STAY NEGATIVE, STAY CREATIVE

「無限のネガティブ」は創作の源である——ヨコオタロウ(ゲームディレクター)

クリエィティブディレクターの本山敬一がゲーム業界を横断しながら、現代における創作のあり方を学ぶ連載「教科書としてのゲーム」。初回は「ドラッグ オン ドラグーン」シリーズや「ニーア」シリーズなどで知られ、世界中にファンをもつゲームディレクターのヨコオタロウをゲストに迎える。ジャンルを飛び越え、漫画原作や演劇の世界にまで到達するヨコオは、「自らを否定することから作品は生まれる」と言う。 1万字超のロングインタビュー。[註:本記事には2017年に発売されたゲーム『NieR:Automata』のネタバレを含みます]

TEXT BY TETSUTARO SAIJO
PHOTO BY VICTOR NOMOTO
edit by Shinya Yashiro

ヨコオタロウ(写真右)|Taro Yoko
1970年、愛知県生まれ。素顔を隠し、マスクをしてメディアに登場することで知られる。2003年に発売された『ドラッグ オン ドラグーン』のディレクションを担当。周到に用意された複数のエンディングが話題となる。10年に発売された『NieR RepliCant/Gestalt』、17年にはその続編となる『NieR:Automata』のディレクターを務める。同作は日本ゲーム大賞2017の年間作品部門で優秀賞、米国で開かれたGame Developers Conference 2018でオーディエンス賞を得るなど、国内外で評価されている。ヨコオが原作・クリエイティブディレクターを務める、スマートフォン向けゲーム『シノアリス』は無料でプレイ可能(写真左=本山敬一)。

直談判から生まれたコラボ

本山 もともとぼくはヨコオさんの作品の大ファンでした。だから、『NieR:Automata(以下、オートマタ)』の開発が発表されたタイミングですぐ、たまたまいた共通の知り合いを通じ、ヨコオさんとの飲み会を設定してもらったんです。それが最初の出会いでした。そこで同作広告クリエイティブを担当させてほしいと言ったら、オートマタのプロデューサーである齊藤陽介さんを紹介してくれたんです。

ヨコオ ぼくはスクウェア・エニックスさんの下請けとして制作をしている身なので、普通は広告には直接タッチしないことが多かったんですよ。ただ今回は齊藤さんが広告の現場に繋いでくださって。

最初の提案のときに「ロックバンドのamazarashiさんとコラボすると、コミュニケーションに広がりがでる」と本山さんにおっしゃって頂きました。そしてボーカル・ギターの秋田ひろむさんも『NieR RepliCant』をお好きだったという縁もあり、秋田さんから彼らのライブに招待をいただきました。それが凄くよくて。そこからインスピレーションを受け、一晩でコラボレーション・ミュージックビデオの提案書を書き上げた、という流れです。

本山 「ニーア」シリーズのファンはamazarashiのファンと近いところにいるのではないかと、前々から思っていたんです。ヨコオさんからは、amazarashiの世界観に、上手くマッチする絵本の企画を提案していただきました。

ロックバンドのamazarashiと『NieR:Automata』のコラボレーションにより生まれた『命にふさわしい』のミュージックビデオ。本山とヨコオがタッグを組み制作することとなった。このビデオは、同作のDLC(ダウンロードコンテンツ)のエンディングにも使用されている。

ヨコオ 実は本山さんには言っていなかったんですが、amazarashiと組むということに対しては、本当は危機感のほうが強かったんですよ。ほっといたら、彼らの強い個性にオートマタの世界観まで食われちゃうと思っていました。それくらいライブが良かったんです。

それに、有名なミュージシャンの音楽を深い意味もなく差し込んでしまうことへの恐怖感もあって。そんな安易なことをしてもゲームをするお客さまには、透けて見えてしまうだけじゃないですか。今回は意味のあるコラボレーションにしたいと強く思ったので、自ら先手を打って積極的な提案をさせてもらったんです。

本山 ぼくはゲームの広告を手がける機会をよく頂くのですが、一般論として宣伝側がゲーム制作現場の手を煩わせてはならないという暗黙のルールが多いんです。今回のようにゲームクリエイターと直接やりとりできる環境でコミュニケーションを組み立てていくというパターンは、あまりありませんでした。

