translation and creation

村上春樹を育てた翻訳文化、あるいは藤本和子の若さについて——邵丹インタビュー

テクノロジーによる翻訳は、とても便利だ。だからこそ考えておきたいのは、そもそも翻訳という営みは、現代社会を根底から考え直させるような、ラディカルな問いを含んでいるということだ。村上春樹を育んだ1970年代日本の翻訳文化にフォーカスし、既に話題を呼びつつある邵丹(ショウ タン)の『翻訳を産む文学、文学を産む翻訳 / 藤本和子、村上春樹、SF小説家と複数の訳者たち』(松柏社、2022年3月)は、先人たちが紡いできた問いの輪へと、私たちを手招きしている。著者の邵に話を訊いた。

TEXT BY Fumihisa Miyata
PHOTO BY Kaori Nishida

——『翻訳を産む文学、文学を産む翻訳』は、村上春樹の世界を育んだ1970年代日本の翻訳文化にフォーカスし、翻訳という営みをめぐる、汲めども尽きぬ可能性へダイブしていく一冊です。先にすこし、著者の邵丹さんご自身についてうかがいたいのですが、最近はどんな生活をおくっていますか。以前から名古屋外国語大学で教鞭をとられてきて、2022年4月から、今日の取材場所である東京外国語大学に移動されましたね。

 着任したばかりで、1カ月が過ぎたところなんですが、教えるコマ数がわりと多いので授業のない日でもだいたい準備に追われています。初年度は12コマで、春学期は6コマですね。この3月に東京に引っ越してきて、買い物に便利な街が家の近くにあるんですが、必要に迫られて2~3回いったことがあるきりです(笑)。あとは家と研究室と教室、という生活ですね。

——お忙しいところ、しかもGW中の取材で大変恐縮です。

 いえいえ、うれしい限りです。普段は休日にすこし休めていますから、大丈夫ですよ(笑)

——では改めて、中国で村上春樹に出会い、来日されるに至る経緯をお聞かせください。

邵丹|ショウ・タン 1985年生まれ。東京外国語大学世界言語社会教育センター専任講師。上海外国語大学高級翻訳学院翻訳学専攻修士課程修了。東京大学人文社会系研究科欧米系文化研究専攻博士課程修了。専門は翻訳研究、世界文学論、ジェンダー研究。論文に、佐藤=ロスベアグ・ナナ編『翻訳と文学』(分担執筆、みすず書房、2021年)、「『反』骨のSF作家・劉慈欣と『三体』三部作による時代啓示」(『Artes MUNDI』VOL. 6, Spring 2021)など。

 もともと日本語や日本文学を専攻していたわけではなく、大学では英米文学を専攻していました。その後、大学院では翻訳学、特に通訳をメインに、国連の通訳官を目指して学んでいたのですが、実用重視の訓練にちょっとした違和感を抱いてしまい、そのときちょうど手に取ったのが、村上春樹の『ノルウェイの森』。当時は日本語がまったくできなかったので、英語版を読みました。フィーリングが合ったのか、この作家の世界は面白いな、さらに追究していきたいなと思って、ほぼ独力で日本語を勉強するようになったんです。そして日本語で『羊をめぐる冒険』を読み、さらにハマって——ちょっと冒険してみようかな、と。

——邵さんの冒険がはじまったのですね。

 私の冒険です。独学の日本語でしたから自信は全然なかったのですが、東京大学大学院・柴田元幸先生のもとで研究させていただけることになり、まったく違う方向へと歩みだすことになりました。その後、沼野充義先生にもお世話になりながら、翻訳と創作の関係性について検討していき、そうして実ったのがこの本です。

——翻訳の大家である方々を師としつつ、邵さんが翻訳と創作の関係性へ、特に若き日の村上春樹を育んだ翻訳文化の研究へと向かった理由は何なのでしょうか。

 私が「翻訳」というときに対象としているのは文芸翻訳のことなのですが、外国の作家を読むときに、原書で読むこともあれば、翻訳で読むこともありますよね。そこの面白さなんです。すこし個人的な話になりますが、先ほどお伝えしたように私が村上春樹を読んだのは、まずは英語版、次に日本語の原書です。中国語訳を飛ばしているんですね。中国大陸で出されているヴァージョンの訳を批判するわけではないのですが、日本の純文学風に訳したものでして。四字熟語がかなり入ってくる、という感じなんですよ。

