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連載感覚の遊び場

Sensory Playground: Game 2-3

dialogue in imagination

イメージの対話——座談 「マイムと手話」小野寺修二・藤田桃子・南雲麻衣・數見陽子

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何かを想う時、わたしたちの頭の中には、その“何か”に紐づいた存在や匂い、音、情景、触り心地などの記憶が立ち現れます。それは、おなじ瞬間におなじ空間にいたとしても、ひとりひとりそれぞれに異なっています。

それでは実際、わたしは、日々の体験をどの感覚で受け取り、どんな風に感じているのでしょうか。この人は、あの人は、どんな世界を見ているのでしょう?

ここでは、さまざまな方と一緒に世界の見え方を探求し、自分以外の世界を感じられる場をつくりたいと思います。子どもがおままごとの中で、もうひとつの世界を立ち上げていくような気軽さと夢中さで、誰かの意識に飛び込んで遊ぶ、今まで知らなかった色彩をみつける、相手を重さで感じてみる——。

頭も身体もやわらかく、いつもとべつの方法で世界と交わる、ここ「感覚の遊び場」で、一緒に遊んでみませんか。
 

PLANNING BY NATSUMI WADA
TEXT BY KON ITO
PHOTO / MOVIE BY HAJIME KATO
MOVIE SUPERVISION by ERI MAKIHARA
GRAPHIC BY MOMOKO NEGISHI

雨と聞いて、なんとなく小雨をイメージしていたけど、彼にとっては豪雨のイメージだったらしい。愛と聞いて、なんとなくあたたかな物語をイメージしていたけど、彼女にとっては激しい恋愛のイメージだったらしい……。言葉は内容の“意味”を伝えるのにとても便利だけれど、“イメージ”を伝えるには、多くの説明を必要とします。

そんなのしょうがないこと? でも例えば、手話なら、雨を表現する手の動きのスピードや強弱で、その雨のイメージを意味と同時に表現することができます。マイムなら、あたたかな愛と激しい愛は全く別の感情ですから、表現自体が異なってくるのです。意味だけでなくイメージにも比重を置く、あるいは意味から抜け出し、イメージを優先するとき、わたしたちの対話はどんなふうに広がってゆくのでしょうか。

連載『感覚の遊び場』、イメージ編最終回のテーマは「イメージの対話」。マイムをベースにした演劇作品を創出する「カンパニーデラシネラ」の小野寺修二さん、藤田桃子さん、ろう者で役者の數見陽子さん、同じくろう者でパフォーマー、ダンサーの南雲麻衣さんの4名に集まっていただきました。

カンパニーデラシネラは、2018年より『野鴨』ワークインプログレス(*)の中で、ろう者の舞台芸術をリードする2つの劇団とともに、表現の境界を超えた新たな世界を探求しています。マイムや手話で伝える「質感」、言葉で限定しないことの可能性などについて、4名の表現者が話し合いました。

(*) 稽古・本番を公開し、積み重ねながら作品を進化させていくという手法


● 左から順に:
南雲麻衣|Mai Nagumo

パフォーマー、アーティスト。平成元年生まれ。神奈川県逗子市出身。3歳半で失聴、7歳で人工内耳埋め込み手術を受ける。文化施設の運営とアートなどの企画の仕事の傍ら、ダンサー、コレオグラファーなどアーティストとしても活動する。近年は、当事者自身が持つ身体感覚(ろう[聾]する身体など)を「媒体」に、各分野のアーティストと共に作品を生み出している。百瀬文《Social Dance》(2019)、冨士山アネット『Invisible Things』出演・共同振付(急な坂スタジオ、2020)など。また、インタープリターの和田夏実とプログラマーの児玉英之と共に手話を主な言語とし、視覚身体言語を研究・表現するユニット「Signed」として美術館でワークショップなども精力的に行う。
 
數見陽子|Akiko Kazumi
和歌山県立和歌山ろう学校卒業。上京して千葉ろう者劇団九十九(つくも)入団。退団後フリーの活動を経て、2002年手話狂言「仁王」で手話狂言の初舞台を踏み、日本ろう者劇団入団。2003年「お初」以降の各公演に出演。2011年「迷宮の写楽」で初の演出・脚本を担当。以後2012年「小次郎×武蔵」共同演出、2016年「清姫道成寺」2018年「武士道ノ心(しん)」演出・脚本。2014年度「座・高円寺劇場創造アカデミー」第6期聴講生。
 
