CITY OF AMORPHOUS

エヴリシング・ハプンズ・<ミー・トゥー>——連載:菊地成孔「次の東京オリンピックが来てしまう前に」14

「2020年」に向けて、大なり小なり動きを見せ始めた東京。その変化の後景にある「都市の記憶」を、音楽家/文筆家の菊地成孔が、極私的な視点で紐解く連載シリーズ第14回!

TEXT BY NARUYOSHI KIKUCHI
ILLUSTRATION BY YUTARO OGAWA

第14回:エヴリシング・ハプンズ・<ミー・トゥー>

 

書くのも野暮だが「EVERY THINGS HAPPENS ME TO」である。文法的に若干おかしい。それもその筈、これはJAZZのスタンダードナンバーとして、かのフランク・シナトラ、チャーリー・パーカーはもとより、マイルス・デイヴィスもチェット・ベーカーもエラ・フィッツジェラルドもジョン・コルトレーン(以下、50人ぐらい)も歌い、演奏した「EVERY THINGS HAPPENS TO ME」の、最後の二つのワードを入れ替えただけのものだ。

私は今、緊張の極にいる。PCを打つ指が震えている。これまで、コンプライアンスだの地雷ネタだのの制限を全く受けず、何よりも連載フォームに「ツイート○○/いいね!○○」っつう、成績表みたいなクソ忌ま忌ましいアレがなく(驚くべきことに「アレが無いと不安で何も書けない」というエッセイストがいるらしいが特に驚かない)、好き放題書くことでWIN WINの状態を保っていた、私とHILLS LIFE DAILYさんとの成熟した大人の関係も、今回とうとうヒビが入ってしまうかもしれない。

何せあの「ミートゥー(MeToo)」を扱うからである。PCは、打つ指がどんなに震えていても、入力してしまえば全くわからなくなってしまうのがもどかしい。

自分で決めたテーマなのに、書き始めるのが怖すぎることにより、「EVERY THINGS HAPPENS TO ME」の歌詞和訳を書くことにより、時間と文字数を稼ぐ態で心を鎮めようと思う。決して文字数稼ぎではない。決して。指は震えたままである。

逐語訳すれば「自分には、あらゆる事が起こる」というタイトルであるこの楽曲の歌詞とは、私の中学生レヴェルの英語力で訳せば以下のようなものだ。

<賭けてもいい ゴルフの予定を入れたら必ず雨降り
ホームパーティーをすれば上の階から苦情
風邪をひく 電車に乗り遅れる 僕の人生はそんなことばっかり
僕にはどんなことだって起こるのさ>

と、優雅ながらツイてない男の、嫌味にならない程度の嘆きを、巧みな韻の踏み方と修辞法で洒脱に綴ったこの歌詞は、こうして始まり、最後にこうした結末を迎える。

<最初は こんな僕のジンクスなんて 君が破ってくれると思ってたんだ 恋がこの不幸を終わらせてくれるって思い込もうと必死だった>

<だけどやっぱり自分に嘘はつけない 叶わぬ夢で出来たお城は 抵当に入ってしまった>

<電報も打ったし 長距離電話もした 特別便のエアメールまで送ったっていうのに 君からの返事は「さよなら」

しかも 郵便料金不足の催促>

<たった一度だけの恋だったんだ 君じゃなきゃダメだって思ってたのにさ 僕にはどんなことだって起こるのさ>

とまあ、踏んだり蹴ったりの主人公であるが、曲の方は明るくスインギーであり、ガッカリもヤレヤレもエレガントなユーモアで洒脱にまとめる、ジャズスタンダードナンバー(その多くが、ミュージカルの挿入歌として書かれているのだが。プチトリビア入れてみました)平均のマナーに従いながら、その完成度の高さから名曲として今でも歌い、演奏され続けている。

と、もう時間稼ぎは出来ないので本題に入るが、ウッディ・アレンは兎も角、あのデンゼル・ワシントンまでを吊るし上げる逆魔女狩りであり、フェミニズムと言うより、プレ・フェミニズムもしくはポスト・フェミニズムの集団ヒステリーである側面が強い「ミートゥー」運動(ああ、書いちゃった。今回、最終回である可能があります。読者の皆さんの長年のご愛顧に感謝します。それにしても、トラウマを残す、酷いハラスメントがこの世にあることは飲み屋の倅としても、ジャズ屋としてもよく知っているし、被害者には同情するけれども、デンゼルが「今日の服はセクシーだね」なんつって、軽く腰のあたりをポンポン触ったりする事に、公開の謝罪なんかさせんなよ落ち着け。「ミートゥー」に、これ以上エヴリシングをハプンズさせたら収集つかなくなるぞ)よりも前から「セクシャルハラスメント」という概念も言葉も当然あった。

これは一例だが、私がとある音楽大学の非常勤講師に着任する際、「授業マニュアル」みたいなものを渡されたのだが、ほぼ10年前に、電話帳ぐらいの厚さがあって、その半分ぐらいが「セクシャルハラスメントに関する指導要綱」に費やされていた時には、申し訳ないが笑った。

ここまで読んで「なんだコイツは、被害者の皆さんが受けた傷をなんだと思うんだ。傷があ、傷があ。心の傷があああああああああああああアアアアアア」と拳を握りすぎて指の骨を骨折されておられる方もおられるだろうから、落ち着いてほしい。私が笑ったのは、

*学生の服装について言及をしないこと。いかなる個人的な判断に基づく発言も許されない。(例)「君は男の子なのに、ピンクの服を着てるんだね」「そのブラウスの背中のデザイン素敵だね」

とかいう極所に対してよ! セクシャルハラスメントとかよりはるか以前に、こんなこと普通に言ったらダメだろ先生が学生にさ!