DLC(ダウンロードコンテンツ)のエンディングに『命にふさわしい』のミュージックビデオが流れたり、ポッド(編註:プレイヤーの戦闘を支援する自律型兵器)のスキンをamazarashiのデザインに変えたりという、ゲームの世界に絡んだ有機的なコラボレーションができたのは、プロデューサーの齊藤さんがヨコオさんと直接コミュニケーションをとれる状況をつくってくれたおかげです。

ヨコオ 自分としては、ゲーム制作現場に遠慮した当たり障りのないメディアや宣伝があまり好きではなくて、もっとやれることがあると思ってましたから。ゲーム制作者と宣伝の制作者がお互いに意見を言い合う形でつくりあげられて、とてもよかったです。

『NieR:Automata』とコラボレーションした、ロックバンドamazarashiのシングル『命にふさわしい』。ヨコオがプロットを書き下ろした絵本が特典として封入されている。

見た事のない作品をつくるために

本山 ヨコオさんの作品って「ゲームジャンルが混ざってるな」と思うことが多いんです。『ドラッグ オン ドラグーン』はそもそもアクションとシューティング、最後には音ゲーをも混ぜてきました。オートマタもアクションとシューティングが混ざったゲーム性でしたよね。

作品の本筋から外れたところで、ミニゲーム的に別ジャンルが遊べるゲームは多く見かけますが、ヨコオ作品の場合は本筋のなかで異なるジャンルの要素が次々にスイッチしていきます。視点も俯瞰と横スクロールが、いつの間にかスムーズに切り替わっていたりだとか。意識的な演出かと思いますが、どうしてそんなつくりにしているのですか?

ヨコオ 先が読めてしまうゲームには飽きたんですよ。自分が制作者側の目線をもっているからでもあるのですが、ほとんどのゲームは最初の20分をやるだけで残り20時間の展開も読めてしまう気がして。要素を混ぜることで自分でも想像のできない、自分自身が楽しめるゲームをつくりたいと思ったんです。

欧米のゲーム会社なんかは制作フローが合理的で、ミドルウェアなど基礎的なシステムがしっかりとあって、そこにドラマを乗せていくようなつくりかたをしているため、型や様式がある程度決まっています。そういう誰もが面白く感じられるつくりのゲームは、他のゲームクリエイターがやればよいと思うんです。ぼくは万人受けしなかったとしても、自分自身が見たことのない世界へ行けるゲームをつくる。そのほうが、ぼくにとっては重要なんです。

本山 ぼくがCMなどの映像をつくるときは、コンテやVコンという形で、プロジェクトメンバーが共有できるゴールを決めてから、進行します。ところがオートマタの場合、ヨコオさんから事前に参考資料として頂いたシナリオが、とても断片的な内容で驚きました。最終的に組み上がったアウトプットが全く見えてこなかったんです。

オートマタはプレイし始めてからエンディングへ到るまでに、プレイヤーが何十時間もかかる内容ですが、ヨコオさんの中にある膨大な時間のプレイ体験のイメージは、大勢いるであろうプロジェクトチームの方たちに、どのような方法で共有するんですか? 

ヨコオ ぼく自身ゴールがよくわからないままプロジェクトをスタートさせてますから、当然スタッフ間で最初からイメージを共有できるなんてことは、ありませんよ(笑)。まずシナリオなんてものもゲームにとってはあまり重要じゃないので、あえて始めから固めることもありませんし。

本山 あの凄まじいプロットや伏線の演出も、全く存在しない段階でプロジェクトがスタートしているんですか?