——翻訳によって、テクストのモードが変わるわけですね。

 もとの村上春樹のテクストとは、ちょっと雰囲気が違いますよね。中国語訳を見たときに、村上の原文はどうなんだろうと興味を抱いてめくってみたら、大江健三郎ほど難しくなかった(笑)。それで取り組んでいったら、どんどん読めるようになっていきました。

そんな村上春樹自身が、作家と翻訳家という二つの面を持っています。村上が訳した作家や作品へ興味を持つ人は、日本の国内外問わず多いです。また、かつて近代日本の翻訳は「啓蒙」という意味が強く、知識をトップダウンで伝えていくようなところがあったわけですが、村上は自身が訳を手がける作家たちと“友だち感覚”で付き合っている感じがします。「最近、君の本を訳したよ」、パッと背中を押して「頑張れよ」というような(笑)。こうしたことに興味を抱いていったら、だんだん「創作と翻訳」が大きなテーマになっていったんですね。

——とはいえ邵さんの本は、これまでもよく論じられてきた“村上の普段の創作と翻訳”というテーマではなく、かつての村上を育んだリチャード・ブローティガンやカート・ヴォネガットといったアメリカの小説、その日本語訳(者)たちに焦点を当てています。

 こうした観点での翻訳文化というものは、これまであまり取り上げられてきていないように思います。もちろん村上春樹が取り込んだ文化には、いろいろなものがあります。原書も読んでいるでしょうし、ジャズ音楽のリズムも自分の体に流し込んでいる。そのうちのひとつの大事な要素として、1970年代に入ってからの、特にアメリカ文学の日本語翻訳があった。それらを取り込んでつくりだした村上の文体が、やがて人気を博していったわけです。

村上のデビュー作『風の歌を聴け』を見ればおわかりいただけるように、新しい文体をつくりだすということは、本当に難しい。特に、1964年に出た野崎孝訳のJ.D.サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて(The Catcher in the Rye)』の縛りからいかに脱するか、という問題は大きかった。村上が『風の歌を聴け』の冒頭に、架空の作家デレク・ハートフィールドの引用として「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」と書いた気持ちは、よくわかります。だからこそ、既存の文学の束縛を受けていない訳者たちの仕事に、新しい文体の可能性を見たのだと思います。

——その視点でとりあげられるのが、ブローティガンの訳者・藤本和子、一方でヴォネガット作品を手がけた飛田茂雄や浅倉久志ら複数の訳者たちです。

 1970年代のふたつのケーススタディ——かたやアメリカでヒッピー文化と関係づけられたブローティガン、かたやSFというジャンルの作家だと思われたヴォネガット、ふたりの作品をそれぞれ訳した人たちを通じて、文学・文化が徐々にかたちを変えていったことを論じました。大きな変化のひとつとして、アカデミズムの訳者たち、つまり各分野や作家のアカデミックな研究者が訳す、という従来の原則が崩れていったことがあげられます。やがて翻訳学校や専門雑誌も立ち上げられ、翻訳が産業化し、研究者として大学の先生=訳者に弟子入りしなくても、翻訳家になることが可能になる。そんな状況が生まれていった時期なんです。

和子さん(編注:邵はインタビュー調査を通じて交流した藤本和子のことを、親しみをこめて取材中こう呼んだ)は、いまでこそ翻訳家として知られていますが、ルーツをたどっていくとアングラ演劇、つまりカウンターカルチャーの人で、いわば翻訳の素人です。担当編集者であり、和子さんと演劇活動も共にした津野海太郎さんにうかがった話でも、「素人」はキーワードになっていました。つまりトップダウンではなく、「私たちが見つけた面白いものを紹介しよう」というボトムアップの感覚があったんですね。ジェンダーの観点でいえば、女性翻訳家が活躍しだした時期で、和子さんはさらに、女性作家の翻訳へとシフトしていきます。

——藤本和子と並行して、ヴォネガットの訳者たちもまた、変化をもたらしたと論じられています。

 ヴォネガットを訳した飛田、浅倉、あるいは伊藤典夫らの例を通じて検討しているのは、いわば集団翻訳です。SFが好きな人たちが集まって、好きだから訳してみよう、紹介してみよう、というところからスタートしている。そうやって、ファンダムの確立と共に翻訳が発達していく。

サークルや集団で翻訳するというのは、人的ネットワークの形成や情報交換ができるだけではなく、ディスカッションを通して作家や作品の理解も深めていけるわけですよね。他の人の訳に対する態度も、アカデミズムの人が他の人の訳文を批判しがちなのに比べて優しい(笑)。仲間同士で褒め合い、認め合う、そうした関係性のなかでヴォネガットは受容されていきました。ファンダムはとにかく対象が好きで好きでしょうがないという人たちの集まりであり、こうした熱が翻訳にも反映されていったのではないでしょうか。

