CITY OF AMORPHOUS

<平成最後の>と一度でも口にした者共を、少なくとも文学界は処分すべきである / 菊平成孔の最後の日——連載「次の東京オリンピックが来てしまう前に」25

「2020年」に向けて、大なり小なり動きを見せ始めた東京。その変化の後景にある「都市の記憶」を、音楽家/文筆家の菊地成孔が、極私的な視点で紐解く連載シリーズ第25回!

TEXT BY NARUYOSHI KIKUDAIRA
ILLUSTRATION BY YUTARO OGAWA

菊平成孔の最後の日

ノロマもここに極まれり、自分の名前に「平成」の「成」が入っていることに、更には、「平成孔」とすれば、「たいら なるよし」と読め、これが植木等が演じた伝説の<無責任男>である「平等(たいら ひとし)」へのオマージュになることに、この3月の終わりぐらいに気がついた私は、一体30年間何をしていたのだ。と地団駄を踏んだ。これは悔しさを表す慣用表現ではあるが、実際に新宿の路上を思いっきり何度も踏んだ(お陰で、足の裏が活性化して、いたく気持ちよかった)。

更にである。「菊平成孔(きくだいら なるよし)」とすれば、名前に「平成」が組み込まれることになる。灯台下暗し、フロイド的忘却、単なるノロマ、映画音楽(さらっっと宣伝、『東京喰種 S』この夏公開)が忙しすぎて常にフラフラだった人、の融合体だった私は、覚醒剤を使わずに覚醒し、4月1日から4月30日の間のみ「菊平成孔」と名乗ることにした。これを書いているのは4月30日の午前9時である。今回のみ、比較的長い歴史を持つこの連載で唯一、筆者名が「菊平成孔」となる。

とまれ、驚くべきことに、ラジオのレギュラー番組を失い、スタジオに入りっぱなしで制作に没頭していると、名前は名乗る必要も、書く必要もほぼほぼ失われた。「菊平成孔」は、自らのブロマガで日記を書く際、何度か「菊平成孔の日記」と表記する事だけを名前活動とし、それも今日で終わる。

今は、仮眠を終えたところだ。午前4時に寝た。それまで何をしていたか、堆積疲労によってフラフラになりながら、ラブホテルを探していた。世間は10連休だと言う、海外に行かぬ全ての民に、祭りが訪れている事にも気がつかない、おっとり刀の菊平成孔は、今日が何を意味する何日かも知らず(おとぼけでは無い、本当に)、「あれ? なんかいつもより街が混んでるなあ」とか思いながら新宿のラブホテル街に向かった。

新宿のラブホテル街には東海岸と西海岸がある。菊平成孔はNY派である。新宿通りから明治通りを南下して、右手に日清食品があり、左手が風林会館に向かうコーナーになっている、新田裏という角を2メートル進むと、斜め左一通の道が出てくる。これが新宿ラブホテル街東海岸の入り口である。

そのまま貫通すると区役所通りまで出るこの一方通行の道の周りに、ラスヴェガスのようなラブホテル群が軒を並べるが、ラブホテルグルメの人々は2店舗しか狙わない。「センス」と「グランシャリオ」である。「センス」は改築前は「レイルームス」と言って、浴槽やベッドや空間デザインなど、基本的なスペックのクオリティが、とてもでは無いがラブホテルに見えない、死語だがデザインホテルかリゾートホテルにしか見え無い、という驚異的な超ラブホテルで、特に改築して「センス」になってからは、年間を通じて、どの時間帯もほぼ満席なのだが、常宿(私は、原稿に詰まったり、部屋が汚れすぎて部屋での快眠に支障が出たり、とにかく体がへとへとで、ジャグジーバスに入らないと寝れない時、何か心にブルースが宿ってなかなか寝付けない時、一人でラブホテルに宿泊する。男性であれば許される。男性2人だと許されない→ベリーショートで背が高く、アスリート体型の女性と入ろうとしたら、フロントで止められた。それはともかく、一人で宿泊するラブホテルこそが、人類が滅多に経験できない類の、奇妙で強烈な寂寞感、孤独感を我々に与えてくれる事を、ここに明記しておく)にしている菊平成孔は、電話をして、何号室が空いているか、懇意にしているフロントの女性に聞いてみた。深夜の4時である。平均的に、ラブホテル(に限らないが)には客の波が凪に入る時がある。一つは終電近く、一つは始発近くである。

「本日は午前中から全室満室で、ご宿泊いただいております」これは「休憩の人はいない。今夜は全室のカップル(もしくは一人の男性)が宿泊しているのだ」という意味である。そういう事だな。記念のセックスだ。一日満室は明日の12時までは続くだろう。隣にある系列店「グランシャリオ」のフロントも同様の結果であった。

