SINGLE CELL TECHNOLOGY

新たな生命のルールを解き明かす「1細胞(シングルセル)」ってなに?

ゲノム編集、合成生物学、細胞療法。加速度的な発展を遂げる生物学の世界では、新しいテクノロジーのトレンドが次々と生み出されている。そんな、躍進目覚ましい生物学において、最近あるキーワードに注目が集まっているという。「1細胞(シングルセル)テクノロジー」だ。1つの細胞に注目し、解析することで、新たな生命のルールを解き明かすという「1細胞テクノロジー」の概要を、ハーヴァード大学ヴィース研究所の博士研究員・佐々木浩が解説する。

TEXT BY HIROSHI M. SASAKI
PHOTO COURTESY OF The Netherlands Cancer Institute

細胞にも「個性」がある!?

私たちの身体は、200種類以上、約38兆個の細胞が協調して働くことで作られています。「どのようにして身体が作られるのか」「なぜ細胞の機能が異常をきたすと病気になるのか」といったことを理解するためには、細胞自体について調べることが不可欠です。それでは、どうやって調べればよいでしょうか?

たとえば、私たちの社会について調べたり、説明したりするのに際し、「日本人」「新入社員」「65歳以上」のように集団をカテゴライズして、その平均について調べる場合と、実際にそうした集団を構成している1人1人に注目して、「どういう個性があるのか」「どういうばらつきがあるのか」を調べる場合とでは、わかることがまったく異なってきます。

これは、細胞を調べる場合にも当てはまります。これまでの生物学研究では、数十万から数百万個の細胞をまとめて解析するのが一般的でした。こうしたアプローチでは、細胞集団の平均的な性質や機能について詳しく調べることができます。その一方で、細胞ごとの違いやばらつき、いわば個性や多様性のようなものは調べることができませんでした。

しかし最近になって、同じ種類の細胞であっても、細胞のかたちや細胞内で作り出すタンパク質、薬剤に対する反応といった点で違いがある、すなわち細胞にも個性があるということがわかってきました。さらには、個性があるだけでなく、たとえば私たちの身体が成長し、老化していく中で、細胞自体もダイナミックに変化していくことがわかってきました。

がんが転移する「謎」がわかるかもしれない?

たとえば、がんが初期がんから悪性化していく流れの中で、一番問題になるのはがんの転移です。がんの転移は、たった1個のがん細胞が転移する能力を獲得することで始まると考えられています。転移しないがん細胞の中から、どうして転移能をもったがん細胞ができるのか、どうすればそれを早期に発見したり、食い止めることができるのか……。こうしたことを調べ、未来の治療につなげていくためには、それぞれの細胞がもつ個性に注目する必要があります。

では、どうしてこれまで1細胞の個性は調べられてこなかったのでしょうか? それは1細胞のような微量なサンプルを扱い、解析することが技術的に不可能だったためです。細胞の体積はおよそ1ピコリットル(1兆分の1リットル)、インクジェットプリンタから射出されるインクの液滴程度しかありません。この中に含まれるDNAについて調べる場合、犯罪捜査に利用されるDNA検査をはるかに上回る感度と精度が必要になります。従来の技術では、科学的に明確な結果を得るために、検出限界を上回る程度の量の実験サンプルが必要だったため、数十万から数百万個の細胞をまとめて解析するしか方法がありませんでした。

しかし、テクノロジーの進歩が不可能を可能に変えつつあります。たとえば、「マイクロ流体技術」の発展により、微小な細胞を1つずつ分類し、細胞内に含まれる超微量なサンプルを抽出して分析することが可能となってきました。また、1細胞に含まれるRNAを抽出、増幅し、その配列を網羅的に調べる「1細胞RNAシーケンシング」と呼ばれる技術により、臓器や組織の中に含まれる1つ1つの細胞の生態と、その時間変化を調べることも可能になってきています。

顕微鏡イメージングも、強力な1細胞技術の1つです。以前HILLS LIFE DAILYで紹介したように、従来と比べ、はるかに微細な細胞の姿を捉えることができるようになったことで、細胞ごとの内部構造や状況の違いを高速かつ高感度に可視化することが可能になってきました。

さらに、機械学習のようなITの世界を席巻しているテクノロジーが、1細胞を解析する上でも役立っています。

細胞集団の「平均」を扱っていた場合と異なり、1細胞ごとの「個性」や「多様性」に注目する場合、扱うデータがDNA配列データや数値データ、さらには顕微鏡画像データといった多様なものになり、データ量も膨大になります。こうしたデータの中から、細胞の個性につながるわずかな違いを見出していくためには、計算機の力が不可欠です。顕微鏡によって得られた多数の細胞画像の自動解析や、多種多様のデータから未知の関係性を明らかにする際に、機械学習が欠かせない存在になっています。

実験解析技術の進歩に加えて、こうしたITテクノロジーも活用していくことで、生物学者たちは1細胞レベルで新たな生命のルールを解き明かそうとしています。がんを含むさまざまな病気の原因を突きとめられる日も、そう遠くないかもしれません。そうした生物学の最新トピックを、いずれまたお届けしたいと思います。

profile

佐々木浩|Hiroshi M. Sasaki
1983年東京都生まれ。生物学者。博士(理学)。主な研究領域は、1分子生物物理学、生化学。東京大学理学部、同大学院理学系研究科にて構造生物学を学び学位を取得。東京大学分子細胞生物学研究所助教を勤めたのち、2015年よりハーバード大学ヴィース研究所博士研究員。現在はDNAナノテクノロジーを利用した新規超解像イメージング法の開発とその生物学応用を目指して、研究に取り組む。また研究の傍ら、サイエンス・ライターとしても活動しており、「THE BIOLOGY BIG BANG!——WIREDの未来生物学講座」「THE RISE OF DNA HACKERS」(ともに『WIRED』日本版掲載)などの記事を手がけている。