——なるほど。改めて藤本和子についてうかがいたいのですが、ブローティガン『アメリカの鱒釣り』の日本語訳(1975年)は、多くの後進に衝撃を与えましたね。

 訳文の文体自体が新しかったわけですが、翻訳者と作者との関係性もまた、新しかったんです。和子さんは当時サンフランシスコに住んでいて、同じく現地在住のブローティガンと直接会ってもいるし、わからないことがあれば電話一本でつながることができる関係性、距離感にあった。これは従来、作者は基本的に“見えない”存在だった、つまりテクストだけが目の前にある文芸翻訳のあり方とは違って、とても新しいことでした。

——ブローティガンの“声”を聴いていた藤本和子は、多様な“声”を聴くことができた人でした。1978年に訳した中国系アメリカ女性作家マキシーン・ホン・キングストンの『チャイナタウンの女武者』は、近年バラク・オバマの愛読書として、またエスニック・マイノリティの女性の立場で書かれた小説として脚光を浴びている。その後80年代の藤本は「北米黒人女性作家選——女たちの同時代」というシリーズの責任編集と一部翻訳を務めます。並行して「聞書」にも可能性を見出だし、『塩を食う女たち 聞書・北米の黒人女性』『ブルースだってただの唄』を執筆。近年文庫化されたこの2冊もまた、フェミニズムとブラック・ライブズ・マターの文脈で再評価されています。先駆的な仕事をされた方では?

 和子さんご本人は、先駆的だとは思わないでしょう。実は私も2018年に初めてお話をうかがいにシカゴにいったとき、似たような質問をしたんです。和子さんの答えは、違和感をずっと抱いていた、と。

——違和感ですか。

『チャイナタウンの女武者』を選んだ理由は、訳者である彼女自身が現実にアメリカのエスニック・マイノリティであり、アジア系の女性だったからです。あの本を誰かが訳さないといけないと思った、別に私じゃなくてもいい——そのようなことを、和子さんは話してくれました。そこには、和子さんが抱いてきた違和感が関係しています。一種の使命感に駆られたんじゃないでしょうか。ひとりの人間の現実に複数の社会要素がかかわっていて、二重に差別されている——その存在はどういうものなのか、という意識ですよね。それは和子さん自身のことでもあるからこそ、マキシーン・ホン・キングストンとシンクロしたのでしょう。

思い出すのは、和子さんと私の、初対面の場面です。私は東京からシカゴまで直行便で飛んで、空港からホテルに向かい、そのロビーでお会いしたんです。すると初対面にもかかわらず、しかも自己紹介する前に彼女が最初にいったんです、「私が影響を受けたのは石牟礼道子さんと森崎和江さんです」と。

——開口一番で、ですか?

 はい、第一声で(笑)。自己紹介はおろか、レコーダーさえ回していませんでした。もちろん、そのアメリカのホテルのロビーにはアジア人はふたりしかいませんでしたし、渡米前に連絡はとりあっていて、この時期に来るならこの時間帯のあの便だとわかっていらしたとは思います。それにしても、本当に第一声だったんですよ。

——藤本和子が大きな影響を受けたと話した先人たち、そのひとりである石牟礼道子は、水俣病を描いた『苦海浄土』で知られ、現在も読み継がれる作家です。もうひとり、朝鮮生まれの詩人・作家である森崎和江の著作もまた、『からゆきさん 異国に売られた少女たち』や、筑豊の炭鉱の女性たちを描く『まっくら 女坑夫からの聞き書き』が近年文庫化され、再び注目を集めています(編注:取材後の2022年6月15日に逝去)。

 和子さんのルーツとなるおふたりです。石牟礼道子さんの『苦海浄土』は現在、海外でも評価されています。ただ、その視点はもっぱらエコクリティシズム(人間と環境の関係を考える文学研究)です。しかし、たとえば『苦海浄土』第一部第三章「ゆき女きき書」は、女性論として読めます。水俣病にかかった患者の女性はもちろん、その患者たちの看病もまた、当時の看護婦をふくめて女性の肩に重荷としてのしかかっている。水俣病と性差別が絡み合う。こうした点は、海外で評価されるときに見過ごされているように感じます。森崎和江さんにしても、在日への差別と性差別をクローズアップする。1980年代アメリカではブラック・フェミニズムが確立しますが、そうした交差性が、和子さんが読んだ1960年代の石牟礼や森崎の仕事にはあったわけです。

