一木造り、彩色された人物像。モデルはどこにでもいそうな普通の人々。難解なところはどこにもないけれど、どうしても気になって仕方がない作品。アーティストが感動を与えてくれるのか? いや、感動や共感の気持ちはもともと誰の中にもあって、アーティストがそれを引き出してくれるのか? そんなことまで考えさせられた。
TEXT BY Yoshio Suzuki
Photo by Kenji Takahashi
Courtesy of Tomio Koyama Gallery
シュテファン・バルケンホールが帰ってきた。主に木彫(ときにブロンズ鋳造作品もあるが)や木のレリーフの人物像をつくるアーティスト。モティーフは特に聖人とか、歴史上の人物とか、有名人ではない。普通の(地味な?)格好をしたどこにでもいそうな人々。男性だったら、白いシャツに黒いパンツ、あるいは黒スーツ。
世界各地で展覧会をやっているし、ロンドンでパブリックアートを見て、へー、こんな街なかにシュテファンの彫刻、いいなぁと思ったりしたこともある。
日本では2005年に、まだ無名と言ってよかったと思うが、大阪の国立国際美術館と東京オペラシティ アートギャラリーで展覧会があった。美術専門誌だけでなく、『AERA』など一般週刊誌も取り上げるなど反響があったのを記憶している。
国内の美術館の展覧会に加えて、ギャラリーでは小山登美夫ギャラリーが2007年に東京で、2011年に京都で展覧会を開催した。
彫刻家シュテファン・バルケンホール。1957年ドイツ、ヘッセン州生まれ。ナム・ジュン・パイク、シグマー・ポルケらも教鞭をとっていたハンブルグ造形大学でウルリッヒ・リュックリームに師事した。リュックリームといえば、石によるミニマルな彫刻作品が思い浮かぶので、その弟子が木彫、具象なのは一瞬意外な気もするがそういうものだろう。
今回ひさしぶりに作品を見る機会を得て、懐かしい友人に会ったような気がした。しかし考えてみると、その感じは実は初めて見たときからあったような気がする。初めて見た現代美術作品を前にして、懐かしいような気持ち。不思議といえば、不思議な作品である。一木造り、荒削りの木彫に彩色。
これは仏像とはどう違うのか
あらためて、2005年の国立国際美術館/東京オペラシティ アートギャラリーの展覧会カタログを出してきて読む。そういえば、作品には不思議な馴染みがあるのに、カタログを初めて読んだとき、ある違和感があったのを思い出す。それは寄稿者(日本人2名、外国人2名)の誰ひとり、木彫の仏像について触れていないのだ。
海外でならともかく、日本国内で展覧会をやるにあたって、マテリアルと手法からして、日本の伝統ともいえる木彫仏に言及してもいいと思うのだが。まさか、それに触れることが作家自身が大きく嫌う事柄だというわけでもあるまい。
仏像は中国、朝鮮半島から仏教とともに渡ってきたわけだが、それらは主に石や金属によるものだった。それが日本に来て、木彫仏が突出して発達する。それは日本が森林資源が豊かな国であり、その加工技術にもともと秀でた民族性があったからというのももちろん一つの理由だろう。
しかし、それ以上に大きな理由がある。仏教渡来以前、日本の宗教は自然を崇めることが中心だった。たとえば、太陽を拝む。山を滝を仰ぐ。そして、大木を信仰の対象にしてきた。木には神がやどる。そのような国では、木で作られた像を拝むことが受けいれやすかったのだ。
仏像はいつでもほほえみの表情で人々を迎え入れる。あるいは、ときに憤怒の表情で人々を戒める。どちらにしても、いつもそこにそのままにある安心感を与えてくれる。
シュテファン・バルケンホールと同世代の美術史家ディートマル・エルガーはこんなことを書いている。
「木から彫り出されるバルケンホールの男や女は、いかなる表出力の強い身振りも、気持ちの高ぶったポーズも放棄し、むしろ平静を保って考え込んでいるように見える。それは現代的で、バルケンホールと同時代の地味なまったく普通の人であり、何もかも分かったかのように簡にして要を得た姿で台座の上に静かに立っている」
これはそのまま仏像の描写に置き換えることができるではないか。さらにこんなインタビューがある。
「楽しい、あるいは悲しいなどの表情を持たず、比較的相違がありません。これは『ある表情の探求』であって、それらすべての雰囲気を発生させることができなければいけないんです。これは私がある特定の表現主義的な表情を像に定着させるよりも、より心を揺り動かすものになるんですよ。次の瞬間に、像が悲しい表情になったり、楽しい表情になったり」(シュテファン・バルケンホール インタビュー『マテリアルとの対話』ききて:安藤由佳子、美術手帖2005年11月号)
この顔は能面とはどう違うのか
本人は意識しているかいないかは措いて、このインタビューでの受け答えはそのまま、能の面(おもて)について語っているのと同じではないだろうか。能面(のうおもて)は見せる角度や動きによって表情がさまざまにかわる。一つの面の使い方で喜びも哀しみも表すようにできている。
シュテファン・バルケンホールが表現するエレメントは実は見る側のわれわれにあらかじめ仕込まれていたものではなかったのか。われわれにはそれによって、安心したい、共感したい、感動したいという感情のもとのようなものがもともとあって、それがアーティストの作品によって、素直に引き出されてくるだけなのではないかと思えてくるのである。そこでこんな話につながるのだがどうだろう。
それぞれの話が「こんな夢を見た」で始まる夏目漱石『夢十夜』の第六夜はこんなストーリーである。
「なぜか現代(といっても漱石の時代なので明治の世)に仏師運慶(実際は平安末期から鎌倉時代に活躍)がいて、仁王像を彫っている。ある若い男が『あれは仁王を彫っているのではない。木の中には仁王が埋まっていて、それを掘りだしているのだ』と言うのを聞いて、自分も早速、仁王を探して木を次々に彫り起こしたが見つからなかった。そうか、それで現代(明治)にも運慶がいるのか」
鈴木芳雄|Yoshio Suzuki
編集者/美術ジャーナリスト。明治学院大学非常勤講師。雑誌ブルータス元・副編集長(フクヘン)。共編著に『村上隆のスーパーフラット・コレクション』『光琳ART 光琳と現代美術』『チームラボって、何者?』など。雑誌「ブルータス」「婦人画報」「ハーパーズバザー」などに寄稿。
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