ヨコオ まず最初に決めるのはクライアントから与えられた予算に応じた、作品のボリュームです。具体的には、マップの大きさと総数、それとボス(編註:物語の節目に登場する、倒すべき敵キャラクター)の総数ですね。そこからゲーム全体の工数と制作スケジュールを割り出せるので、そこに見合った物語を逆算して当てはめていく流れになります。

オートマタは続編なので、前作を踏まえた設定やゲーム構成だけは、始めからなんとなくイメージしていましたが、作品のテンションや雰囲気なんてものは、ぼくを含め最初は誰もわかってません。プロジェクトのスタートでは、誰がどれくらいの予算のゲームをつくるかが大事で、内容のディテールはそこまで問われないんですよ。

ゲームを実際につくりはじめてから、ステージごとに都度脳内に浮かんでくる物語の道のりを散策し、その風景をスケッチしていくかのような感覚でシナリオをつくっていきます。

プロのシナリオライターさんが書くと、初めから凄く完成されたいいシナリオができ上がってくるんですが、それをそのまま「いいゲーム」につくりあげるのは、逆に大変なんです。ゲーム体験としての構成や、やりたいことから逆算してシナリオを考える必要があるから、物語がもともと完成されすぎていると、むしろゲームの流れとしての心地よいリズムに当てはめられないこともある。オートマタのシナリオを自分で書いたのには、そういう理由もあるんですよね。

『NieR:Automata』は、スクウェア・エニックスより発売されたPlayStation4/Steam用アクションRPG。宇宙人との戦争で無人となった地球で、アンドロイドたちが機械生命体と闘いながら、この世界の秘密に迫っていく。

「ヒト」として「モノ」として

本山 そういったヨコオさんの制作プロセスは、日本では一般的なものなんでしょうか? 特に海外のゲームや映画の制作現場ではアウトプットに向けたプロトタイプをチーム内で都度細かく共有しながら進めているような印象があります。

ヨコオ 自分以外のゲームクリエイターさんの制作プロセスはよくわからないし、正解のあることでもないと思います。ただ海外のクリエイターからよく指摘されることは、日本の制作現場ではディレクターの権限が凄く強いという点です。

これは、欧米のワークフローに比べると日本の開発体制はとても不完全で、ゲームづくりの流れがきちんとしたフォーマットのなかに定められていないからなんですよ。故にディレクターが強引に決めていかないと、プロジェクトがまとまらない。

本山 スタッフの誰もがゴールの見えない状況でプロジェクトチームをまとめていくのはとても難しいことだと思います。チームのモチベーションを上げるために何かされていることはありますか?

ヨコオ ぼくは他人のモチベーションを上げられたためしがありません(笑)。人をまとめるということに関しては、失敗だらけで才能がありませんから、チームがついて来てくれる理由は正直なところ、わからないですね。以前は各スタッフがやりたいことをやれる環境づくりが大事なんじゃないかと思っていましたが、本質としてやりたいことがない人間もいるので、必ずしもそうじゃないんだなと気づいたわけです。

オートマタのときは多少のトラブルもありましたが、プラチナゲームズ(編註:オートマタで制作を担当した開発会社)のゲームデザイナー・田浦貴久さんが上手く現場をまとめてくれました。そんないい雰囲気をつくれる才能のある人を、チームの中核に入れればいいだけじゃないですかね(笑)。

本山 チームマネジメントで印象に残った失敗談を、当たり障りのない範囲で教えてもらってもいいですか?

ヨコオ 印象に残った失敗なんて当たり障りあるものばかりだから、なかなか言えませんよ(笑)。あえていえば、クビを切らないといけないスタッフが出てきたとき、情もあってなかなか切れずに失敗したことはありましたね。

ゲームはあくまで人間がつくるものだから、ディレクターはチームの雰囲気をよくしたり「ヒト」の扱いが上手くないといけないと思います。ただ一方で、必要とあらば情を捨て人間を「モノ」として見ないといけない側面もあります。一般人である自分には、どちらの才能もありませんから、いつも苦労していますが。

本山 ひょっとしたら、ヨコオさんのチームは未知のものをつくっているからこそ楽しくやれているのかもしれませんね。先の知れた物語をつくることには、ヨコオさん本人だけでなくみんな飽きているのかもしれません。

わからないものをつくるってことが、今の世の中に一番足りてないんじゃないかと常々思います。何にでも結果の予測を求められるこの時代に、スクウェア・エニックスのタイトルという大きな舞台で、ヨコオさんがそれをやられているのはとてもスゴいことです。

本山はヨコオ作品の大のファンで、「『NieR RepliCant』の4周目が、生涯のベストインタラクティブ」だと公言する。連載の意気込みを語ったインタビューでもヨコオの作品に触れている。

あらゆることから「パクる」

本山 ヨコオさんのアイデアはどういったところから生まれるんでしょう。情報収集のアンテナをはる上で、普段から意識していることはありますか?

