LUCK EGALITARIANISM

運? ケイパビリティ? 人々はなにを『平等』と考えているのか

「平等」は、「自由」とともに私たちの社会を形作る重要な概念だ。しかし、「平等とはなにか?」という問いに答えるのは、そう簡単ではない。私たちは日々の暮らしの中で、なにを「平等」と考えているのか。それは、どのような「平等観」に基づくのか。実験経済学の手法を使って社会のさまざまな問題の解明に取り組む、早稲田大学の清水和巳教授に、人々の「平等観」の実験から見えてきたことについて訊いた。

TEXT BY ATSUHIKO YASUDA@XOOMS

経済格差や貧困、移民問題、「セクハラ」「パワハラ」……。過酷な状態に苦しんでいる人や、ひどい差別にあっている人を、社会は救わなければならない。このことには多くの人が同意するだろう。その一方で、自分が起こした問題は自分で責任を持つべきだという「自己責任論」も幅をきかせている。どちらの主張が正しいのか、と考えていくと、結局「平等とは何か?」という問いにたどり着くのではないだろうか。誰を、どの程度救うのが「平等」と言えるのか。それを「平等」と判断する根拠はいったいどこにあるのだろう。

そんなことに悩んでいたところ、ネット上で興味深い論文を見つけた。「Luck or Capability?(運かケイパビリティか?)」と題されたその論文は、「平等」をめぐる議論を背景に、一般の人々がどのような「平等観」をもっているのかをオンライン実験によって調査したものだ。

この論文の著者の一人である、早稲田大学政治経済学部の清水和巳教授に、「平等観」の実験から見えてきたことについて聴いた。

——「平等論」とはどういうものなのでしょう?

清水 学問としての『平等論』は、哲学・政治学だけではなく、法学や経済学などにも関わります。私は実験経済学者の立場から『平等論』に携わっていますが、今回の研究プロジェクトは、政治哲学、法哲学、経済学の研究者との共同研究です (*)。

現実社会の視点から言えば、人々の『平等観』は、社会保障政策と深くつながっています。社会の中で、誰を優先的に救うべきかという問題は、税金という限られた資源をどう分配するべきかという問題でもあるからです。

「社会の中の限られた資源を人々にどう分配するべきか」という問いを最初に体系的に提起したのは米国の哲学者、ジョン・ロールズです。この問いへの回答として、ロールズは1971年に『正義論』という本の中で、『マキシ=ミン原理』を提示し、「もっとも不遇な人々の福祉をまず考慮せよ」と主張しました。それが、今にいたる『平等論』をめぐる議論の始まりといってよいでしょう。

(*)今回の論文は、東京大学教養学部の井上彰准教授、阪南大学経済学部の宇田川大輔准教授、学習院大学大学院法務研究科の若松良樹教授との共著


——この研究で対象となっている「運の平等論(Luck Egalitarianism)」とはどのようなものなのでしょうか?

清水 私たちはみな、まっとうな生活を送る権利をもっています。その意味では、まっとうな生活を送れない、不遇な状態にいる人、たとえば貧困に苦しんでいる人や障害を負った人を、社会は救わなければなりません。

たとえば大地震のような、個人の力ではどうしようもない不可抗力によって貧困に陥ったのなら、社会は全面的にその人を救うべきでしょう。しかし、同じ貧困でも、自分が考えて株式に投資をして全財産を失ったのなら、救済できなくても仕方ないと考えるかもしれません。

そのような私たちの直観の背後には、自分の選択が招いた不遇さはその人の責任で負担すべきで、社会が救う必要はない、という判断があるようです。それが、『運の平等論』の基本的な考え方です。『運の平等論』では、自己の選択が招いたのではない偶然を『自然的運』、自己の選択の結果が招いた偶然を『選択的運』と呼び、『選択的運』の責任は選択した人にあり、本人が負担をしなくてはならない、と主張します。いわゆる『自己責任』ですね。

——「『運の平等論』の理屈は、ある意味、合理的で納得する部分もあります。しかし、もし「救われない」側の立場になると辛いですね。

清水 そうですね。実際、『運の平等論』は厳しすぎる、と批判する学者もいます。その代表が『関係性の平等論(Relational Egalitarianism)』を提唱した、エリザベス・アンダーソンです。

『関係性の平等論』では、もし眼の前にとても苦しんでいる人がいたら、その理由にかかわらず、助けるべきだ、と考えます。それが、たとえ『自己選択』の結果であっても関係ない。アンダーソンの考えた『平等』は、他人が苦しんでいれば助け、自分が苦しいときは他人が助けてくれる、人々が相互に依存することを前提とした平等と言えます。それゆえ『関係性の平等論』と呼ばれているのです。

——「『関係性の平等論』では、何を平等の判断基準にするのでしょうか?