菊平成孔は、まあ、微笑ましい、とも、嘆かわしい、とも、どうでも良い、とも言えない微妙な気分で、結局ラブホテル宿泊を諦めた。他の、全く眼中にないホテル群も、同様だろうし、そもそも「センス」と「グランシャリオ」以外は使わない。

その時は出先だった。ので自宅に帰るべく、菊平成孔は路上に出た。タクシーを拾うためである。すると、この時間なのに、迎車と回送ばかりで、空車が全く通らないことに気づいた。

正式には、ここ最近、ずっと気づいていた。ある時から、東京の路上で、流しの空車を拾うことは、いきなり10倍ぐらい難しくなった(大げさではない、今まで2分あれば捕まえられた空車が、同じ場所で20分かかるのが珍しくなくなってしまった)。アンチSNSを標榜し、スマホを持たず、未だに(平成の神器である)ガラケー持ちの菊平成孔でも、理由は一目瞭然である。

スマホが、タクシーを呼びつけるアプリを競って開発したせいである。

菊平成孔は、前回の連載で「平成はすぐには終わらない、数年間は名前だけが令和で、全てが平成の残響である時期が続く。そしてそれが終わるときは、国民とスマホの関係が(更に依存か、依存が薄くなるか、ベクトルは別として)変わる時である」としたが、現在スマホは、依存物質としての威力を強化している。そもそも運転手たちは、道端で手を挙げている客、を動体視力で目視できなくなり始めている。

あと1・5日の命である菊平成孔は、心中で激昂した。SNSによって、退行的に、強く倫理的になった新人類たちは、まず国技大相撲を八百長だとして謝罪させる事で、世界に胸を張って誇れる豊かで異形の文化にヒビを入れ、傷物にした。それから狂ったように嫌煙運動を進め、電子タバコという、叱られた子供の言い訳のような玩具を蔓延させ、音楽を考える上で非常に豊かな問題提起になった筈の佐村河内事件を一瞬で切除し、エビデンス主義によって、のびのびと好きなようにものを書く、ひいては発言する能力を自ら退化させ、やよい軒の庶民的美徳であった「おかわり自由」に、どうしても課金しろと迫り、そ他数百に及ぶ、許しがたい、幼稚な蛮行の果てに、とうとう、路上で手を挙げ、空車を止めては、颯爽と乗り込む。という、タクシー移動者のダンディズムであり、日常であり、最も鎮静効果のある時間を奪おうとしている。

菊平成孔は、左脳の、ちょうどクモ膜のあたりに、脳動脈瘤がある。まだ破裂リスクは低いが、年々大きくなっている。脳動脈瘤は、小さくなる事をしない。キープか肥大化しかないのである。担当医は「異常な興奮で、脳圧を上げることは、命を捨てることになります」と言う、それでも菊平成孔は、異常に興奮し続けてきた。ステージで演奏中に、ホテルのバスルームで以下自粛、路上で、突然ある想いに取り憑かれて、ベッドで読書中に、シネコンで鑑賞中に、異常に興奮し続けてきた。「これらのうち、どれかの最中に自分は倒れて、新しい人生が始まるのだ」と覚悟しながら。

菊平成孔は、死を覚悟して激昂した。何が配車アプリだ。くたばれバカヤロー。自分の死の時期も、親の死に目も、みんなスマホが教え、共有してくれるようになるがいいさ。海外旅行をコスパ最大にまで上げて、バハマのナッソーで、水着のままビーチ沿いの露店で揚げたバナナにシナモンを振って喰うのも、事前に全て検索し、どこでどうなるか、どんなものが出てくるか分かった上で喰えばいいさ。お前らまとめて死んじまえ。実際にまとめて死ぬ時が来ても、スマホが教えてくれるだろう。だったら安心だ。もう一度いう、お前らまとめて死ね。

よし決めた。俺はスマホを買う。あらゆる配車アプリを搭載して、それを使うために、つまり、スマホのあらゆる機能を箪笥にしまいこんで、タクシーを呼びつける機械。としてのみ3台買ってやる。これが俺の、令和の始まりだ。予定より、遥かに早いが。

菊平成孔はクールダウンに努めた。こんな、道の真ん中で、異常な興奮と共に、早すぎる令和を迎える必要はない。菊平成孔は、自分の音楽のファンに教えてもらったファンクなネタを頭の中に呼び出した。そのファン氏は「菊地さん大変!<令和>の中に<アフロ>が隠されています!」

<ア>と<フ>が同じ箇所である(かも知れない。「和」の中に、別個に<フ>がある、とも言えるし)、という構造的な欠点を補って余りあるこのネタは、爆笑と救済を菊平成孔に与えた。漢文からではなく、万葉集から採られ、昭和から平成を経て、脚韻を踏んでいる(「和」が揃っている)<令和>は、さすがライミングしているだけあって、我が国の歴史の中で唯一、<アフロ>の三文字を抱え込んだ元号なのだ。