ヨコオ そもそもぼくには珠玉のゲームをつくろうという意識がなく、パッと楽しめる変なものをつくろうと思っています。自分のゲームにオリジナリティなんてものはなくて、全ては「パクリ」からでき上がったコラージュだと考えているんです。だからゲームや映画のようなコンテンツだけでなく、現実世界で起きたニュースなんかもネタ元です。生活の全てにヒントが隠れていて、あらゆるものからネタをパクっています。

本山 あえて影響を受けたと明確にいえる作品があれば教えてください。

ヨコオ ひとつは大原まり子さんの小説『ハイブリッド・チャイルド』ですね。特に大きな葛藤や熱いドラマが仕込まれているわけではないのに素晴らしく、それまで自分が信じてきたハリウッド映画的な面白さとは異なる「面白さ」をこの作品に発見しました。完璧なものをつくらなくとも、他の何かとは違う作品にできてさえいればいいんだと考えるようになったきっかけは、この作品の影響が大きいです。

次に影響を受けたのはアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』と海外ドラマの『24』です。ぼくはこれらの作品を起点に、アニメとドラマの物語構造にパラダイムシフトが起きたと思っています。『エヴァ』は心理描写や意味不明な衒学的表現を多用すると同時に、ドラマやアクションとしてポップで楽しい表現もたくさん詰め込まれているキメラのような作品で、見るたびに驚きがあります。

『24』では、それまで考えられてきた起承転結あるドラマのフォーマットを無視した「視聴者に刺激を与え続けるだけ」という作風に新しさを感じました。特に驚愕したのは、ファーストシーズンの最後、視聴者を裏切り続けた展開の結果、ドラマとしても面白くない結末に到ったこと(笑)。この2つの作品以降、物語をつくる人たちは全てこれらのコピー、もしくはそれ以前からあった物語のフォーマットで創作しているだけという気がしてしまうんですよね。

あとは何年か前に読んだ秋山瑞人さんの小説『E.G.コンバット』です。90年代のライトノベルで、ものすごく王道的なつくりをした話ではあるんですが、これが死ぬほど面白い。『エヴァ』や『24』には従来の物語の文法を無視した、ある種歪んだ面白さを感じていたんですが、この作品に出会って、これまでのハリウッド的なドラマの語り方でもまだまだ面白さを追求する余地があるんだなと思えました。だからといって『エヴァ』や『24』の面白さが自分のなかで否定されたわけではなく、どちらの方面からもアプローチの仕方があるんだなと痛感したということです。

本山 影響を受けたゲームはありますか?

ヨコオ ゲームクリエイターの上田文人さんがつくった『ICO』という作品が大好きです。『ICO』の清冽で美しい世界観を観て、これは初めてマスに対してつくられた「作品」としてのゲームだなと感じました。それを成し遂げたことも、ゲームとしてのまとまりかたも、全てが素晴らしい。上田さんのつくる作品は、100年後でも語られると思っています。

あとは『斑鳩』というシューティングゲームですね。これ以上のシューティングは存在し得ないとさえ感じました。音と映像が素晴らしくて、音に合わせて画面が展開するという演出には、自分の「ニーア」シリーズも大きく影響されています。

本山 最近の現実で起きたニュースや社会的事象ではどうでしょう?

ヨコオ 世の中で起きていることは、だいたい人間が起こしてるじゃないですか。お気付きのように、ぼくは人間が好きじゃ無いし、信じてもないんですけど、面白いなとは思うんですよ。だからニュースでやってる時事ネタとかネットの情報とか、片っ端から見て影響を受けてしまいます。

ネットを見てると、すぐ人と人の間に線引きするじゃないですか。男と女とか、日本と韓国とか、老人と若者とか。でも、誰かにラベルをつける行為は、ズレてると思うんですよ。根本的に人はそれぞれ違うものだし、いろんな人が存在して当然ですから。でも人というものの本質には、そういうラベルづけや線引きをしないとやっていけない間違った感覚というか、寂しい側面もあるんだと思うんです。