清水 『関係性の平等』は、『運』の代わりに、人間がそなえるべき『基本的ケイパビリティ(Basic Capabilities)』に着目します。『ケイパビリティ』は、日本語に訳しにくい概念ですが、単にお金をたくさん使える、モノをたくさんもっているということではなく、もっと広い、まっとうな人間として生活を営める状態、「豊かさ」に近いものといえるかもしれません。

——今回の論文では、一般の人々の「平等観」を調査しています。どのような目的があったのでしょうか?

清水 ひとつは、理論的な興味です。今お話ししたように、「運の平等論」と「関係性の平等論」は、これまで理論的に対立するものとして扱われてきました。しかし現在は、平等を論じるには複数の軸が必要であるとする『多元主義的な平等論』が注目されつつあります。この『多元主義的な平等論』が、現実の世界で実際に観察されるのかどうかを実験的に知りたいと思いました。

もうひとつは、政策的な興味です。『平等』を理論的に議論することももちろん大事ですが、現実社会の中で、一般市民がどのような平等観をもっているかも、とても重要です。なぜなら、なんらかの『不平等』を是正するために政府がおこなう福祉政策に税金が使用される以上、納税者である一般市民の支持が得られなければならないからです。ある政策への支持を得るためには、一般市民がどのような状態を『不平等』とみなし、『是正すべき』だと考えているのかを、為政者は知らなくてはなりません。一般の人々の『平等観』を知ることは、福祉政策を決定・実行する際に非常に重要だと考えます。

——どのような方法で、一般人の「平等観」を実験したのでしょうか?

清水 インターネット上で匿名のオンライン実験を実施しました。参加者には、さまざまな『過酷な状態』を記述したシナリオ(ストーリー)を読んでもらいます。ひとつのシナリオについて、『運』と『ケイパビリティ』が異なる4つのケースを提示し、それぞれのケースで、参加者が妥当と思う自己負担額(割合)を答えてもらいました。

実は、今回使ったシナリオは、もともとアンダーソンが提示したものをベースに作っています。たとえば、「ある人が車を運転していて事故にあった」というシナリオの場合、次の4つの異なるケースを提示しました。

ケース1 軽傷ですんだが、傷跡が残らないようにする手術に100万円が必要。保険は払える額だったが、保険には入っていなかった。

ケース2 軽傷ですんだが、傷跡が残らないようにする手術に100万円が必要。保険は高額で払える額ではなかったため、保険には入っていなかった。

ケース3 重症を負い、失明しないためには手術費100万円が必要。保険は払える額だったが、保険には入っていなかった。

ケース4 重症を負い、失明しないためには手術費100万円が必要。保険は高額で払える額ではなかったため、保険には入っていなかった。

見てすぐ分かる通り、4つのケースは、不遇な状態が、どれくらい自己選択に依っているのか(保険に入らなかったのは自己の意志か、不可抗力か)と、被害、すなわち、ケイパビリティの侵害のレベルはどれくらいか(傷程度の軽傷か、失明レベルの重症か)の組み合わせになっています。

もし一般の人々が『運の平等論』に近い直観だけをもっている、すなわち、自己負担の量を決めるのは、自分の選択かどうかだけだと考えているなら、軽傷でも重症でも、自己負担の量は変わらないはずです(たとえば、ケース1と3、ケース2と4の各々で自己負担額に差がないはず)。逆に、人々が『関係性の平等論』に近い直観だけをもっているなら、重要なのは、被害の重さだけで、その被害が自己選択の結果なのか、不可抗力なのかは関係ないでしょう(たとえば、ケース1と2、ケース3と4の各々で自己負担額に差がないはず)。

——実験では、どのような結果が得られたのでしょうか?

