何かを想う時、わたしたちの頭の中には、その“何か”に紐づいた存在や匂い、音、情景、触り心地などの記憶が立ち現れます。それは、おなじ瞬間におなじ空間にいたとしても、ひとりひとりそれぞれに異なっています。
それでは実際、わたしは、日々の体験をどの感覚で受け取り、どんな風に感じているのでしょうか。この人は、あの人は、どんな世界を見ているのでしょう?
ここでは、さまざまな方と一緒に世界の見え方を探求し、自分以外の世界を感じられる場をつくりたいと思います。子どもがおままごとの中で、もうひとつの世界を立ち上げていくような気軽さと夢中さで、誰かの意識に飛び込んで遊ぶ、今まで知らなかった色彩をみつける、相手を重さで感じてみる——。
頭も身体もやわらかく、いつもとべつの方法で世界と交わる、ここ「感覚の遊び場」で、一緒に遊んでみませんか。
PLANNING BY NATSUMI WADA
TEXT BY KON ITO
Image Direction by Narumi Okamura
Photo by Naoki Usuda
GRAPHIC BY MOMOKO NEGISHI
桃太郎の話を聞いて、「桃から人が生まれることもあるのか」と、桃を見かけるたびにどきどきしてしまう人はあまり多くないのでないでしょうか。多くの人は、自分の経験と知識によって「現実的に考えて、ないだろう」と判断します。桃から人が生まれたり、ほうきで空を飛ぶ話を聞けば、フィクションだと思う、思ってしまう。この「現実的」という感覚は、もちろん生まれつき備わっているものではありません。わたしたちがそれぞれの人生の中で身につけてきたものです。
先天性盲ろう者(生まれたときから目が見えず、耳が聞こえない)の森敦史さんは、12歳まで非現実世界(=ファンタジー)が理解できなかったと言います。点字や触手話(手話をさわって会話をする)など、ほぼ触覚のみで教育を受けて言語とコミュニケーション力を獲得した森さんにとって、神様やおばけなどさわれないものや、体験できないことを理解するのは難しいことでした。
では、森さんはどのようにファンタジー、つまり空想など現実以外の世界があることに気づき、現実と非現実を区別できるようになったのでしょうか。きっかけとなったのは、寝ている間にみる「夢」でした。
今回は、森さんがファンタジーを理解するまでの経緯についてまとめた論文(※「先天性盲ろう児におけるファンタジー理解の困難と理解にいたるプロセス(支援者側の援助に焦点をあてて)」)のほんの一部を噛み砕いて紹介したあとに、彼のインタビューをお届けします。みなさんの記憶と重ねて合わせて想像しながら、お楽しみください。
●ファンタジー理解のきっかけになった「夢」
12歳の時、森さんはすべりだいのようなものをすべる夢をみたと言います。目が覚めて、母親に「そのことをママもみたか?」(原文ママ)と尋ねたところ、母親は「それは夢だよ」と答えました。「(夢は)寝ているときにみるもので、隣で寝ていても、ママは敦史を夢はみれないの。それに敦史もママの夢はみれないんだよ」。森さんはこのことをきっかけに寝ている間にみるものが「夢」という名前であること、他人は自分の夢をみることができないことを理解します。
●「夢」を理解する
その後のある日、森さんは文房具を手に入れる夢をみたと言います。夢の中でその文房具が気に入った森さんは手にずっと握っていましたが、目が覚めるとその文房具が消え、ショックを受けます。この瞬間が現実と夢の境をはっきりと区別するきっかけとなりました。この区別によって、「寝ている間には、普通ではありえないことが起きる」という不思議が解消されます。
また、当時の森さんはこんな不思議も抱えていました。「夢はテレビのように記録されることがない」。夢をみることと、目で何かを見ることはすこし異なりますが、目の見えない森さんにとって、このちがいは簡単にわかるものではありませんでした。「夢」という語彙と、「寝ている間に夢をみる」という経験が結びつく中で、「夢」と「夢をみる」ということが次第に理解できるようになり、この不思議も解消されていきます。
●「ファンタジー」を理解する
夢の理解に並行して、読書体験にも大きな変化が訪れました。それまで森さんが読んでいたのは鉄道に関する読み物や簡単な説明文でしたが、夢の内容をきっかけに「現実ではない世界」の扉を開き、小説『ハリー・ポッター』に挑戦します。実際にほうきにまたがり、空を飛べないことを何度も確かめ、「空想」「虚構」の世界を知りました。
その後、森さんは読書を楽しむようになり、読書量は急激に増えていきます。内容に対して「それは現実にあるのか」に興味を寄せ、自身でひとつずつ確かめていきました。経験を重ねるうちに「存在しないものは非現実」という感覚を持つようになり、現実と非現実の区別が可能になったと言います。これが森さんのファンタジー理解です。
INTERVIEW
● 「さわれるファンタジー」とは?