小野寺修二|Onodera Shuji
演出家。カンパニーデラシネラ主宰。日本マイム研究所にてマイムを学ぶ。1995年~2006年、パフォーマンスシアター水と油にて活動。その後、文化庁新進芸術家海外研修制度研修員として1年間フランスに滞在。帰国後、カンパニーデラシネラを立ち上げる。マイムの動きをベースとした独自の演出で世代を超えた注目を集めている。第3回日本ダンスフォーラム賞受賞。第18回読売演劇大賞最優秀スタッフ賞受賞。近年の主な演出作品はRooTS Vol.4『あの大鴉、さえも』(2016年/東京芸術劇場他)、『ふしぎの国のアリス』(2017年/新国立劇場)、現代能楽集Ⅸ『竹取』(2018年/世田谷シアタートラム他)、横浜ダンスコレクション2019『見立てる』(2019年/横浜のげシャーレ)、日本ろう者劇団×デフ・パペットシアター・ひとみ×カンパニーデラシネラ共同創作プロジェクト『野鴨』ワークインプログレス(2020年/両国シアターX,川崎アートセンター)など。また、瀬戸内国際芸術祭2013にて、野外劇『人魚姫』を発表するなど、劇場内にとどまらないパフォーマンスにも積極的に取組んでいる。2015年度文化庁文化交流使。
 
藤田桃子|Momoko Fujita
日本マイム研究所にてマイムを学ぶ。1995年~2006年小野寺修二らと立ち上げたパフォーマンスシアター「水と油」にて活動。2008年カンパニーデラシネラ結成以降は全作品に出演または演出助手として参加。2016年RooTS Vol.4『あの大鴉、さえも』にて小林聡美、片桐はいりとの三人芝居に出演。その他出演作として『ふしぎの国のアリス』『ドン・キホーテ』『見立てる』(以上小野寺修二演出)、『ハウリング』(振付 井手茂太)など。
 

 
 

1|手話は“言語”。マイムは受け手の想像に任せる“表現”

 

 
南雲 「マイム」という言葉はあまり聞く機会がないのですが、改めて「マイム」とはどんなものでしょうか。

小野寺 もともと僕はフランスのマイムを学んでるんですが、マルセル・マルソーという有名な俳優の師匠、エティエンヌ・ドゥクルーの思想で「パントマイムとマイムはちがう。パントマイムはモノを表す。マイムは人を表す」と教わっています。マイムは、言葉・言語を用いず、身体だけで人を表す研究。つまり言葉とか形に表せないものをどうやってお客さんに感じてもらうか。ちょっとした仕草で、お客さんの記憶やイメージを膨らませることを命題としています。言葉とか明確な形に表せない、なんとなく掴みきれないもの、もやもやしたものに対して、どうやって身体がアプローチしていくのかを考えて演じています。藤田はちがうかもしれないけど。どうですか。

藤田 そうですね。マイムは全てを伝えきれるわけではなく、隙間を良しというところから出発しています。こちらが点を提示して、あとはお客さんに感じてもらう・考えてもらう表現だと思います。私は(マイムの)押し付けがましくなくて「好きに感じてください」という部分が好きで続けています。
 

數見 ひとつの動作から、お客さんにいろんな想像してもらうということですよね。そこに楽しさがあると。例えば、マイムで「ビール」を表現するとき、ルールや法則のようなものはあるのでしょうか。

小野寺 パントマイムの中にはあるかも。というのは、「ビール」を説明しなくちゃいけないから。例えば、泡が出るとか(手をふわふわと動かす)、グラスに注いでるときに少し「お、おっ」(泡がこぼれそうになりながらビールを注ぐ動き)となるジェスチャーとか。

でもマイムって全部説明できるわけではなくて、「飲み物」を前にした時に冷たいかあったかいかという感覚くらいしか伝えきれない。僕自身はマイムで、これはビールだってことをお伝えする必要がないと思っています。マイムは人を中心に考えた、モノに支配されない世界で、「飲む人がその時どう感じているか」を見せたいと思っています。お客さんが、「シュワー」って清涼感や冷たさを感じ取ることが重要で、それがビールかどうかはどっちでもいい。 手話でビールと日本酒は多分ちがうじゃない。それって手話が「これ」って明確に伝えるためのものだからだよね。マイムの中にそういう機能はなくて、「……で、人はどうか」を、どう魅せるか。その一点なんです。

『野鴨』写真:トット基金

數見 マイムと手話のちがいについて、ひとつお話したくて。今、手話は言語として認められていますが、2、30年前は「声が出せない代わりに使うもの」という認識が一般的でした。当時、聴者から「手話って、ジェスチャーやパントマイムみたいだね」と言われることが非常に多くて、逆に聞き返していたんです。「ジェスチャーやパントマイムだけで、人と何分くらいコミュニケーションとれる?」って。プロは何時間もできちゃうかもしれないけど、普通の人は……?

