、店内にゆったりと満たされていた。

私は、いとも簡単に落涙した。私の、すでに友と言って差し支えない、遮光カーテンについて考えながら。私は思い出し笑いをした。林真理子氏のエッセイを思い出して。私は再び泣いた。夜明けの光をゆったりと浴びることで。「夜は死の友達だ。だから俺は寝ない」とラッパーのNASは言った。私は彼を信じる。そして、夜明けがこんなにも簡単に私の涙を誘発するとは思いもよらなかった。夜明けは神の友達だ。だから多くの人々は、この時間を外して起きる。私は泣くのと笑うのがミックスされた。そして、四半世紀ぶりの、この時間帯にしか経験できない浄化を経験し、早く夜が来ないかなあ。もったいないよこんなのは。と思ったのである。その時私がCDウォークマン、通称ディスクマンで聴いていたCDを明記する。もしあなたが、私とそこそこ同じ経験をしたいのであれば出来るように。


POOM /MY LICOR NE & ME
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        FRENCH KISS

profile

菊地成孔|Naruyoshi Kikuchi
音楽家/文筆家/音楽講師。ジャズメンとして活動/思想の軸足をジャズミュージックに置きながらも、ジャンル横断的な音楽/著述活動を旺盛に展開し、ラジオ/テレビ番組でのナヴィゲーター、選曲家、批評家、ファッションブランドとのコラボレーター、映画/テレビの音楽監督、プロデューサー、パーティーオーガナイザー等々としても評価が高い。「一個人にその全仕事をフォローするのは不可能」と言われるほどの驚異的な多作家でありながら、総ての仕事に一貫する高い実験性と大衆性、独特のエロティシズムと異形のインテリジェンスによって性別、年齢、国籍を越えた高い支持を集めつづけている、現代の東京を代表するディレッタント。