写真は発明から200年ほどが経った成熟したメディアでありながら、まだ進化している。たとえば作家・米田知子の仕事を見るとそう思うのだ。ある特定の場所の歴史を繙くということ、ある人物の記憶を詳らかにすること。そんな今となっては目に見えないものを写真で明らかにしていくことが可能なのだろうか。それを続けている米田が近年選んだテーマはアルベール・カミュの軌跡だった。
Edit & Text by Yoshio Suzuki
「あなたは誰かに殺されたいだろうか?
あなたは誰かを殺したいだろうか?
どちらでもないならば
命を奪い、沈黙を強いる世界に疑問を持つべきだ」
これは「不条理」を直視し、真の「反抗」や「正義」の意味、人間の「存在」と「共存」と「愛」を問い続けた作家アルベール・カミュ(1913仏領アルジェリア〜1960フランス)の訴えである。
史上2番めの若さ、戦後では最年少でノーベル文学賞を受賞し、その数年後、今からおよそ60年前に突然の交通事故で世を去ったこの作家のことを久しぶりに考えたのは、写真家・米田知子の展覧会を昨年、パリの日本文化会館で見たからだ。そしてそのシリーズは現在、六本木のシュウゴアーツで見ることができる。
米田の作品ではいつものことではあるが、徹底的な取材や現場主義の調査をもとに人の記憶を掘り起こす作業をしている。カミュが訴えたこと、伝えたかったこと、やり残したことを追うためにアルジェリアとフランスを訪れ、写真と映像からなる作品に仕立てた。しかしその作品は一瞬で見た者を釘付けにする画像や映像でもなければ、報道写真として華々しく紙面・誌面を飾るものではない。
米田の展覧会に並ぶのは一見すれば静謐な風景写真だ。しかし、実はそこには見えないけれど見過ごすことのできない記憶や歴史が潜んでいる。目に見える絵として提出されているのは、場所の痕跡、たとえば住宅の暖房機の上の壁紙のヤレやヤケ。それはそこにいた人物の存在を想わせる。また一見、日常的な景色かと思えば、そこは地雷が埋まっている場所だと知らされる。これといって特徴のない場所が、実はかつて狙撃が行われた地点であったりすることもある。そして、彼女が長く手がけているシリーズとして、歴史上の人物が愛用した眼鏡を通して、その人の人生を変えてしまった、あるいは節目になった因縁の文章などを写し取るというものがある。
たとえば、フロイトのメガネを通して、ユングの論文を見る。その論文は二人が袂を分かつ決定的要因となったもの。谷崎潤一郎のメガネを通して、彼が書いた恋文を見る。マーラーのメガネを通して、未完となった交響曲十番の自筆楽譜を見る。藤田嗣治のメガネを通して、日本出国を助けてくれたシャーマンGHQ民政官に藤田が送った電報を見る。
今回のカミュのシリーズ制作のきっかけとなったのはカミュの「犠牲者でもなく執行人でもなく」というエッセイに米田が触れたことからだった。そのエッセイは第二次大戦後まもなくの1946年にカミュが編集長を務めていたフランスのレジスタンス紙『コンバ(闘争)』に数日間連載された。
原爆投下が象徴するように、科学の進歩が人間の生を否定したこと。地球規模での未来を破壊してしまうということ。人間は目的達成のためにはどんな手段でさえも正当化させること。そういったイデオロギーや暴力への批判をカミュは訴える。それが冒頭に挙げたカミュの言葉「あなたは誰かに殺されたいだろうか?(以下略)」に籠められている。
米田知子は語る。カミュが生きた時代、さらに時代を経て繰り返されてきた暴力と戦いは、果たしてわれわれをより豊かな、平和の時代へと導いてきたのだろうか、と。カミュを取材し、自分が撮り集めた写真を通して、そんな人類の永遠の課題を考えたいとしている。それは、人間の存在と愛について考えることなのだという。
カミュの生い立ち、両親など調査を進めていった。カミュの父はアルジェリアにフランスから渡った移民で農業に従事していた。母はスペインからの移民で文盲。カミュが生まれたのは1913年。翌1914年には第一次世界大戦が始まり、彼の父親も招集される。戦場から絵葉書を送り、無事を知らせた父親だったが、のちにマルヌ河の戦いで砲弾を受け、ブルターニュ地方のサン=ブリウ臨時病院に移送され、そこで病死。同地の戦没者墓地に埋葬された。