南雲 (ドアを開ける動き)。これで終わりくらいですよね。

數見 ね。これで、終了です。1秒とかそんなもんですよね。言語ではないジェスチャーでコミュニケーションをとるのは、5分、10分が限界だと思うんです。でも手話は、24時間ずっとおしゃべりし続けることも可能です。

小野寺 僕、1年間フランスに留学したんですけど、全然フランス語しゃべれなくて。周りの人には「パントマイムやってるんだから伝わるよ」と言われてたけど、パントマイムじゃ伝わらないです(笑)。3秒ぐらいこういうこと(前面に壁があるかのように触る)はできるけど、その後、会話にはならないから。もちろん、(パントマイムやジェスチャーを)つなげていくことで、相手に想像させる可能性はあるから、大きな意味で似てなくはないと思うんだけど、數見ちゃんが言う通り、言語とはちょっとちがうものだろうなとは思いますね。

數見 (マイムは)ルールではなく、お客さんに想像する自由があるんですよね。でも、手話の場合にお客さんの想像に任せちゃだめなんです。ビールはビールだと伝えたい。もうひとつ、手話とマイムのちがいなのですが、『野鴨』に出演したときに、ドアを開けるシーンがあって、こんな動きをしたんです。(ドアを開ける動きのあとに、自分の胸に手を置く)。この胸に手を置く動作は、言語ではありませんよね。聴者もろう者も関係なく使う動作です。ただ、(この動作のときに)に眉をあげて、目を見開いて、あごを引いてしまったら、もう手話の「わかる」になってしまうんです。


『野鴨』写真:トット基金

南雲:そうですよね、手話になっちゃう。わたしもそれを見ていて、「あれ? 手話なのかな?」って思ったんです。

數見:そう思われてしまったら、アウトということです(笑)。稽古中「手話じゃないのにまた眉上げちゃった、だめだだめだ!」といったようなことがありました。手話とマイムの微妙な、曖昧なラインがあることを、『野鴨』で勉強させてもらったと思っています。しかも、「ゆっくり」「間を入れて」など指示をいただくと……また自然に眉があがっちゃう。勉強になりました。

2|誰かの記憶にタッチすること

 

 
——ちなみに、手話の場合ビールはどのように表現するのでしょうか。

南雲 あっているかわからないのですが、手話のビールは(縦向きのグーにした右手に、左手の人差し指と中指を立てて落とす)。右手をグー以外にしたり、左手をその二本以外にすると伝わらないんです。言語としてのルールがあるんですね。

數見 あとは、こういうふうに(サーバーからビールを注ぐ動き)泡が出ている表現もありますし、口で泡を表現する方法(グラスを持つような手と口をふくらます動き)もあります。

南雲 CLですよね。

小野寺 CLってなんですか?

數見 専門的な言葉になるのですが、質・材質、形を表すものなんです。例えば聴者の場合、でこぼこしたものを表すときに「でこぼこ」って言うと思いますが、ろう者の場合「でこぼこ」と指文字では言わずに、口や手を使って、こんなふうに(両手を角ばらせて何かの表面をさわる)表します。ろう者の多くは、これを見ると何か硬いもののイメージをもつんです。CL とマイムは誤解されることが多いのですが、ちょっと別のものだと思います。

藤田 なるほど。CLは各々で異なるんですか? でこぼこのやり方はそれぞれに任されてる?

數見 形の表現は、育った環境、地域、共有しているものも関係して、各々異なると思います。例えば、これまでに使ってきた栓抜きの形によって、栓を抜く動作は変わってきますよね。でも、ルールもあって。ケーブルのように細いものについて話すときに、(目を見開き眉をあげる)これでは表せないんですね。細いものはこういう顔をします(口をすぼめたような動き)。太いものはこういう顔をします(ほっぺをふくらます)。こうした共通の認識はあると思います。

小野寺 その大きなルールの中で、ひとつの形を出してくるっていうことなのかな?

