絵は四角く切り取られるものではないのかもしれない。形のことばかりではない。絵を裏で支える枠木が見えてしまったり、カンヴァスを張る役割をなしていなかったり。2つの絵が実は一対のもので、離れてあるからこそ、特別の意味を持てたり。こうしなければ表現することができなかった世界があるのだ。小林正人が語ってくれる。
TEXT BY YOSHIO SUZUKI
PHOTO BY SHIGEO MUTO
COURTESY OF SHUGOARTS
エミール・ベルナールがポール・セザンヌにこう指摘した。
「古典派の画家たちのタブローでは、輪郭でオブジェをくまどりし、光を構成し、配分する必要があったのだ」
ポール・セザンヌはそれに対し、こう応じた。
「彼らはタブローを作ろうとしていた。私は自然の断片を作ろうとしている」
その応酬について、哲学者、モーリス・メルロ=ポンティはこんなことを書いている。
「セザンヌは、自然をモデルとする印象派の美学から離れずに、オブジェそのものに立ち戻ろうとしたというべきだろう」(『意味と無意味』より)
小林正人の絵は行儀よく長方形の中に収まっていたりはしない。枠木は形を変え、外れそうだったり、外に飛び出していたり、折れ曲がっていたり、ひしゃげたりしている。このような形で絵が完成していることに驚いてしまうかもしれない。
「ある絵の存在の仕方として、自分が理想とするところがあるというだけの話です。既成のものを壊そうとしているとかではなく、こういうふうでないと、自分の感覚の実現ができない、完成することができないということ。動いている世界で、動いている人間がいてこその絵。この世界に完結しているものはない。そういう世界の中でどうやって絵を完成させるか、その完成の仕方なわけです」
たとえばこの馬。あたりまえにフレームに張られたカンヴァスに描かれていたら、馬はそこでは生きられないのだと小林は考える。そんなところでは馬は窮屈でしかないからだ。枠組みのほうがカンヴァスよりも大きいから、カンヴァスが埋まっている、あるいは奥にあるように見えるけれども、そうだからこそ、カンヴァスから馬がこちらに飛び出してくるのだ。
絵ではあるけれど、それが絵であることよりも、絵の中の馬がどうしようとしているか、それを思わせることのほうが優先しているというような絵。タブローを作ろうとしていない。それよりも大事なことがあると言わんばかりの創作。
「絵というのは画家の頭の中にあるものが正体で、だから画家本人にしか見えてないのだけれども、それがいろいろな形になって現れてくるのが作品なんです。だから、わからないことがたくさんあるのはあたりまえで、結局みんな好きなように見るのだと思います。作品を前にした人がそこからなにかをイメージする力とか、質感が立ってくるということを私は信用しています。気持ちが高揚したとき、それはたとえば恋をしている時は世界が輝いて新しく見えているでしょう。魔法みたいに。そういう状態を絵と交わすことができる。そう信じているのです」
さらに、小林の絵画作品はときに一対をなすものである。そしてそれは離れた場所に展示される。どれとどれが対になるのかは小林が決定する。その一対というのは、たとえば靴のペアなどとは違う。ペアだからといってそれらは似ているもの同士でもないし、どれだけ離れていてもいい。違う国にあってもいい。同時には見えない、お互いが見えないということが重要である。しかし、その一対は相手を想いつづける。
この作品のペアがこれである。
この絵はギャラリーのあるビルとは別の、歩いて数分のビルの中にある現代芸術振興財団に展示されている。
2つの作品をペアと決め、わざわざ離して展示することの意味はなんなのだろうか。小林はこう説明してくれた。
「テーマは愛なんだと思う。そこには必ず距離がある。間に目に見えないものがある。それはきっと愛と呼んでいるようなもの。(それを意識すること、もっと言えば眼に見える様にすることが)自分の感覚でいう絵の完成のしかたというか、そういうことと関係があるということです」
絵は描くだけのものではなく、完成させるものだと考える。小林はこの世界の中で、絵を完成させるためにしなければならないことはどういうことか。人と人の間にある愛というものを絵で表すということはどういうことなのか。今まで誰もやっていない、彼だけのやりかたで、回答を見せてくれている。
鈴木芳雄|Yoshio Suzuki
編集者/美術ジャーナリスト。明治学院大学非常勤講師。雑誌「ブルータス」元・副編集長(フクヘン)。共編著に『村上隆のスーパーフラット・コレクション』『光琳ART 光琳と現代美術』『チームラボって、何者?』など。雑誌「ブルータス」「婦人画報」「ハーパーズバザー」などに寄稿。
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