CITY OF AMORPHOUS

低温調理の焼肉屋と熱伝導アイスクリームスプーン——連載:菊地成孔「次の東京オリンピックが来てしまう前に」13

「2020年」に向けて、大なり小なり動きを見せ始めた東京。その変化の後景にある「都市の記憶」を、音楽家/文筆家の菊地成孔が、極私的な視点で紐解く連載シリーズ第13回!

TEXT BY NARUYOSHI KIKUCHI
ILLUSTRATION BY YUTARO OGAWA

第13回:低温調理の焼肉屋と熱伝導アイスクリームスプーン

これは食べ物とその温度をめぐるシンメトリックな二つの事実である。それは1日の内に連続して起こった。

私はアイスクリームが好きだ。アメリカで実際に起こった事故だが、私よりも遥かにアイスクリームを愛する女性が、あのでっかい、バケツみたいな、業務用のアイスを買ってきて(おそらく、コストコみたいな所で、否、アメリカでは、あらゆるスーパーマーケットであのサイズが普通に買えるのだろう)、こう、ボール状にアイスを掻き出す業務用の特殊スプーンみたいなのを片手に、バケツアイスを小脇に抱え、ずーーーーーーーっとアイスを食べ続けている間に、低体温症で亡くなった、という話を聞くだに「なんて良い死に方だ」と思うほどである。まあ、これはアイス云々より、「アメリカ的な死に方」という問題系だと思うが、まあそれはともかく、私はアイスクリームが好きで、ということは、アレを買わないといけないのだった。

それは「熱伝導率の良い新素材の金属を使い、手から体温を伝えることで、どんなカチンカチンのアイスにも、まるでプリンのように、スッとスプーンが入る、という魔法のスプーン」である。テレビの地上波の番組(未だに私の情報源である)によれば、「今や、アイスクリームラバーは必携」だそうで、誰もがこれを買い、鞄に忍ばせているのだ。

辛いものが好きな人々が、ブランド唐辛子の瓶を鞄に入れて持ち歩くように(因みに私はこれは既に実行している。物凄く役に立つ。名前は出せないが、唐辛子を卓上に常置している飲食店チェーンで、そこの唐辛子の瓶に、マイ唐辛子を半分ぐらいミックスして帰ることもしばしば。これは明らかに犯罪だが、義賊すなわち鼠小僧の気分だ。なぜなら、店が常置している唐辛子よりも、遥かに美味く、その店のメニューが何倍も引き立つからである。私の後、更にその後、同じ卓で食事をする客たちが「なんかここの唐辛子美味いねえ」と、ささやかな喜びを感じていることを想像するだに満足感による笑いが止まらない)。

早速私は買いに行った。どこで売っているのだろう? 私は(20世紀以前の事について以外)検索をしない。そんな事はデパートに入ればわかるのである。受付のお姉さんに聞けばたちどころにわかるが、それは検索のようなことだ。各階を歩き回れば、そんなもん嗅覚で見つかるに決まっている。現代人はこの力をどんどん失っている。私は最近、携帯電話を持っている友人の電話番号を暗記するようにしている。縄文人にでもなった気分だが、とても脳が気持ち良い。

果たして、所謂おしゃれインテリアショップにあった。王様のアイディア的な、おもしろ便利グッズ屋にももちろんあるだろう、東急ハンズに行けば立ちどころに手に入るだろう。しかし、洒落たグラスやランチョンマットを売っているこの店にもある、私はテレビで見た瞬間に、「そういうものだな」と判断していた。

魔法のスプーンでなくとも、もはやそれは、デザインだけでも十分購入に足る、おしゃれなアイスクリームスプーンなのであった。私は15個購入した。知り合いに片っ端から配るためである。

20個でも30個でも良いのだが、転売者だと思われる可能性がある。私は思われても良いが、思う側の店員が気の毒であるからして、「ああ、この人はお友達がいっぱいいるのだな。そして、どんなお友達にもこのスプーンは喜ばれると評価くださったんだ」と、気持ち良く売ることができるよう、15個にした。5色あったので、3つずつ買った。

これが昼の3時である。その後、私は仕事をし、仕事を終え、晩飯を食いに出かけた。

その焼肉屋は、中野坂上と山手通りがクロスする場所にあり、大体この辺りの飲食店は混んでいて、そこそこ美味い。

業界用語で「中央」というが、これは新宿ど真ん中、例えば3丁目界隈などのことであって、この辺りには住めないし、この辺りで飲み食いすると落ち着かないし、あるいはこの界隈で飲み食いしようにもどこも満席で、といった人々が飲み食いに来る、つまり、「中央」を敢えて決然と避ける人々によって形成される、一番美味いドーナツ地区みたいなものだ。代々木上原なんてあなた。美味いドーナツがこじれて、美味すぎちゃって、すでに別の中央になっている。