數見 そうですね。それに加えて表情があります。例えば、重いもの。重さにもいろいろありますよね。すごく重いものはゆっくりした表現になりますよね(苦しそうな表情で、両手を大きく広げて抱えてゆっくり下げる)。ほんとに軽いときは(正面に出して上に向けた手のひらを突然ふわっと折り曲げる、苦しそうな表情が楽な表情に戻る)。こうした重さの表現も共通の認識を少しもっていると思います 。


『野鴨』写真:トット基金

小野寺 なるほど。ちょうど「質感」について随分稽古したんです。ろう者の方々のほうが僕の思う質感というものをよく見ているような気がしていたんだけど、今話を聞いていて間違ってなかったと思いました。

質感って、硬さや柔らかさ、重さ、表面の輝り(テリ)などだけではなくて。例えば、重さのレベルを言葉で話すときは「重い」→「すごく重い」って、修飾語を足していくことによって表現しますが、「重い」と「すごく重い」のそれぞれのレンジ(=範囲)って曖昧ですよね。でも重さって、身体の使い方とかちょっとしたことでも表せます。(正面に手を出してずしっと何かを持っている)、これはものすごい重い。(持っているものがさらに大きくなり、肩が上がる)、もっと重い。付け足すことに変わりないけど、マイムの世界では、スピードや身体の張りで重さを変えられるんです。セリフとか説明をしなくても、重かったものが急に軽くなるスピードとか(何かを持っていた両手が片手になり、上に上がっていく)、これを質感って呼ぶんだけど。(『野鴨』で)質感の話をしたとき、數見ちゃんはどう思った?

數見 稽古のとき、お二人を見ていて、質感を数字化していたんです。(動き・状況が)「いまのは0から突然80にいったな」「いまのは0から10、20、30、40と進んでいった」というようなイメージで見ていたんです。そういった動きをおふたりともなさいますよね。「藤田さんの後ろの空間が柔らかいな」と思っていたら、今度は硬くなった、今は重くなった……というような表現を本当になさるんです。その技術を盗みたいと思って、いつも見てました(笑)。

小野寺 いやいや(笑)。技術ではないんだけど、「同化」っていう考え方があるんです。風船を膨らませたいときは、身体を風船とする(身体を大きく張る動き)。マイムでは、自分が風船を膨らませると同時に、自分の身体に風船を乗り移らせるというやり方をします。固いときには身体を張るし、柔らかいときには少し緩めるという理屈があるんですね。手話を覚えるのと一緒で、ルールがあるんです。ただ、それがどこまで伝わるかっていうのはお客さん次第。綱引きの動きを見ても、一回も綱を引いたことのない人は「なんでこうなった?」って、そもそも「重さ」にまで行き着かないかもしれない。

さっきの数値の話だけど、(マイムでは)不条理、急な変化で驚かせることをも使いがちで、100から0みたいなやり方をするんだけど、実はその間にもちゃんとグラデーションがあるんです。100からいきなり0ではなく、100、98、70、60……をめちゃくちゃ速く切り替えてくって考え方なんです。そうすると、質感みたいなものがちゃんと出る。100からいきなり0だと、あんまり驚きがないんだよね。だから、ふわっと抜く。


『野鴨』写真:トット基金

藤田 イメージを形にするって、その各々の記憶にタッチしていくことだと思うんです。「楽しそう」「嬉しそう」といったふんわりした感じで終わらずに、もう一個深くいくためにどうするかを考えるにあたって、例えば0からこういうふうなあがり方(斜め直線で上がって行く)で100にいく。今度はこうだ(途中までゆるやかにあがり、途中からふわっと上昇)など、数字に例えてみる。それが相手に伝わるようなら、(次は)「あの記憶のここを引っ張り出してみよう」みたいな。本当に数字を信じているわけではなくて、相手の記憶にどうタッチするかという例としての数字なんですよね。(『野鴨』では)相手の記憶を引き出すための稽古が多かったような気がする。それをお互いに「あ、このイメージね」って楽しむことができたと思っています。