清水 一言で言えば、一般の人々は『運の平等論』と『関係性の平等論』のどちらかだけに偏ることなく、両方のバランスをとりながら、平等か不平等かを判断している、ということがわかりました。

車事故のシナリオでいうと、自己判断で保険に入らなかった場合は、自己負担はより多くすべきだ、という傾向がでると同時に、被害が重いほど自己負担は少なくていい、という傾向も出たということです。

政治理論上は『運の平等論』か『関係性の平等論』か、二者択一の議論が続いていますが、一般の人々の直観にはその両方が共存していて、2つを組み合わせながら多元主義的に判断をしていると考えられます。

——私たちは、運だけでも、結果だけでもなく、その両方を組み合わせて「平等」を判断しているというのは、自分自身の感覚としても納得できます。

清水 データを詳しく見ていくと、面白いことも見えてきました。今回の実験では、被験者に『直感的に答えてください』と伝えた場合と、『じっくり考えてください』と伝えた場合で、妥当だと思う自己負担額にどのような違いがあるかも比較しました。その結果、同じケースでも、『じっくり考えてください』と伝えた方が、より『運の平等論』に近くなる傾向が現れたのです。

この理由は、人々が直感的に回答した場合は、原因よりも先に被害に目がいってしまうため、主に被害の大きさで自己負担額を判断してしまう一方で、じっくり考えた場合には、その被害が自己選択によるのかどうかまで吟味することができるからでしょう。

これは、『ケイパビリティ』は、平等と直接的につながっている一方、『自己選択』は、『原因』や『責任』を介して、間接的に平等と関係しているためだと思われます。つまり、『原因』や『責任』がより強く関わる『運の平等論』では、じっくり考えることが前提になるとも言えるでしょう。

——結局、平等を実現するためには、どのような政策や社会のしくみが望まれるのでしょうか?

清水 今回の調査でわかったことは、人々は、『運』と『ケイパビリティ』の両方を考慮した『多元的な平等観』を持っている、ということです。

その点では、行き過ぎた自己責任論や、逆に、行き過ぎた博愛主義で、社会保障や福祉政策を決めるべきではないでしょう。現在おかれている過酷な状態のどの程度が自己選択の結果なのか、また、『過酷』の程度はどれくらいなのか、その両方を考慮した政策でなければ、人々の支持は得られないと思います。

たとえば、親の所得が少ないため進学が難しい子供への支援は必要でしょうし、人々の幅広い支持も得られるでしょう。しかし、自らの努力が足りずに経営破綻した大企業に公的資金を投入する場合、『Too big to fail(大きすぎてつぶすことができない)』という理由だけでは人々は納得しないと思います。もし、こういう政策をとるなら、為政者は支援の理由を明確に説明するべきです。

今回の論文には載せていませんが、実は、同じ事故のシナリオでも、警察官が怪我をした場合は、一般人が怪我をした場合とは違った判断を人々は示しました。公的な仕事をしている人が不遇な状況に陥った場合は、たとえその職業を選んだのは本人であっても、自己負担は軽減されるべきだと人々は判断します。おそらく、これも私たちの感覚と合致しているのではないでしょうか。

ほかにも、年齢や性別によっても、『運の平等』と『関係性の平等』の比重は変わる傾向がみられました。おそらく、今回は調査していない、他のさまざまな属性も、『平等観』に影響するはずです。

今後さらに研究調査を進めて、人々の直観にそった『多元的な平等論』を構築することが、学問的な見地からだけではなく、社会にとっても有用だと思います。

参考文献
“Luck vs. Capability? Testing Egalitarian Theories”
Akira Inoue, Kazumi Shimizu, Daisuke Udagawa & Yoshiki Wakamatsu
https://philpapers.org/rec/INOLVC
「運の平等論をめぐる攻防― VS社会関係に基づく平等論の地平(井上 彰)」
http://rci.nanzan-u.ac.jp/ISE/ja/publication/se32/32-04inoue.pdf


清水和巳|Kazumi Shimizu
1961年生まれ.Ph.D Economics.早稲田大学政治経済学部教授、同現代政治経済研究所所長、スーパーグローバル大学創成支援事業実証政治経済学拠点リーダー。専門は、実験・行動経済学、意思決定論、社会科学方法論。研究テーマは、「社会的ジレンマにおける人間の協力行動」、「所得格差拡大のメカニズムとその是正」、「人々の時間選好」など多岐にわたる。「実験」を社会科学の共通言語とすべく、幅広い活動をおこなっている。

保田充彦|Atsuhiko Yasuda
株式会社XOOMS(ズームス)代表、一般社団法人ナレッジキャピタル・リサーチャー。航空宇宙分野のエンジニアを経て、現在はサイエンス映像の制作、データの可視化、VR/MRコンテンツ開発などに取り組んでいる。座右の銘は「人生はすべて実験である」。