ま、それはともかく、私は安心してその焼肉屋に向かったのではない。かなりの不穏さを感じながら向かったのである。車でそこを通るたびに、とても不穏な気持ちに駆られた。全く美味そうなオーラがしない。しかし、矛盾するようだが、美味そうなオーラがあるのだ。こんな不穏なことがあるか。全く善人っぽいオーラがない、しかし、善人っぽいオーラがある人物と一緒だ。

しかも中野坂上スクエアである。こないだ「アンナチュラル」見てたら、石原さとみがロケやってたよここで。もう一等地と言って良いだろう。そこに、その不穏な焼肉屋はあった。

大変な空腹でありながら不穏さを感じている、という、かなり高級で複雑な心身の状態で、私はその店に入った。所謂、「昭和再生酒場」的な内装、そこかしこに1960年代の日本映画のポスターが貼ってある。そのセンスに対する評価はどうでも良い。美味ければメキシコのプロレス映画のポスターばかり貼ってあろうと(それセンス良いけど。普通に)、不味ければ萌えアニメのセル画でいっぱいだろうと、とにかく因果律では結べない。何と何とが?

そのセンスと、客の数である。私が訪れたのは金曜の夜9時である。そして客数は、40人以上収容可能な店内にて、ゼロ、すなわち私だけだったのである。

私はゾクゾクした。一体どんな不全や問題があるのだろう。物凄く肉質が悪いとか、信じがたいほど店員の程度が劣悪だとか、トイレが汚いとか、様々な理由が夢想できる。

そしてそれは、嗚呼、何たることであろうか、「炭の温度が低い」のであった。

私は焼肉屋にうるさい焼肉好きでもなんでもない、好きなのはアイスクリームであって、焼肉はまあ、普通の食べ物だ。私にとって。しかし、これには愕然とした。ちゃんと、炭火と網による、誰でも知っている当たり前のアレが出てくる。天井からは排煙のダクトもちゃんと下がっている。

それでも、その店の炭火の温度は、「異常」というにやぶさかでないほど低いのであった。

読者の皆さんは、「焼肉屋の炭火の温度が低いと、焼肉がどうなるか?」ご想像つくであろうか? 料理に興味がない方だったら、想像もつかないだろう。一方、グルメをもって自認されるような御仁は、すぐに想像がつくであろう。この10年間で急激に頭角を現した飲食業界のトレンドに「熟成肉」と「低温調理」があることを。そう、その通り、この店は「低温調理の焼肉屋」なのであった。

「低温調理」については、私はしないが、皆さんは検索するが良いと思う、すぐに山ほどの情報が手に入る。派手な焦げ目や、肉を加熱する醍醐味であるジュワーとかバチバチバチとかいったサウンドが一切しない、長時間かけて、ゆっくり火を通し、どんな食材も(特に肉だが)ふんわり柔らかに仕上がるのである。私の記憶では、最初はとんかつで、低温でゆっくりじっくり揚げた(というか、コンフィみたいに、「油で煮た」ような)ものを、最後に一気に加熱して衣にカリっと感をつける。そうすると、我々が知っている、あのとんかつの、素晴らしい雑さや大味な感じではなく、シルキーかつサクサクした、童話やSFの世界のとんかつみたいな、新食感のとんかつが出来上がる。

やがてそれは、あらゆる料理の、あらゆるメニューに採用されるようになった。数年前のパリのビストロは、もう火入れは低温じゃないと、食材が繊維や分子の単位で壊れてしまいますよセボン!といった勢いで、あらゆる料理が、ふんわり滑らかな歯ごたえと舌触りに席巻されてしまったほどだ。

と、それが焼肉になるのである。タン塩の厚切り一枚焼くのに10分かかる。メニューの写真では、よだれが出そうな、ワイルドな焦げ目がついた、てっちゃんは、とうとう焼き目がつかないまま焼きあがってしまう。私は内臓の盛り合わせを注文したが、これはもう「炭火焼きの網の上で煮ている」としか言えない。

読者諸氏は、この焼肉が美味いか不味いか、ほぼほぼ90%の方が「不味そう」と思っているのではないかと推測される。私はなるべくフラットな表現を心がけたつもりだが、どうしても不味そうな描写になってしまっていることは否めない。

しかしである。焼肉ではなく煮肉、しかも内臓の味はいかなるものか? これが結構美味いのであった。私は今でこそしないが、免許さえ取れば料理人として生きて行ける自信がある。なのでわかるのである、仕上がりの味と食感が。