和子さんは石牟礼・森崎の熱心な読者だった。ただ、差別の“現実”は、1970年代、和子さんがアメリカ社会でエスニック・マイノリティの女性として生きるようになってから見えてきたはずです。ブローティガン『アメリカの鱒釣り』日本語訳の巻末には、普通の「訳者あとがき」にはないようなことが書かれています。和子さんの個人的なエピソードとして、サンフランシスコを歩いていたら、いきなり罵られた——中国人に間違われて差別を受けた、と。自分の体験として、実感をともなって“現実”が見えるようになってきたのだと思います。

——『翻訳を産む文学、文学を産む翻訳』は、そんな藤本和子の貴重なインタビューに基づく本でもあります。どんな方でしたか。

 1939年生まれの方ですが、私の目から見ると、若かったんです。目にすごく光が宿っているといいましょうか、キラキラとしていて、話す言葉すべてに力がこもっていました。本書のなかでは、1970年代当時、村上春樹をふくめた読者の「若者」たちにも焦点を当てているのですが、私が2018年に会った和子さん自身も若かったんですね。

私にとっての藤本和子というのは——こういう言い方はちょっと変かもしれないんですけど——動詞です。英語でいうとverbかな。彼女は、名詞になってない。ブローティガンの翻訳でステータスは確立されたのに、そこも脱して、興味が赴くままに新しい仕事をしていった。生涯変化を遂げ続けている。こういう生き方というのが、私の世代の人たちにとっては魅力的なんですよね。固まらない動詞であり、いくら年をとっても若者だと思います。

——邵さんの研究もまた、今日のこのインタビューが象徴的なように、村上春樹を起点としながら広がりつづけ、社会を根底から問うものになっていっています。おひとりで進めるには、大変な仕事ではないですか。

 この本を執筆したのはたしかに私なんですけれども、たくさんの方にインタビューをして、貴重な話もたくさん聞きました。著作権の観点でいえば私の作品のはずですが、そうともいいきれない。創作と翻訳をわけて考えていないということにもつながってきますし、私はなぜいまの社会が、そんなにオリジナリティとしての創造性にこだわるのかが疑問です。たしかにコツコツと仕事はしているのですが、決してひとりでその作業をおこなっているわけではないんです。

——翻訳という営み自体にかかわるお話ですね。

 私は、人の影響を受けて、関心を広げてきました。村上春樹に出会い、藤本和子に出会わなければ、石牟礼道子や森崎和江の世界は知らなかった。出会ったことで、自分の目の前でもうひとつの世界がひらけたような感じがする。もっと広い世界で生きてみたいと、ずっと昔から願ってきました。かつての和子さんが、そうだったように。

私がシカゴに滞在したのは1週間だったんですけれども、和子さんにはほぼ毎日お会いしました。最初は、和子さんもお忙しいと思ったので、「何日の何時から何時まで、おうかがいしてもよろしいですか?」と、プラグマティックにスケジュールを決めようとしていたんです。そうしたら和子さんは、そういうのはいいからとりあえず来て、って(笑)。わかりましたと向かったら、滞在する1週間のあいだ、和子さんの時間があるときはとにかく会ってくださったんです。インタビューは今日この取材のようにレコーダーで録ったんですけれども、それ以外にお話しくださったことは全然レコーディングしていなくて、私の頭のなかに入っています。それは私にとって、人生の宝ですね。

 

profile

宮田文久|Fumihisa Miyata
1985年、神奈川県生まれ。フリーランス編集者。博士(総合社会文化)。2016年に株式会社文藝春秋から独立。2022年3月刊、津野海太郎著『編集の提案』(黒鳥社)の編者を務める。各媒体でポン・ジュノ、タル・ベーラらにインタビューするほか、対談の構成や書籍の編集協力などを担う。

邵丹(ショウ・タン) 『翻訳を産む文学、文学を産む翻訳 / 藤本和子、村上春樹、SF小説家と複数の訳者たち』 (松柏社) 村上春樹という作家の文化的ルーツの一つには1970年代の翻訳文化がある。この時代の「新しさ」の視点から「新しい翻訳」「新しい形」で出版された実際の翻訳書や若者文化の勃興のもとで誕生した「新たな」文化空間を、藤本和子、SF小説の翻訳家たちの翻訳を通して丹念に辿る。翻訳という行為の壮大な可能性が見えてくる。