——ファンタジーの理解は、コミュニケーションにも何か影響を与えましたか。
森さん コミュニケーションの範囲が広がりました。語彙の獲得につながっただけでなく、抽象的な言葉の理解が深まりました。たとえば「肩で息をする」「足が棒になる」といったような言葉でしょうか。遠回しな言い方や空気を読むということも少しずつできるようになりましたね。また、人付き合いがうまくできるようになったと感じています。相手の言うことをどのように理解するかだけでなく、相手とどのように関わればいいのかという点でもファンタジー理解の前後では変化があるように思います。たとえば、冗談、社交辞令、言い訳など、会話にはさまざまな意図があると思いますが、少なくとも最初は、相手が言っていることを冗談ととらえることはありませんでした。
——たしかに冗談って、子供の頃よくわかっていませんでした。会話に突然放り込まれる架空の話を、架空のものと判断して頭の中で楽しむって、よく考えるとすごいことですよね。
森さん また、SNSで相手を選ぶなど、どのような相手とどのようにコミュニケーションをとればいいのかという判断ができるようになったのも、ファンタジー理解の影響かもしれません。たとえば、実在する人(個人のアカウント)と実在しない人(業者が送る迷惑メールなど)の区別ができるようになりました。迷惑メールやSNSの友達申請などが届いたとき、最初は実際に存在する人から届いたのだと思っていたんです。でも、話がかみ合わなかったり、突然URLのアクセスを求められたりして、そうではないことに気づきました。このことをきっかけに、相手の話している内容やプロフィールなどから、相手が信頼できる相手なのか判断できるようになりました。
——なるほど。少し関連して、論文の中に「街中やテーマパークでみかける着ぐるみのキャラクターは直接さわれるため、すべて実在する動物と認識していた」というような話があり印象的でした。ライオンなどさわることができない動物とキャラクターのちがいって、たしかに難しいなと。
森さん 高校生くらいの頃、あるキャラクターが現実には存在せず、職員が着ぐるみに入って変装しているだけだということに気づいたんです。学校の文化祭の劇などと同じく、テーマパークもすべて作り物で、すべて人間の手によって運営されているということにも、少しずつ気がついていきました。きっかけはあまり覚えていませんが、おそらく自分の経験を通して、物理的に(理論的に?)考えられるようになったからだと思います。
「さわれる」から、現実であるとは限らない。本来「さわれない」はずのファンタジーであっても、テーマパークなどで「さわれる」場合があるということ。それが盲ろう児のファンタジーの理解における難しさの要因の一つなのかもしれないということを、卒業論文を通して感じました。
● 日常のファンタジー
——私は階段を踏み外すような夢をよくみるのですが、森さんの夢はどんな感覚が多いですか。
森さん 実際に歩いたりしているような感覚があります。階段の話もそうですね。突然落ちるような感覚があって、それに驚いて起きてしまうことがあります。また何かをさわっているような感覚もありますね。味は覚えていません。コミュニケーション方法も聞かれますが、言葉だけは記憶に残っても、どのような手段で話しているかまでは記憶がありません。たまに手話で話しているかなという感覚が残ることもありますね。
——最近、見た夢について教えてください。
森さん 特徴的な夢はあまり思い出せませんが、過去のできごとが夢になっていることが多いような気がします。たとえば最近、行ったことのあるスポーツジムの夢を見ました。できごとがそのままという場合もありますが、そこに何か落とし穴(失敗)が付け加えられる場合もあります。ジムの夢では、ジムの部屋が混んでいて、どの機械も使えませんでした。そこで、あきらめて引き下がるか、でも家族に「ジムに行ってくる」と言ったので引き下がるには早すぎるから1時間待つか? 待つ間何をすればいいのか? と悩んでいました。
——私も大抵そういう夢です…。森さんが好きな物語はなんですか?
森さん やはり『ハリー・ポッター』でしょうか。ファンタジーに対するイメージを変えてくれた存在だったと思います。また映画『となりのトトロ』のあらすじをまとめた本も読みましたが、実在しそうな話もあり、おもしろかったです。以前、となりのトトロのモデルになったといわれる埼玉県所沢市の森に行ってみたことがありますが、普通の森で印象に残るような記憶はありませんでした。物足りないという印象でした。
——物足りない森(笑)。森さんがゲームや物語を作るとしたらどのようなファンタジーを描きますか?
