CITY OF AMORPHOUS

問題は<誰が>ではない。<何で>だ!何の話かって? ケツを拭く話に決まってるだろうが——連載:菊地成孔「次の東京オリンピックが来てしまう前に」35

COVID-19に見舞われた2020年の春……。時代の変化の後景にある「都市の記憶」を、音楽家 / 文筆家の菊地成孔が極私的な視点で紐解く好評連載第35回!

TEXT BY NARUYOSHI KIKUCHI
ILLUSTRATION BY YUTARO OGAWA

言うまでもないが、これはわが国古来の慣用表現であり、「(本来なら誰々が負うべき)責任を代わりにとる」を意味し、発展型変形として「ケツ持ち」(誰々の責任を取る者が、レギュラー的に決定している、その肩書き)、等も持つ、いわゆる「(誰々の)尻拭いをする」という、実に典雅な言葉についてでは、残念ながらない。換喩という経路を通さない、極めて具体的な、つまり「排泄時後の、肛門とその周辺粘膜に付着した残存排泄物の、主に払拭型除去」についてである。判決文のように回りくどいのは、何を書いても平然と掲載されて来た当連載の、唯一行われた検閲が「腸管内視鏡とスマートフォン」に関する、排泄を扱った回だったという統計結果に依る慎重さであるとご理解頂きたい。

いきなり話が逸れるが、米語表現で「ケツ」を使うのは、筆者の小学童並みの英語力では、一般語から、かなり悪どいスラングまで含め「KICK ASS(イケてる)」や「KICK YOUR ASS(ぶっ飛ばすぞ)」のように、「蹴る」、乃至「ASS KISSING」や「KISS ASS(共に「おべっかを使う」「いいなりになる」)」のように「接吻する」としか結びつかない。米語というのはこうして、実に典雅さに欠ける卑俗な言語であると言えるだろう。

わが国では「拭く」べき物を、あろうことか合衆国では蹴ったり舐めたりするのだ。アメリカでは素敵な花瓶や眼鏡、或いは廊下など、本来ならば拭くべき対象を蹴ったり舐めたりするのだろうか? 確かにしそうである。一方、「誰々の尻を拭う」を逐語訳するならば、もっともシンプルなものは「wipe up somebody’s mess」となるのではないか? ここでの「mess」とは、実は何方もご存知の「メッセージ」と繋がっているのだが、元々は、家畜の餌皿のことで、何故、家畜の餌皿が「メッセージ」と「残存排泄物」とエチモロジック(語源学)的に繋がり、更には英語で「WET&MESSY」と言われる、世界のフェティシズムの中でも、SMに次いで嗜好する人口が多いとされる、残飯で体を汚すなどして、、、、、いけない、食直後なので吐き気がして来た。自分で振っておいて申し訳ないが止める(因みに、メッシーファンの人々の中でも、残飯やそのものズバリ食品を使うサイドは「フード系」とされ、絵具や泥など、非食品を使うサイドとは厳格に区分されています)。

と、そんな、和風の典雅さに著しく欠ける米語を更に使うならば、今回のタイトルは「問題はwhoではない。what to use(もしくはby use)だ! 何の話だって? Wipe assの話に決まってるだろうが」となり、食直後なので、午後の授業をしている英語教師(中学童1~2年生対象)のような気分に変わって来た。

はーい、だからね先生は、お弁当食べたばっかりだからね、なるべく吐かないように授業、続けますがー、先生がここ数日、お尻を拭くのにー、主にー、何を、使っているか、あそうだ思い出した、えーとですね、えー授業をー英語からちょっと逸れてー、えー、これから社会科と日本史の話にしまーす(板書を消す)。

ええとですね、1973年、昭和だと48年だ。先生、丁度10歳、ねー。小学校5年でしたがー、(板書しながら)「第一次オイルショック」という出来事があった。これがね、(追加板書しながら)「トイレットペーパー騒動」というのを、(板書を赤に変えて、力強く)「大阪で!!!」引き起こした。うーん。懐かしいね。先生いま懐かしいんだ。わかるかな? わからないだろうね。うん。わからない方がいい。君達に、こんな気分が理解できる大人になってもらいたくない。一教育者としてね。

とまれ、である。あれは

 
1)まだSNS等々の情報網が無く、マスメディアの王はテレビであった時代に

2)全国的に広がった、とはいえ

3)大阪府内の、特定のスーパーマーケットで撮影された

4)ヤラセ映像がデマゴーグの素材となった(カットが割られており、「おかんの大群の突入」を効果的に見せるカメラ位置も練られていた)

5)マスヒステリー的な現象で、社会/経済的な被害はほとんどなかったし、トレペは約4カ月で正常な流通量に戻った。
 

という、昨今の、腹の底からズシンとくる、世相のファッキンシットさと比べれば、牧歌的(英語では主にパストラル。筆者の知る限り、音楽を巡る言説の中では「イディリック」と言われることが多い)と言うに吝かではない珍事である。