戦場での戦死者ではなかったため、父親がどこで重傷を負ったのか記録がなく、場所の特定が不可能だった。米田と本作のパリ文化会館でのキュレーターだった岡部あおみは軍事資料をあたり、フランスカミュ研究会会長の助言を仰ぎ、そして現地での聞き取り調査によって、カミュの父がいたであろう野戦場や塹壕を見つけ、撮影することができた。ある人にとっての記憶の場所、かつて歴史的な出来事があった場所なのかもしれないが、今では何の変哲もない田舎道でしかない土地。兵どもが夢の跡。
米田の写真はいずれもかくも静謐で、なんの跡形(あとかた)も描写しておらず、少しもドラマティックではない。しかし、実はある時代には激しさが潜み、その写真に写っていないところで、あるいは見えないレイヤーに歴史や記憶が刻まれている。
「フォトグラフ(光の画)」を「写真」と翻訳した国では、いま目の前で起こっていることを忠実に記録し、伝達する報道写真だけは発達するかもしれない。米田は「写真」の国に生まれたが、「フォトグラフ」の国、アメリカを経て、「フォトグラフ」の国、英国で写真による表現を究めていった。見たものがそのまま写る写真というメディアだからこそ、見えないものを描かなければならない。見えないものを描くためには今は見えていないものをも見ようとしなければならない。
カミュは仏領アルジェリアからパリを目指し、船でマルセイユに着いた。同じルートをたどった米田は、かつて父親が使っていたいわゆるハーフ判のカメラを携えていた。本来の作品制作の機材を使いたかったのだが、ジャーナリストとしてのヴィザが取得できず、観光客として旅する者としてはコンパクトカメラで撮らざるを得なかったということもある。結果、それが新たな表現を生んだ。
通常の35mm判カメラが、36×24mmを1コマとするのに対して、それを2コマ分に分割して使うハーフ判は18(または17)×24mmを1コマとし、たとえば36枚撮りのフィルムなら72枚撮れる。ちなみにカメラは1950年代から発売されたオリンパス製で、一眼レフタイプではなく、レンジファインダーだったそうだ。
カメラを操作する撮影者が厳然と存在していながら、その使い手の主観的表現を追うのではなく、それとは逆に、被写体が背負い、今はもう目に見えないかもしれない客観的な事実を照らし出すなどということが写真というメディアに可能なのだろうか、まったく疑問である。しかし、それを実行しているのが米田知子なのである。彼女はカメラを手にしたり、操作している何百倍、何千倍という時間を図書館や各方面の資料庫で過ごし、インタビューのために使うのだろう。そして、集めた事実を積み上げ、編み上げ、そのあとに撮影をして、形にする。撮影ももちろん重要なプロセスだが。
事件や戦争の現場にいて、決定的瞬間を撮影するのがフォトジャーナリズムの仕事だと考えるのはわかりやすいけれども、それは一面的で見識不足であると理解させられる。
ところで、ノーベル賞受賞の数年後、カミュが不慮の交通事故で命を落としたその現場には、愛用の鞄が残され、その中からは大学ノートが出てきた。それは何年も前から構想され、ついに未完に終わった自伝的小説の草稿ノートだった。解読に困難な箇所もあったがなんとか本にまとめられ、翻訳もされている。たとえば、父親を意識したこんな記述がある。
「彼(筆者注:カミュ本人に相当する登場人物)は、常軌を逸した、勇敢であると同時に卑劣で頑固な、そしてつねに自分ではわからない目的に向かって張り詰めてきたこれまでの人生を思い返していた。そして事実、その人生はすべて、彼にこの世の生を与えた直後に、海の向こうの見知らぬ土地で死んでしまった人間が何者であるのかを、想像する努力もせずに過ぎていったのであった。」
(カミュ『最初の人間』大久保敏彦 訳 / 新潮文庫)
「戦争」「家族」「愛」について、もっと書き、語りたかっただろう。今回の米田のこの仕事は、彼女の優れた写真展であり、同時に、カミュの書き残したこと、語り残したことを補ってくれている大きな仕事なのである。
鈴木芳雄|YOSHIO SUZUKI
編集者/美術ジャーナリスト。明治学院大学非常勤講師。雑誌ブルータス元・副編集長(フクヘン)。共編著に『村上隆のスーパーフラット・コレクション』『光琳ART 光琳と現代美術』『チームラボって、何者?』など。雑誌「ブルータス」「婦人画報」「ハーパーズバザー」などに寄稿。
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