また、

「講義中に学生の顔や体の一部分だけを見てはいけない(例:髪型、メイク、肩、首、腕、胸、胴、腰、脚、等々)」って、もう天井か床みて講義するしかねえだろ!(笑)。「肩、首、腕、胸、胴、腰、脚」って、解剖学の授業もしくは漢字辞典かよ!!!!(笑)

といった記述に対してである。私は、要綱のほぼ全てを破った。お洒落な学生がいたら「いいねえ、そのピンクのアウター。蛍光素材?ヒップホップっぽいね~」だの「おお、かっこいいカッティングだねそのスカート。それって後ろの裾は地面こすっちゃわない?」ぐらいだったら普通に、積極的に、敢えて言った。喜ばなかった学生は1人もいなかったし、果たして一度も問題になった事はない(ベートーベンやバッハばかりやってきた学生達に、ブルーノートやモード奏法の理論を完全に理解させ得なかった。という事の方が、遥かに問題だと思ったが、その点は問題視さえされなかった)。

もう、この際だから書くが、10年前、私にセクシャルハラスメントを受けたという元学生は、ミートゥー!と叫びながら積極的に訴えてほしい。言われるがままに謝罪するので。

と、10年前ではなく3時間前に飛ぶ。

私は私塾でサキソフォンを教えている。ビギナーというものは常に、技術上の反射的は恐怖と硬化によって、いつ習得に不全が出るかわからない、迷える子羊である。講師の仕事は、第一にはその恐怖を与えないことだが、第二には、もし生徒が恐怖を作り出してしまったら、速やかにそれを取り払うことである。

フィンガリング(指の技術)に対して、「自分は指が不器用で、うまく動かせない」と思い(実際に指が動かせないわけではない事が90%である)、そこからリンクする形で、音が小さくなり、出なくなり、あらゆる技術が死んでしまう事、つまり「自分はサキソフォンが下手である。向いていない」と、連合的に思い込む、というケースは多々ある。

きっかけはレッスン中に指が回らず、羞恥心を感じた、たった一回の経験である。指だけに限らない、あらゆる局面で、羞恥心を感じた生徒はゾーンに入ってしまう。こういった状態にある生徒に、一番手っ取り早く、かつ確実に自信を回復する方法がある。

今ではテレビの寄席番組などでも滅多に見なくなった「二人羽織」をご存知だろうか?大抵は蕎麦を食い、うまく食えない様を見せて笑わせる芸である。

あれと同じ態で、サキソフォンを生徒にくわえさせ、背後に回って、バックハグのように抱きつき、生徒の楽器のキーを、教師が二人羽織よろしく操作する。想像してみてほしい。こんなもん誰が見たって立派なセクハラだ。教師の顔面は、横向に生徒の背中にある。今から酷い言葉を使うが、もしペニスが勃起していたら(因みに、生徒は女性だった)、そんなもん、生徒の腰のあたりに押し付け放題である。

「いいですか? あなたは、自分はサックスがヘタだ。音が綺麗に出ない。そもそも才能がない。と思い込んでいます。でも、指がちょっと不器用で、人よりちょっと動きが鈍いだけです。あなたの好きな曲で、難しくて一生絶対にできないな。と思う曲があったら言ってください」

「……チャーリー・パーカーの『ドナ・リー』」

「わかりました。じゃあ、僕が指だけやるんで、ドナ・リーを吹いてみてください。指は僕に任せて、思いっきり息を吸って、思いっきり吹いてください」

と言って背後に回り、吹かせるのである。生徒は曲を知っているし、あまりの驚きに、ハイになって大きく吹く。すると、その曲が(不器用ながら)吹けるのである。ほぼほぼ99%の確率で、その生徒本人も、ギャラリーである他の生徒も、驚愕し、感心し、大笑いして、拍手をする。

彼女からのミートゥーの訴えはまだない。何せ3時間しか経過していないし、僕の方で、拍手の中「ミートゥーとか言わないでくださいね(笑)」と、釘も差したからな。やがて彼女は、ネットなんかを見て、自分がされた悪質なセクシャルハラスメントに対して、ネットから勇気を貰い、泣き寝入りなどしないように、立ち上がるだろう。僕にはどんなことだって起こるのさ。

profile

菊地成孔|Naruyoshi Kikuchi
音楽家/文筆家/音楽講師。ジャズメンとして活動/思想の軸足をジャズミュージックに置きながらも、ジャンル横断的な音楽/著述活動を旺盛に展開し、ラジオ/テレビ番組でのナヴィゲーター、選曲家、批評家、ファッションブランドとのコラボレーター、映画/テレビの音楽監督、プロデューサー、パーティーオーガナイザー等々としても評価が高い。「一個人にその全仕事をフォローするのは不可能」と言われるほどの驚異的な多作家でありながら、総ての仕事に一貫する高い実験性と大衆性、独特のエロティシズムと異形のインテリジェンスによって性別、年齢、国籍を越えた高い支持を集めつづけている、現代の東京を代表するディレッタント。