もしかしたら、自分の仲間がいるという安心が欲しいのかもしれません。よくオタク向けのコンテンツは、「安心感」がキーワードだと言われますよね。例えば金髪ツインテールはツンデレ、青い髪のショートカットはクール系、ピンクのロン毛は巨乳じゃないとダメとか……。そういうお決まりの登場人物ばかり出てくる物語に、癒しを感じる人が増えてきているように思います。誰もが誰かに愛されたいのでしょう。

ただ人の歴史を見ると、全員が全員と愛し合うことは、これまで一切できてこなかった。他の誰かより自分が上回りたいとか、自分と違うラベルの人は滅ぼしたいという「ヨクボウ」の歴史をずっと繰り返してきてる。きっと現代もいつか同じ結末に辿り着くのだろうと思います。ただ、ぼくはせめてゲームのなかでは人それぞれが自分の未来を選択できる権利を持てるようにしたいと思っています。たとえそれが世界の破滅であろうとも、自分自身で未来を選択できるようにしたいんです。

小説『E.G.コンバット』(写真左)と、小説『ハイブリッド・チャイルド』(写真右)。ヨコオが考える「面白さ」に影響を与えてきた作品だ。PHOTO BY TARO YOKO

機械は人間を離れる

本山 ヨコオさんは、どんな学生時代を過ごして来たんですか?

ヨコオ 中高生時代はオタクだったので、スクールカーストが低かったですね。彼女もずっといませんでした(笑)。大学時代は絵本のような紙媒体から、導入されたばかりのCGまで、広く浅くデザインの勉強をしてました。パソコンなんかもまだマウスが付いていないようなものがほとんど。そんな時代に学生をしていました。

当時から、自分は芸術家のようにやりたいことが己の内面から湧き出るタイプではない事に気がついていました。その時代に自分の手元にあるテクノロジーを使ったら何ができるかという発想で、自分のやりたいことを考えるタイプなんです。自分の理想とする作品イメージが最初からあって、それをかたちにするという「ヨクボウ」はなくて、その時代にあるガジェットを使って作品を考えていくプロセスのほうが楽しく感じてきたんですよ。

例えばファミコンの時代は、カートリッジをズラすとゲーム上の文字がバケるとか、バグを起こして変なマップにいけたりだとか、そういうことがありましたよね。人が意図して設計したルールから離れた、ゲームという機械が起こす不気味な現象のほうがぼくには魅力的に見えたんです。だから、映画など他のメディアにはないコンピューターゲームならではの風景を見いだせる可能性が、そこにこそあるように感じ、今までずっとゲーム制作に関わってきた気がします。

本山 ヨコオさんの作品には、シナリオの進行上セーブデータを消さないといけないような普通のゲームでは考えられない場面が出て来ます。それもそういったテクノロジーの裏をかく独自の視点から思いついたことなのでしょうか。

ヨコオ あれは、ゲームのオプション画面で人の心を動かすにはどうすればいいかを考えたんですよ。思い返してみれば小学生のころ、寝ても覚めてもやっていたドラクエのデータが消えてしまったときに凄くショックを受けたので、これは人の心を動かす演出としても使えるなと思いついただけです(笑)。

本山 逆に、最近気になっているテクノロジーの話題があれば教えてください。

ヨコオ 最近、人工知能(AI)の進歩が話題になってますよね。ぼくは、自分や本山さんを含め、全てのクリエイターの仕事をAIが奪うと思っています。なぜならAIはインプットとアウトプットを解析する能力が人より優れていて、「答え」の存在する現象は全て、AIで最適解を導き出せるからです。

ぼくはクリエイティブにおける「答え」は、プレイヤーのリアクションのことだと思っています。例えばそれは、AmazonやGoogle Playのレビューに書き込まれるコメントなどのプレイヤーの評価です。現在のレビュー機能はまだつたないもので、明らかに嫌がらせとわかるコメントなどイレギュラーな内容も残ってしまいますが、いずれみんなの考えをより高い精度でナチュラルに反映できる仕組みができ上がってくると思います。

そうなったら、レビュー内容を解析しながらA/Bテストを繰り返して、より高い評価を受けられるクリエイティブを導き出すAIが出てきますよ。ぼくらが美しいと思うものにだって、醜いと思うものにだって、感動するものにだって、見たく無いものにだって、AIは直ぐに辿り着けるはずです。