南雲 記憶に触れるという話ですが、手話のCLでは、ひとりひとり本当に表現が違うんです。「でこぼこ」を表すとき手話としての答えはなく、數見さんの場合はこう、わたしの場合はこう、というふうに、自分の中の「でこぼこ」に対するイメージ・記憶がある。記憶というのはひとりひとり全く異なっているので、わたし自身はそこが手話の魅力だと感じます。「重い」といった時に「重い」という記号で終わってしまうことを、私はもったいないと思ってしまう。重さというものはその人の記憶と結びついています。その表現を見ると、私は鳥肌が立ち、きゅん、としてしまうんですね。高齢者の方々には、本当に魅力的な手話が多くて、私にはとても真似できない。その人にしかできない表現だと思います。本当に心の中で撮影したい、という想いでいっぱいになります。

3|言葉の枠で限定しないことの豊かさ

 

 
南雲 『野鴨』もそうでしたが、カンパニーデラシネラのワークショップに参加したとき、マイムの中で、(登場人物)ふたりの関係性が変わってゆくのがおもしろくて。ふたりが出会って、仲いい人かな? と思ったら、急に離れていく。自分の想像がくずれていくんです。『野鴨』は役が決まっていましたが、作品を見るときはあまり意識せず、動きだけを見てどんな関係なんだろうって想像していました。突然テーブルをバンッと叩く人がいて、なんで突然怒ってるんだろうとか。逆にそれを止める人がいる……かと思いきや、今度は止めた人が怒っている。その混乱がすごく楽しかったです。想像を楽しむといいますか。そこに参加できるということに目覚めた感覚があります。


『鑑賞者』撮影:池上直哉(いけがみ・なおや)

小野寺 マイムのもっているメッセージって基本的に足りていなくて、「それを認められますか? その足りてない部分をあなた(お客さん)の力で埋められますか?」ってことなんです。南雲ちゃんが言ってくれたように、例えば、舞台の上で男の人と女の人が見つめ合ったとき、イメージの中で、自分と自分の好きな人だと思う人もいるだろうし、別れた直後のあいつと俺だって思う人もいる。(役者の)目の具合で、「この人、殺意があるのかな」とか、人によって全然ちがう想像するのね。それでいいんです。

海外へ公演しに行ったとき、観劇後のお客さんが待ってて、自分の思ったことをひたすら僕に言うんです。「あの女は死を意味してるな」とか。意味してないんです(笑)。僕はそう思ってない。だけど「はっはー」って思ったの。自分が何かを思ってやったことと、全然ちがう見方をされることって、実はすごく豊か。答えがないこととか、足りていないものに対して、もっと興味をもつことが豊かさに繋がるのだと気付いたんです。逆に言えば、その人の想像によって、小さなものが大きく広がる可能性がある。お客さんに「見て楽しんでもらう」という実感とは別に、もっと未知の世界があるんです。

公演後、泣いてる人とかいるのね。でもそれは、僕の作った物語や状況に泣いてるんじゃなくて、自分のお父さんを思って、涙が止まらなくなったんだって。彼女の記憶の何かにヒットしたわけ。それは限定されていないからなんだよね。舞台に人が出てきて「この人の名前はマイク」って言われた時点で、「これは俺じゃない」ってなるじゃない? でも人が出てきただけなら「あれは自分かもしれない」って、乗り移れるかもしれない。言葉がないことによって、どうにでもできる自由さがある。人はそこにもっと気付いていいし、遊べると思う。

4|わかりあうために、想像すること

 

 
數見 今、コンビニでは店員さんがマスクで対応していますよね。聴者は、相手がマスクをしていても何を言ってるかわかると思うんですけど、ろう者はわからないんです。でも、「マスクをとって」とは言えないので、想像力を使うんです。店員さんがなにか話していたら、「『レジ袋いりますか』って質問しているんだろうな」と想像して、わたしがリュックを指差す。すると、聴者の店員さんも、「つまり、リュックの中にバッグがあるのかな? 袋はいらないんだな」と想像するんですね。

先日、あるお店に行った時に紅茶を注文したら、マスクをしている店員さんにこういう風にされたんです。(両手とも人差し指のみ立てて、それぞれ正面に突き出す動き)。多分マスクの中でしゃべってる。うーん、とても分かりません 。これはジェスチャー? こんなレベルの低いジェスチャーある?(笑)

一同 (笑)

小野寺 これ、なんだろうね……。

數見 そうなんですよ。だから想像したんです。紅茶を頼んだので……。まず、持ち帰りかどうかを聞かれたのかなと思って、「ここではなく、持ち帰りです」(店の外のほうを指差す、この場所を指さし、腕でばつを作る)とジェスチャーをしたんです。そうしたら、またマスクの状態で、こうされたんです(先ほどと同じポーズ)。なんだと思います?