探し物はなんですか? 見つけにくいものですか?(中略)探すのをやめた時、、、、、という奴で、クールダウンした菊平成孔の前に、一台の空車が止まった。乗り込むなり菊平成孔は、思わず、「いやあ、助かった」と言った。ヨーロッパの僻村で、真っ暗な国道沿いで途方にくれた結果ではない。東京の幹線道路沿いで拾ったタクシーにそう言ったのである。

ドライバー氏は「そんなに来ませんでした?」「はい、もう迎車と回送ばっかりで」「ああ、アプリが出来たからね」「やっぱそうでしょ(苦笑)」「でもねお客さん、アプリはね、、、、、アタシが言っちゃいけないんだけど、、、、会社が推奨してるからさ、、、、、でも、あれ、いたずらが多くてね」

菊平成孔は、「なんでそのことに気がつかなかったか」と、我が知性を疑った。「ああ、蕎麦屋の出前とかと一緒ですね。いたずらができる」「そう。いたずらもいるし、呼び出しといて、目の前の空車が来たら乗っちゃうでしょ。我々、ヒヤヒヤなんですよ実は。やっぱね、ちゃんとお店で呼んでくださるか、路上で手を挙げて下さるかしないと、お客さんが幽霊みたいでね。アプリじゃ」

菊平成孔は、100万の軍勢を味方に得た気分になった。ラブホは満室、タクシーを拾うことは、東京オリンピックに向けてさらに難しくなるだろう。それでも良い。全ての道はローマに通じる。私は私の道をゆけば良いのだ。菊平成孔は「運転手さん。俺、気分いいわ。気分良くしてくれてありがとうございます。窓開けていいすか?」「はい、勿論」。

窓を開けると、異常に興奮していた体を冷ますように、風が入ってきた。民は会話中でも、気になる言葉があったら、会話を切断して検索に走る、実験用のゴリラにまで堕ちてしまった。タクシーに乗り込み、シートに座ってから、まずはスマホをを見るという、完全なジャンキーになてしまった。コスパという、突き詰めれば自殺するしかないことが明確な(地球という環境に、人類という生命体の存在が、生命活動を行うこと自体が、狂ったようなコスパの悪さなのである。コスパの悪さは、人類をオリジンに戻し、癒す。そのことを完全に失った時、人類は滅ぶであろう)、単に間違った考えを、社会的な正義であり、誰もが追求するべきだと思い込んでいる。検索は知性も教養も与えてはくれない。不安や潔癖症に一瞬の鎮静を与えるだけだ。このタクシーの窓から流れ込む冷風こそが、心と体に、深い知性を与えてくれるのである。窓からスマホを捨てて、この風を浴びてみろ。

自宅に着いた菊平成孔は、この原稿を書こうとMacBook Airを開き(菊平成孔は、MacBook Airを、ワープロとメーラーとしてのみ使っている)、そのまま寝てしまい、起きたら4時間が経過していた。今からこれを編集部に送信し、風呂に入ってストレッチと筋トレをし、仮眠する。4月30日は渋谷でライブだ。ライブが終われば、もはや日本のウエッサイである渋谷は、リオのカーニヴァル並みに荒れるだろう。民よ荒れるが良い。できることなら、地下で入手した麻薬、あるいは地上で入手した麻薬の薬効でハイになり、最大最強の麻薬である自分のスマホをフリスビーのように思いっきり遠投するがいい。1000人単位で。まだまだお前らは解放されきっていない。菊平成孔は事務所の車に乗って、荒れる渋谷を観察しながら新宿に向かうことにした。若者が投げつけたスマホが車に叩きつけられたら、私は歓喜の悲鳴をあげるであろう。これが菊平成孔の最後の一日である。


profile

菊地成孔|Naruyoshi Kikuchi
音楽家/文筆家/音楽講師。ジャズメンとして活動/思想の軸足をジャズミュージックに置きながらも、ジャンル横断的な音楽/著述活動を旺盛に展開し、ラジオ/テレビ番組でのナヴィゲーター、選曲家、批評家、ファッションブランドとのコラボレーター、映画/テレビの音楽監督、プロデューサー、パーティーオーガナイザー等々としても評価が高い。「一個人にその全仕事をフォローするのは不可能」と言われるほどの驚異的な多作家でありながら、総ての仕事に一貫する高い実験性と大衆性、独特のエロティシズムと異形のインテリジェンスによって性別、年齢、国籍を越えた高い支持を集めつづけている、現代の東京を代表するディレッタント。