こういう事を言うと「意外性のあるモノはAIにはつくれない」という人が出てきますが、意外性のあるモノが人間によって「評価」されるのであれば、それを観測しAIは「意外性のあるモノ」をつくってしまうでしょう。デジタルな創作と評価の螺旋の中にいるぼくらは、AIにとっては簡単過ぎる戦場にいるのです。

ゲームのようなデジタルなクリエイティブのみならず、AIは近いうちにアナログなクリエイティブも乗っ取ることができると思います。いまのAIはリアル世界との接点になるセンサーを持っていないだけです。例えば布の質感がわかるセンサーから情報をインプットできるAIが現れたら、洋服のようにアナログなクリエイティブについても人々から高評価を得る最適なデザインを導き出せるでしょう。

ヨコオのマスクは「ニーア」シリーズに登場する、エミール(実験兵器7号)というキャラクターを模したもの。スタッフによる手作りだという。

ネガティブであるという才能

本山 ヨコオさんにとってゲームは、テクノロジーとの関係という意味でも、特別なメディアなのではないかと思いました。

ヨコオ 小説や映画はメディアとして進化の余地はもはやないので、20年前でも30年前の作品でも、いまでもいいなと思える名作が存在するのだと思います。でもゲームというメディアは、その時代にあるテクノロジーやガジェットの空気感を巻き込みながら進化していくものなので、その時代に体験するからこそ意味があるのでしょう。

ゲームコンテンツは時代のコンテクストのなかで消費される儚いものなんですよ。その永遠には残らないという儚さが、ゲームというメディア、そしてコンテンツのよさでもあるんです。特にぼくのつくるゲームは、パッと見てパッと消費するバラエティ番組のようなものだという自己認識をもっています。

本山 いや、そんなことはないと思いますけど(笑)。ヨコオさんのことを現代のシェイクスピアと評する人もいますし、わたし自身は現代の夢野久作だとも思ってます。ヨコオさんの作品のうねり方、ゲームの歴史をなめるような複数の手法の混ぜかたは『ドグラ・マグラ』にも似てます。

ヨコオ ありがたいですけど、でもそんな立派なものじゃないんですよ(笑)。ぼくは自分のつくるゲームは時代が変われば受け入れられないだろうという自覚があるんです。でも実は最近、自分のもつ唯一の才能に気がつきました。

まず、自分が考える「才能ある方」、例えば宮崎駿監督や、ユニクロやAmazonの社長さんのような成功者のインタビューを見ると、共通して「もっといいものをつくりたい」とか「去年の売り上げを超えたい」とか、永遠に満足することのできない無限の「ヨクボウ」をもっていらっしゃいます。

拡大を続けることが自己目的と化すほど、そこにはまるで本人の意思すら介在していないかのようにさえ見えます。彼らは自らを突き動かす、無限に発生するエネルギー源をもっているのです。それこそが世界を動かす人たちがもつ共通した才能で、ずっと自分にそれはないと思っていたんです。

ところが、今年になってから自分には似たような「無限の力」があることに気がつきました。実は年明けあたりで、Twitterのフォロワーが10万人を超えたんですね。その時、ぼくが思っていたことは「自分は太ってるしハゲてるし、つくる話も面白くないし、『ICO』や『斑鳩』のような素晴らしいゲームもつくれないし、ほんとゴミ人間だな」ということでした。

でも、冷静に考えると、フォロワーが10万人ですよ。しかもゲームのディレクターもやらせてもらっていて、このようにインタビューをして頂けることもあったり、ファンの方からもお褒めの言葉を頂けている状況なのに……。

客観的に見れば、これほど恵まれた状況でも自分のことを無限にゴミ人間だと思えるのは、それはそれで才能じゃないかと気づいたんです。自分には「無限にネガティブになれる才能がある」……。まあつまりは、人として壊れてるってことかもしれませんが(笑)。ただ、この能力こそが、自分がゲームをつくるときのエネルギー源だなと思います。

ぼくは自分のつくった物語を読んでも面白いと感じられないのですが、だからこそ壊して直すという作業を永遠に繰り返すことができているんだと思います。ネガティブであるがゆえに「昨日の自分を否定し、修正を続ける」ということができている、という訳です。