森さん 小学生の時、ファンタジーの理解があまりできていない中で物語を描いてみたことはあります。その時は自分の経験を通して、架空の日記を書きました。中学生か高校生の国語の授業でも、1日の流れを考えながら旅行の物語を書いてみたことがあります。そのときは主人公を人間ではなく、熊に置き換えたりしました。今でも何かについて「あったらいいな」と想像することはあります。いわゆる妄想ですね。たとえば、あの辺に電車があったらいいなとか、そんな感じです。
——そうか、ファタンジーを理解していなくとも、人はファンタジーを作り出しますね。普段の生活のなかで、「空にも昇る気持ち」や「頭が爆発する」など、比喩表現を用いて感情を伝えることはありますか?
森さん あまりありません。表情が豊かになったことは事実だと思いますし、皆さんからもそう言われます。たとえば「涙」の手話を大きくすることによって「大泣き」を表現したり、早く走るような動きによって「急いで」と表現するなどですね。それはファンタジーの理解とは関係なく、自分の経験を通してのことだと思います。しかし、「頭が爆発する」の手話をみて、リアルな動作だと感じることはあって、これを利用して「もう頭がいっぱいです」などと表現することもたまにあります。
——物理的にはありえなくても的を射ている、リアルな表現ですよね。
●「神様」を感じる瞬間?
——存在を確かめることができないものの中で、信じているものがあれば教えてください。
森さん はっきりと信じているわけではありませんが、神様やおばけは実際に存在していると信じています。神様は他の人たちが信じている影響が強いと思います(私はクリスチャンではありません)。おばけについては実際に体験談を聞いたりすると怖さを感じます。特に暗い場所は何か光が現れそうな気がして怖いことがあります。最近は夜に戦争の話をされて、それが怖くて、思わず話を止めてしまったほどです。
——生活する中で、神やおばけを体験するようなことはありますか。
森さん あまり意識したことはありませんが、物をなくしたと思ったら元の場所にあった場合、不思議に感じることはあります。大抵は誰かが元に戻したり、自分が気づいてないだけだったりするのですが…。また、物が消えているときに、心当たりのある人に聞いても「おばけが持っていったんじゃないの?」といじわるを言われることがあります。そのときは絶対に誰かが持っていったとわかっていながら、「本当なのかな…」と楽しんだりします。
——楽しむ…!(笑)
森さん ちなみにあまり関係ないかも知れませんが、学生時代、院生研究室の自分のごみ箱の中身が時々消えていることがありました。同級生が、自分のごみと一緒にときどき捨ててくださっていたのだと思います。当時は、お礼を言うべきなのか、気づかないふりをした方がよいのか迷いました。卒業時にいろいろ含めてお礼はしましたが、ごみを捨ててくれてたかどうかはわからないままです(聞くのを忘れてました…)。でもこれは、ある意味「神」を感じたことと言えるかもしれませんね。
編集後記
ファンタジーを“理解”する。
はじめてこの言葉にふれたとき、どういうことだろうと思いました。“理解”するものなのか、と。でも、森さんの論文を読む中で、自分にも現実とファンタジーの境目を見つけ、理解する段階があったことに気づきました。幼少期、魔法を使ったり、未来を予言したりできると信じていたのに、「おそらくできないだろうな」とあきらめたのは、現実での経験によるものに他ならない気がします。
目が見えると言ったって、すべてを見ているわけでは決してありません。神様もBluetoothも見えません。今回、お話を聞いて、やっぱり人はそれぞれの感覚器をもとにそれぞれ「現実」を知覚しているに過ぎないのだということを改めて強く思いました。そして、そう考えると現実って、意外と不確かな気もします。これまで、現実の輪郭の外にファンタジーの世界が広がっているようなイメージを持っていましたが、むしろその輪郭はファンタジーのほうにあり、現実には輪郭が存在しないのかもしれないな、なんてことをぼんやり思いました。
Playing Game 3-1
「ファンタジーを注入する」
わたしたちの身体に染みついた「現実的」という感覚。社会で生きる上でとても役立つものだけど、たまに抑えてみるのもいいかも。「台風のあとすごく晴れるのはなぜ?」「暴君の台風が通り過ぎると、天気の妖精がうれしくって舞いまくるからかな」「海がしょっぱいのはなぜ?」「海は涙でできていて、地球が生まれた日はすごくかなしかったのかな」。現実にファンタジーをちょこっと注入してみる。もしかして、を重ねながら改めて世界を見つめるとき、いつもの当たり前がちょっと違うふうにみえてくるかも。
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