「うわああ、このホルモン盛り合わせ、ふんわり柔らかでシルキーな、汁なしのモツ煮みたいなことになるぞ、先入観さえ捨てれば、う、う、う、う、うまい、、、のでは?」

そう、果たしてそれは、そこそこ美味いのであった。客がいないのは、不味いからではない。友達がいないのが、容姿や性格が醜悪だからではないのと同じだ。客は戸惑ったのである。未知の結果に。服装も言葉も肌の色も違う転校生に。

私は、先入観によって、未知の状態を恐れるような人物ではない。大久保通りの回転寿司に、おそらく日本で初めて、アフリカ人の握り手が来た時も、特に驚かなかったし(味に特別な違いがあったわけではなかった、というのも大きいが)エルブリもファットダックもノーマも行ったが、とても楽しかった。低温調理も熟成肉も、大いに楽しんだ。オーストラリアではワニを、中華人民共和國では昆虫の料理に舌鼓を打った。

それでも、低温調理の焼肉、がもたらしたものは、「異様」としか言えない感覚だった。不味くて食えたもんじゃない。のであれば、異様ではない。そこそこ美味い、下手すると、これ流行るんじゃねえの? という味わいと、客が本当に全く、私以外一人もいなかった(それは私の退店まで続いた)という事実、東映サラリーマン喜劇の、これ見よがしにレトロなポスター、そもそも、全くアツアツ感のない、丁度良い温かさのもつ焼き、といった存在の、ユートピアかディストピアかわからない近未来感、などが相まって、私は文字どおり、「異様な生ぬるさ」を抱いたまま、満腹したかどうかもわからない状態で、会計を済ませた。

帰宅した私は、次に訪れる異様さは、同じ異様さでも、楽しく面白く、ちょっとした魔法のエレガンスもある事態なのだと、過度に願いたがった。冷蔵庫には、カチンカチンに凍ったハーゲンダッツが満載されている。

そして、私の過度の願いは、決して過度ではなかった、よく握って、最初のひとさじ(というのだろうか?)を氷結したツンドラ地帯に差し込んだ瞬間、それはテレビのレポーターが口々に驚いた、その驚きと全く同じものが私に訪れたことを知った。そしてそれは、低温調理の焼肉が持つ「異様さ」と真逆の、大変な安心感を伴った魔法なのであった。

一気に結論に飛ぼう。しかしあの「魔法のスプーン」には、構造的な欠陥があったのである。いや、この言い方は彼への侮辱になりかねない。厳密さを心がけよう。

熱伝導が、熱源から逆の端に向かってだけ生じるわけがない。両端を持つ構造体の熱伝導は双方向的だ。つまり、アイスの冷気もまた逆方向に伝導され、結果スプーン自体がキンキンに冷えるのである。

何て事はない。ひとさじ目(というのだろうか?)からふたさじ目、3さじ目ぐらいまでに我々を魅了した魔法は、突如、中学生レヴェルの物理の実験の、穏当な結果に変わる。熱伝導率が良いということは、極言すれば、「手で直接アイスを食っているのと同じ」という事に成る。介在物による抵抗が限りなくゼロになるのだから。

「いえ~、そういう事か(笑)、ま、そりゃそうだわな(笑)、いやあそれにしても、童心に帰ったとはこの事だぜ。(家内に向かって)ねえ、これ、一気に食えねえ、休み休みにするか、ホカロン巻いてないと使えないわ。っていうか、そうか、小さな発熱体をスプーンに仕込めば良いんだよな」と私が言うと、家内は「それじゃおしゃれでも可愛くも不思議ですらないでしょ」と言った。彼女の名誉のために言うが、彼女はアイスクリームのように冷淡なドラスティストのリアリストではない。一つの魔法がかかったままになり、一つの魔法が消え失せただけだ。1日の内に。

profile

菊地成孔|Naruyoshi Kikuchi
音楽家/文筆家/音楽講師。ジャズメンとして活動/思想の軸足をジャズミュージックに置きながらも、ジャンル横断的な音楽/著述活動を旺盛に展開し、ラジオ/テレビ番組でのナヴィゲーター、選曲家、批評家、ファッションブランドとのコラボレーター、映画/テレビの音楽監督、プロデューサー、パーティーオーガナイザー等々としても評価が高い。「一個人にその全仕事をフォローするのは不可能」と言われるほどの驚異的な多作家でありながら、総ての仕事に一貫する高い実験性と大衆性、独特のエロティシズムと異形のインテリジェンスによって性別、年齢、国籍を越えた高い支持を集めつづけている、現代の東京を代表するディレッタント。