(全員そのポーズで悩む)。

南雲 ……片方はミルク?

數見 そう!

南雲 とすると、もう片方は?

數見 レモン。

小野寺 (右の人差し指を立てて)これがミルク? (笑)

數見 同じ! って(笑)。この場合、現物を見せてもらった方が早いですよね 。

小野寺 ミルクかレモンを見せてくれたら、「こっち!」とか「いらない!」とかできるのに(笑)。

南雲 この店員さんは通じなかったことに気づいたんでしょうか。気づいていたら、「これじゃダメなのか」「現物を出した方がいいのかな?」って、次につながっていくと思うんですけど。何か伝えるって、エネルギーが必要なんですよね。今みんなマスクをしているので、以前よりもさらに伝えるエネルギーが必要で買い物するだけで疲れたりします。例えばコンビニで袋が欲しいとき、こう、(袋を)指差しますよね。わたしは小さい袋がほしかったんですけど、店員さんは大きい袋だと思ったみたいで、大きい袋を渡されてしまう。相手が自分の指差した先をちゃんと見てるかどうかまで確認しないといけないので、だんだんエネルギー切れになってきてしまいます。がんばっているんですけど、見て、その次まで見て、さらにその次まで見て……。

小野寺 「こっち(の袋)?」って確認してくれたら会話が成り立つのにね。みんな、“もらえるもの”だと思っているから、相手が何を発信してるのかを、積極的に受け取りにいかずになんとなく受け取る。「発信側が足りてない」「あなた、こっちって言ったよね?」みたいな状況、今、多く起きてると思う。お芝居の世界で言うと、「わかんないよ」「もっとわかりやすくしてくれ」ってことなんだけど、もうちょっと寄り添ってくれたら、もしかしたらちがうタネが開くかもしれない、ということもあるよね。


『野鴨』写真:トット基金

藤田 『野鴨』の稽古は「わかりやすくしすぎるのは、かっこわるいよね」というのをいろいろ話し合って。やってみて、「今のはちょっとわかりやすすぎる」とかを決めていきました。

數見 稽古のとき、藤田さんが「ちょっとうまく言えないんだけど……」とおっしゃることがあって、その言い方がわたしにはちょうどいいんです。全部説明されると、何も考えることなくただ聞くだけになりますが、「ちょっとうまく言えないんだけど……」と言われると「つまり……こう? こうかな?」というようなイメージの共有ができるんです。その指導の方法がわたしには合ってて。「ちょっとうまく言えないんだけど……」と言われるとうれしくて、「もっと言って! もっと一緒に考えたい」と思ってました。

小野寺 なるほど。片方がもっているものを一生懸命まねするんじゃなくて、一緒にひとつのかたちにしていく。僕らとお客さんは五分五分だし、演出家と役者だってそうだよね。もちろん指示を出すし、こういうことがやりたいって希望は言うけど、言われたことを全部やっても足りないことがいっぱいあって、それを埋めてもらうんです。

イメージっていう話で言うと、多分本当に言葉では表せないものがまずある。それをみんなで、なんとかして「こういうことなんじゃないかな」って探る作業って、実はすごく豊かだよね。言葉を使うとどうしてもある種一つの“正解”を定義しなくちゃいけないじゃない? そこに齟齬みたいなのがある。言葉で表せないものを探す作業は、言葉を使わない方がたどり着けることもあると思う。

藤田:たしかに。単語を言うと「もう伝わった」って思っちゃう。しゃべらない、としたときにお互いに歩み寄るっていうよさもありますよね。

小野寺 そのとき、いろんなことを考えられるよね。
 

● 会場協力: Tokyo Art Research Lab レクチャールーム+アーカイブセンター/STUDIO302
Tokyo Art Research Lab(TARL)は、アートプロジェクトを担う全ての人々に開かれ、共につくりあげる学びのプログラムです。人材の育成、現場の課題に応じたスキルの開発、資料の提供やアーカイブなどを通じ、社会におけるアートプロジェクトの可能性を広げることを目指し、アートセンター「3331 Arts Chiyoda」にレクチャールーム+アーカイブセンター「ROOM302」を開設しています。2020年度にはROOM302の一角を、収録・配信スタジオ「STUDIO302」としてリニューアルし、オンラインプログラムを実施しています。
*本事業は、アーツカウンシル東京(公益財団法人東京都歴史文化財団)の人材育成事業として実施しています。また、「東京アートポイント計画」と連携し、相互にフィードバックをしながら展開します。