ヨコオは自ら脚本を執筆し「ニーア」シリーズの世界を、演劇にまで拡張している。ゲームと繋がった同じ物語を舞台にしたときに、ゲームという枠を超えた演出がどういう体験をもたらすのかを試したかったという。

回収できなかったフラグ

本山 なるほど。わたしもかなりネガティブです。「何もいいことないね」とMTGの最初には必ず言うようにしています。客観的にみて幸福な状態の人が、いつまでも自分を不幸だと思うのはなぜだろう。考えつづけた結果、幸福は「ハピネスフラグ回収率」に正比例するという結論に達しました。

好きな子の浴衣を夏祭りで見てドキッとするとか、彼女と田舎のあぜ道を自転車を二人乗りするとか、部活に熱中してチームで共通の目的を達成するとか、そういった「通過するべき幸せの瞬間」が人生にはある。もしかしたら、それは何らかの物語や時代やメディアに植えつけられたイメージなのかもしれないですが、それが「ハピネスフラグ」です。

そのフラグを人生でたくさん回収できた人は、いつまでも「幸福感」を味わうことができる。ただ、特に学生時代におけるフラグは、回収しきれていないと、リプレイ不可能なので、トータルの回収率が低いままになり、大人になってもずっと幸福度が低いままになってしまう。ヨコオさんは社会人になってからのフラグは、クリエイターとしてたくさん回収されているはずですが、学生時代のフラグ回収率が低すぎて、常に不幸を感じるのではないでしょうか。既にバッドルートに入ってるんですよ。

ヨコオ 凄くわかる……。中学生くらいのころ、自分の理想の死に方を考えたことがありました。そのときは結局、自分は底辺の人間だから、リア充な他人を巻き込みながら世界から消えてしまうことが一番意味のある死に方だと思ったんです。不謹慎で申しわけないのですが、いまでも成人男性が死んだ話をニュースで見ると、ほんの少し解放感を感じる自分がいます。女性や子供が死んだと聞くととても悲しい気持ちになるのに……。自分でも、自分に驚いてしまいます。

学生のときにモテなかった経験が、そんなところにまで悪影響を与えてしまっているのです。もちろん、全ての命が等しく大切だから、そんな感情を抱いてしまう自分が間違っていることはわかっています。だからでしょうね、自分の感覚が正しいと信じられたことがないのは。

でも、もし小中高で本山さんのいう「ハピネスフラグ」を回収できていたなら、きっとゲームの仕事をしていなかったと思います。異常ともいえる歪みこそが、いまのぼくと、ぼくのゲームをつくっているんです。

本インタビューは新宿の喫茶店で収録された。ヨコオがつくる作品の世界は繋がっており、『ドラッグ オン ドラグーン』のとあるエンディングでは現代の新宿が登場するが、「ニーア」シリーズの舞台も、そのはるか未来なのだという。

今回の取材を終えて、本山はティム・バートンが監督した映画『エド・ウッド』を思い出したという。「米国史上、最低の映画監督」と評された映画監督が主人公となる同作では、何に対してもポジティブに全てを肯定した結果、最低の映画が生まれる過程がまざまざと描かれる。

そんなクリエイター像の対極に、ヨコオタロウはいる。自信や確信を安易に抱かずに最後の最後まで疑い、チャレンジを重ね足掻きつづけた果てにしか生まれない作品たち。そして、そうやってつくられた作品を必要としている人間は世の中に大勢いる。ネガティブから生まれる至高のクリエィティブを、ヨコオタロウと彼の作品は教えてくれる。

profile

本山敬一|Keiichi Motoyama
1977年、倉敷生まれ。クリエイティブディレクター。2013年SIX設立。”A Fusion of Technology with Humanity”をテーマに、メディアを問わず、人の心に残る体験をつくる。 主な仕事に、Beams 40周年『TOKYO CULTURE STORY 今夜はブギー・バック』、Pokémon GOのグローバルPV、Google Chrome 『初音ミク』、amazarashiのミュージックビデオやライブ演出など。カンヌをはじめとした国内外のアワードで受賞多数。PHOTO BY YURI MANABE