長崎の原爆の跡を追うことも。沖縄の自然や歴史や人々を撮ることも。戦後の日本とアメリカの境界線を可視化し、見る者の前に差し出すことだった。翻って、一見、あまりにも身近な題材に見える、プラスチックの残骸を撮ること。しかしこれは大きく文明の断面を撮ることだった。
TEXT BY Yoshio Suzuki
Photo by Keizo Kioku
Courtesy of MISA SHIN GALLERY
東松照明は戦後の写真表現(「戦後」と書くが、もう75年という時間の長さ。写真と写真表現が目覚ましく発達した時期だ)に大きな足跡を残した一人だ。
南麻布のMISA SHIN GALLERYで展覧会「プラスチックス」が開催中である。
経歴を簡単にさらうと、1930年、名古屋市生まれ。本名、照明(てるあき)、54年、愛知大学経済学部を卒業後、岩波写真文庫のフォトグラファーになる。56年、フリーランスとなり、61年、奈良原一高、川田喜久治、細江英公らとVIVOを結成。アメリカと日本の関係、占領、長崎の原爆、沖縄をテーマにした作品で高い評価を受けている。2012年没。
愛知で生まれ、学校を卒業した彼が、沖縄を、長崎をルポルタージュと芸術性の高い写真にまとめたことには必然がある。少年期(戦前・戦中)に住んでいた家の向かいに敗戦後、基地が出現したこと。岩波写真文庫でキャリアをスタートさせ、アサヒカメラ、カメラ毎日、日本カメラなどで作品を発表し、彼ならではの表現を確立していった。
とくに1969年、アサヒカメラの特派記者として行った、本土復帰直前の沖縄が転換点になっている。1972年には沖縄の本土復帰に立ち会い、そのまま住民票を移し、その後2年ほどの間、始めは那覇、続いて宮古島に住むことになる。その後、長崎に、そして東京に戻るが、心臓のバイパス手術を受けた彼は療養のため、千葉県の一宮町に転居。そこで「プラスチックス」のシリーズが始まる。
仕事のテーマに従って、住処を定め、取り組み、名作を残してきた。
『〈11時02分〉NAGASAKI』、『OKINAWA 沖縄 OKINAWA 沖縄に基地があるのではなく基地の中に沖縄がある』、『太陽の鉛筆 沖縄・海と空と島と人びと・そして東南アジアへ』など。また、住んだ場所でも、基本的な理念を持ち続け、作品制作に取り組んだ。
しいていえば、東松照明は「境界面」を撮りつづけてきたのではないかということだ。戦中そしてしばらく沖縄は、日本とアメリカの境界面だった。その断面を切り取る仕事が目立つ。長崎も原爆の落ちた11時02分を境として、一変する。そのとき、日本の無条件降伏も決定的になる。常に境界、切り替え面である。
そんな東松の、しかも「プラスチックス」の展覧会と聞いて、記憶がよみがえってきて、この展覧会を興味深く見た。というのも、このシリーズが最初に発表されたのは、1989年、パルコギャラリーで、東京を皮切りに札幌、大阪と巡回したのだが、そのとき、僕は女性誌の編集者でその雑誌の「ART欄」を担当し、作家、東松照明にインタビューをしているからだ。
建て替わる前の渋谷のパルコの近くの喫茶店で、1時間ほど発想や制作の話をうかがった。
東松さんのことはそのときから10年ほど前に出た『現代日本写真全集』(集英社)の中の1冊、『光る風―沖縄』を繰り返し見て知っていたし、ニューヨーク近代美術館に日本人の写真家としては早い時期から、作品がパーマネントコレクションになっているということでも知っていた。戦後の日本とアメリカの関係を写真のルポルタージュによって伝え、しかも、単なる報道写真ではなく、人々の心情を繊細に描き、その上で造形性の高い写真に昇華させている写真家ということも。
目の前に広げられている「プラスチックス」。海という大いなる自然に対し、ゴミと化した色鮮やかさだけが虚しいプラスチックのプロダクツ。それはなにかの容器、ボトル、手袋やおもちゃの残骸だったりする。静物画を読み解くように、あるいは抽象画を理解したいと凝視することしかできなかった。
覚えているところでは、ともかく、東松さんはクールだった。撮影をした時点ではなにか感情があったのかもしれない。こういう現状を伝えようとか、残念であるとか。ただ、作品となったそれを前にしたとき、彼は撮ってきたものを伝える使命感をもった表現者というよりも、こちらと同じような、いわば編集者的な視点で淡々と話をしてくれたことは、聞き手である自分としてはちょっと肩透かしをくらった気分だった。
残念ながら、そのときの取材ノートはないけれど、その代わりに当時、『日本カメラ』1989年4月号にこの作品が掲載されたときの作家コメントを引いておこう。
「プラスチックスは、もしかすると人間が作り成した物質文明を後世に伝える究極のマテリアルかもしれない。」
怒りもなく、失望もなく、どこまでも冷静で客観的なアティテュードが見て取れる。そうだ、こんな感じだった。さらに一つ付け加えた言葉は覚えている。
「自然に分解されるプラスチックも開発されているらしいんだけど。」
美とか醜とかそんな単純な区分ではなく、自然と人工、繁栄の光と影、文明と文化、都市の内と外など、それぞれの境界をそこに見たのである。それはニヒリスティックに語られるものでもなく、あくまでもそこにあるものとして。
鈴木芳雄|Yoshio Suzuki
編集者/美術ジャーナリスト。明治学院大学非常勤講師。雑誌「ブルータス」元・副編集長(フクヘン)。共編著に『村上隆のスーパーフラット・コレクション』『光琳ART 光琳と現代美術』『チームラボって、何者?』など。雑誌「ブルータス」「婦人画報」「ハーパーズバザー」などに寄稿。
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