それにしても、流言飛語を文字通り飛び交わせ、人々を不安に陥らせることを、性的な喜び、もしくは社会的責務であるとする変態は世に尽きず、1973年当時、筆者の記憶では(第四次中東戦争の影響により)産油国による原油価格の70%アップという原因を、トイレットペーパーが市場から無くなる、という結果に結びつけようとした挙句、「トレペの原料に<ナフサ>という物があり、これは原油の加工品であるので」という図式を、なんかパネルみたい奴を出しながら滔々と説明していた学者がいた。今で言うエビデンス主義である。当時は「公害」が流行語となる暗い時代で、いい加減で適当でウソばっかりの、そして物凄く恐ろしいエビデンスが、文字通り、一切の検閲なくテレビでバンバン流れ、飛び交っていた。

ナフサは確かに原油由来の物質であるが、一体どうやったらトレペの製造に組み込めるのか、幼き筆者は全く分からなかったし、年老いた筆者は更に分からない。「吸わせるテンプル」「固めるテンプル」みたいな感じなのだろうか? 因みに両テンプルの「テンプル」は、「寺院/神殿/こめかみの急所」ではなく、「天ぷら」から来ているのは絶対に間違いない(無調査)。

恐らく、だが、高い確率で「専門用語を出せば、主婦なんかはみんな騙される」と思っていたのだろう。立ち上がれミートゥー! 舐められたぞ!! え?どこを?頭だよ頭!!え?だったらナデナデされる方がいい?お前ら落語の与太郎かよ(笑)!ミートゥーって、そこそこな若い美人がセクハラされるだけの話? 全然違うでしょ? もしくは「単にテレビで<ナフサ>と言いたかっただけ」と言う方が遥かに正しい気がするが、両者は似たようなものだ。

フロイドで言う事故拡大衝動、間違えた。「自己拡大衝動」であろう。ビクビクしている自分の情けなさを消すために、他者を怯えさせて満足を得る、という極めて在り来たりなバカ共とともに、「吸わせるテンプル」が、微笑ましく商品名として流通するイディリックでパストラルな社会に於いて(まあ、当時は家庭用の廃油処理商品など開発されていなかったが)、ムチャクチャ正直に言って、当時から楽しい記憶であった。だが今はあんま楽しくない。厳密に文学的に言うならば、かなり楽しく、そしてかなりファックだ。顔は呵々大笑。しかしながら唾棄は激しく。

筆者がSNSにアンチの立場を標榜するのは、当連載の読者諸氏に於いては周知であろう。そして、アンチとは有害さに対してだけでなく、無能さに対する態度でもある。

何故また、何故またしてもトレペが商品棚から消えるのか。民は掌中に、素晴らしい検索キットと莫大な情報網を持ち、昭和の愚衆のごとき過ちなど犯すはずがなかったのではないか? スマホを持っている全ての民に告ぐ。お前らは愚痴や惚気や告知を垂れ流すだけのバカか? 貴君らが筆者のアンチテーゼを忌々しく思うのであらば、トレペを大量購入して安心している愚者を検索とソーシャルネットワークサーヴィスによって呼びかけ、探し出し、吊るし上げる事なく、集団で懇々と説得し、速やかに止めさせるがいい。そんなことも出来ないソーシャルってどんなソーシャル?どんなソーシャルなネットワークの、どんなサーヴィスなのかね?

それは、こんなソーシャルなのである。政府に対して「誰がこの問題のケツ拭くんだよ」と詰問するどころか、自分のケツは自分で拭けと命じられ、あまつさえ、自分のケツを一体何で拭いたモンか、このまま行くと実直な問題として突き付けられる、そんなソーシャルなのでソーシャル!!

筆者は最初、大量に余っていた「金鳥サッサ」を使っていたが、筆者の粘膜のデリカシーは、金鳥サッサをして、僅か数回の使用で、ナイロン垢擦りか紙ヤスリであるかの如き使用感に悲鳴をあげてしまい、現在はライフリー社の製品である、老人用紙オムツをちぎって使っている。そのうち、ウォシュレットによって洗浄したのち、歴代フジロックフェスティバル出演時に出演者に配布されたタオルを使って拭き取り、それを手洗いするか、一回使ったら廃棄するかするようになるであろう。世界に冠たる清潔国家のデオドラントテクノロジー、その象徴であるウォシュレットと、長い布や紐を使用していた未開社会、そして、ウッドストック以来、観客数に対するトイレ数の少なきが構造的な問題化している、世界でも有数の屋外フェスという3者の、奇跡の、或いは因果に満ち満ちた融合なのである。

完全に禁止されるまで、筆者は街を歩く。「近代日本」というバンドの1stアルバムはA面が明治、B面が大正、先日やっと聴き終えた2nd アルバムがA面昭和、B面が平成。そして現在は3rdアルバムがプレイヤーに乗ったところである。音楽マニア諸氏であれば、3rdアルバムの重要性と危険性を何方もご存知の筈だ。レッド・ツェッペリンだったら「レッド・ツェッペリンIII」、ザ・ビートルズであれば「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!(映画のサントラ)」、クイーンであれば「シアー・ハート・アタック」、宇多田ヒカルであれば「DEEP RIVER」、イエロー・マジック・オーケストラであれば「増殖」、井上陽水が「氷の世界」である。いかに3rdアルバムというアイテムの属性が重要かつ危険なものであるか、類例は1000や2000では済まされない。