編集後記

それぞれの記憶から、それぞれの表現がその場で生まれていくCL表現のかけがえのなさ。それは、その人らしさにふれるときめきに溢れた、とても生の対話であるように感じます。

言葉で限定しないからこそ、受け手が何かを見出そうとすること。そうして、ひとつの表現がたくさんの頭の中でそれぞれふくらんでいくこと……。残された余白の部分で伝え手と受け手が歩み寄り、あらたな世界が拓けていくということのやわらかでたしかな一歩に惚れ惚れします。それは、設計された余白においてはもちろん、日常のコミュニケーションの中にどうしても現れる空白やズレについてもきっと同じこと。しかもきっと、言葉の中にも潜んでいる。誰かとわかりあうために、余白に自らとびこんでいく気持ちと体力を惜しんではいけない、惜しみたくない、と感じました。

Playing Game 004

「イメージのふれあいっこ」

ひとりひとりちがう「記憶」を積み重ねて生きるわたしたち。頭の中をのぞくことはできないけれど、そのイメージはきっとそれぞれの身体や動きに結びついているはず。何もない場所でドアを開けるとき、そのドアノブはどんな形? どんな高さ? 眠りを表現するとき、小さく沈んでいる? 丸まっている? それともとっても解放的? 自分の中でふつうだと思っていたことが、全然ふつうじゃないことに気づく。溢れるわたしらしさ、あなたらしさにふれあおう。

連載Sensory Playground|感覚の遊び場

世界の捉え方を知り、広げる、感覚の遊び場。人はどんなことを感じ、どう世界を立ち上げているのでしょうか。じぶんのことをより知ったり、じぶん以外の感覚に驚いたり。様々な人へのインタビューや制作を通して、つくりながら、遊びながら、その人の世界に飛び込んでみる連載企画です。

Planning
和田夏実|Natsumi Wada

インタープリター / クリエーティブリサーチャー。1993年生まれ。ろう者の両親のもと、手話を第一言語として育つ。視覚身体言語の研究、様々な身体性の方々との協働から感覚がもつメディアの可能性について模索している。2016年手話通訳士資格取得。

Writing
伊藤紺|Kon Ito

ライター / コピーライター / 歌人。1993年生まれ。2014年よりライター活動、2016年より作家活動を開始。同年独立。2019年歌集『肌に流れる透明な気持ち』を、2020年9月に第二歌集『満ちる腕』を刊行

Photo / Movie
加藤 甫|Hajime Kato

写真家。1984年生まれ。写真家・西村陽一郎氏に師事。フリーランスとして様々な媒体での撮影のほか、アーティストやミュージシャン、アートプロジェクトのドキュメントを各地で行なっている。

Moive Supervision
牧原依里|Eri Makihara

映画作家。ろう者。ろう者の「音楽」をテーマにしたアート・ドキュメンタリー映画『LISTEN リッスン』(2016)を雫境(DAKEI)と共同監督。既存の映画が聴者による「聴文化」における受容を前提としていることから、ろう者当事者としての「ろう文化」の視点から問い返す映画表現を実践。異言語Lab.理事。

Graphic
根岸桃子|Momoko Negishi

グラフィックデザイナー / アートディレクター。1996年生まれ。東京都出身。2018年多摩美術大学卒業。グラフィック、パッケージなどのデザイン、プロジェクトの企画を手掛ける。

Support
異言語 Lab.|IGENGO Lab.

異なる言語を使用する者同士から生み出されるコミュニケーションの試行錯誤、ひとつひとつの言語の魅力を探り合い、新しいコミュニケーションの形を提案していくラボラトリー。「謎解きゲーム」に手話を応用した異言語脱出ゲームをNHK、NTT、京都国際映画祭等で提供の他、視覚言語を使ったワークショップやグッズ制作を展開している。

NEXTSensory Playground: Image 3-1

making sense of fantasy

ファンタジーを“理解”する——森敦史氏インタビュー