その、重要で危険極まりない3rdアルバムA面の街を、筆者は歩く。2ndアルバムの、しかもA面までしか知らない、つまり昭和の三文文士とすれ違う。イディリックな彼は脇がガラガラなので、左翼系の出版社や新聞の連載でこう書いてしまうであろう。「大衆は、まるで喪に服するか、戒厳令下に置かれているようだ」と。そしてこう続けるのだ「上皇のご判断が間違っていたとは思わない。しかし、国民は、喪の作業なく元号が変わることに、集団的な不全感を持っている。そして、戒厳令が布かれるのと、喪に服するのとで、どちらかを選べと言われれば、喪に服する方ではないか」と。そして更に、彼は口を滑らせてしまうのである。「志村けん氏の死は、そうした国民の不全感をまとめて抱き受け、この暗い社会へ、一条の光と安堵を与えた。黒澤が映画の天皇であるならば、氏こそが正に、お笑い界の天皇と言えるであろう」と。そして右翼系のメデイアから殺害宣言などを受け、グダグダになるのである。

都知事も首相も、言外に&明白に「自分のケツは自分で拭け」と言いながら、都知事は一方で、間違いなくこう発言した。「志村けんさんが我々にコロナの恐ろしさを教えてくれた」「最後の素晴らしい仕事だった」。誰かあの厚化粧(©️石原軍団。わざと間違えた!)の口を、筆者がケツを拭いた老人用オムツで塞いでしまえ! いや待て、都政であろうと政治に携わる者をインターネット上で口汚く批判するなど、SNS使用者レヴェルではないか。

拝啓小池先生、このままじっくり待っていれば、ギャーギャーうるさい国民もやがて音を上げ、上げると共に、先生方への支持率も上げざるを得なくなるでしょう。この状態からは、命知らずのアナキストも、正常に機能する左翼や政敵も、おそらく現れない。それは架空のヒーロー、もしくはSNS上に無限に分散する、声なき、根性もなき、実名すらなき憂国の士という烏合の衆です。ですので、煮込みの仕上がりをお待ちであるのは承知の上で、余計な事を申し上げます。

これから、公式の席でコロナウィルス19年型の感染抑止についてお話になられる時、以下のような内容をお話になる局面があるはずです。「都民の皆さん、くしゃみや咳をするときは、手のひらではなく、肘を曲げて口を塞ぐようする<忍者のポーズ>の習慣はついてますか?」

この時、今後は以下のように言い換えをご提案します。一切のイクスキューズは要りません。笑顔も要りません。ただ真顔で、ノーモーションで、可能な限りシリアスなトーンでこう仰ってください。

「都民の皆さん、感染の抑止は、この国難に際しての国民一人一人の義務とも言える重要事です。一人一人が、既に感染者である、という自覚の下、人前でくしゃみや咳をするときは、手のひらではなく、アイーンの形で唾液が飛ぶのを押さえましょう。こうして(やって見せる。顔はやらない)アイーンのポーズで感染を防ぐよう、習慣をつけてください。それが我々日本国民を、ひいては世界を救う道である、という自覚と誇りを、どうかお忘れなく」

これが、不安に慄いて気付かれてもいない、都知事が犯した最低最悪の舌禍をロンダリングする唯一の方法なのです。

筆者は世代的にはザ・ドリフターズ世代であるが、親の因果が子に報い、サブカル的な捻れによって、クラスでただ一人のハナ肇とクレージーキャッツ世代になった。故人の偉大さは、むしろザ・ドリフターズが解散してからの、「凄い喜劇人っていうのはやっぱり女にモテそうだよなあ」と心から感服する、ダンディな独身貴族としての芸風と色男ぶりである。自分のギャグを、年齢を問わぬ一般人、女子アイドル、男女俳優にまで一度はやらせたという意味で、統計を取れば恐らく記録を達成しているであろう、偉大なる故人の死をコロナ如きとニコイチで語っては絶対にならない。クレージー派ジャズメンである私でさえ、アイーンはやった。ガチョーンの時とも、コマネチの時とも違う、あの「アイーン」をする時だけの唯一無二の、あの気持ちで。誰に命されなくとも私は私のケツを自分で拭く。志村けん氏の御逝去に際し、心より哀悼の意を捧げさせて頂きます。

profile

菊地成孔|Naruyoshi Kikuchi
音楽家/文筆家/音楽講師。ジャズメンとして活動/思想の軸足をジャズミュージックに置きながらも、ジャンル横断的な音楽/著述活動を旺盛に展開し、ラジオ/テレビ番組でのナヴィゲーター、選曲家、批評家、ファッションブランドとのコラボレーター、映画/テレビの音楽監督、プロデューサー、パーティーオーガナイザー等々としても評価が高い。「一個人にその全仕事をフォローするのは不可能」と言われるほどの驚異的な多作家でありながら、総ての仕事に一貫する高い実験性と大衆性、独特のエロティシズムと異形のインテリジェンスによって性別、年齢、国籍を越えた高い支持を集めつづけている、現代の東京を代表するディレッタント。