確かな画力があって、親しみやすいモティーフや表現を用いること。絵を見る人の楽しみや期待を知っていること。それがあるから、画家の主張がきちんとこちらに届く。マンガのような絵という人もいるかもしれないし、それはそれでいいけれど、エミリー・メイ・スミスの絵は世の中をかなり鋭く斬りにくる絵なのかもしれない。
TEXT BY Yoshio Suzuki
Photo Courtesy: the artist and Perrotin
Photographer: Charles Benton
これはドミニク・アングルの《グランド・オダリスク》だと思った。筆者の個人的な話をすれば、初めて見たのは中学校の美術の教科書で、もちろん名画ではあるけれど中学生には刺激的過ぎる絵ではあった。背面とはいえ、全裸の女性(しかもわれわれからすれば外国人)が描かれていて、扇のようなものを持っているだけ。
その中学生は10年も経たないで(中学生にとっての10年後というのも途方もない時間なわけだが)大学生になって初めての海外旅行でルーヴル美術館に行って、実物を見ることになったのだが、美術史の知識も乏しく、ただ、古い知人に再会した程度の感慨だった。
今だったら、この絵を見て、たとえば、すごいオリエント趣味の部屋だ。シルク、繻子、毛皮。オダリスクとはオダリック、イスラム王室の後宮で使える家内奴隷。転じて、女官、小間使い。ヨーロッパではハーレムで仕える女たちの総称として使われていた。アングルが描いたのは、ヨーロッパ人が見たことのない空想の異国の女性、オダリスクである……とそんな説明をすることができる。
さて、背中の艶めかしさに誰もがヤラレてしまうところだが、たとえば足の裏を見てほしい。これは大人の足裏ではない。まるで赤ん坊のようだ。わかるのは、これはほとんど歩いてない人間の足の裏ということ。ハーレムでの生活というのはそういうものなのだろうと想像させる。くだんのすべすべの背中にしても、しばしば起こされる、背骨の数が実際とは違うのではないかというような議論はさておき、ともかく筋肉のない柔らかな肌しか感じられない。
なぜアングルがそんな絵を描きたかったかといえば、現実には存在しない理想の美の世界を絵の中だけで展開したかったからだろう。泰西名画を見た極東の中学生が教科書で、背中を向けた色っぽい外国人の女性がいるなぁと思っていたのは、ヨーロッパの人が抱くエキゾティシズムと、理想美の追求だったのである。何重にも知識の必要な、もったいない世界だった。
ここに描かれた箒(ほうき)は何を連想させるか。普通に考えても(女性による)家事労働である。それが主婦にしても、家政婦にしても、箒は彼女らに委ねられてきた仕事の象徴としてある。おそらく何千年もの間。魔女たちがまたがって自由に宙を飛ぶというのもそこからの発想の飛躍だろう。
もう一つ、キャラクター化された箒を見て、ディズニー映画の『ファンタジア』を連想した人もいるだろう。1940年に作られたこの映画(日本では1955年に公開)は世界初のステレオ音声作品である。ミッキーマウスが登場するものの、基本的にセリフなどはなく、クラシック音楽をコンサートの臨場感に近づけて聴く映画だったともいえる。そのファンタジアではミッキーマウスが箒に命を与え、ここでも労働をさせている。その労働というのは掃除ではなく、なぜか水汲みなのだが。その虐げられる箒が主人に逆らうという、思いもかけない展開にもなる。
ともかく、エミリー・メイ・スミスは箒を労働の象徴として、もう一方、一般的な意味では労働をしないハーレムの女性を重ね合わせて絵画にしたということになる。
この絵を前にしてさらに、労働とはなにかということも考えることができるし、絵画の世界で女性たちはどう描かれてきたかなどに想いを巡らせ、ジェンダー論やセクシュアリティをめぐる議論のネタなども提供してくれるかもしれない。
さらに今回発表されている作品を見ていこう。
ガーターベルトとストッキングのディテール。Heretic Laceというタイトルの意味は「異端者のレース」? 女性の腿のクロースアップと見てもいいが、この絵自体がストッキングとガーターを身に着けているとも見える。
今どきガーターストッキングといえば、男性のプレジャーの対象としてあるともいえるが(それは古今のメンズマガジンを見ればわかる)、ここではストッキングは網とかではなく、その図柄は穀物を齧るネズミだったりする。どんな意味が込められているのだろう。麦の穂は豊穣? ネズミは多産という意味?
顔、それも唇と舌。黄色いクリームを舐めているけれど、これはいったい何? もしかしたら、自分の脳みそが滴り落ちて来て、それを自分で舐めているの? というようなブラックな、もしかしたら自虐的な意味? などといったことも連想をさせてしまう絵。
美術史における男女の不均衡にものを言いたいところもあるようだし、ジェンダーや労働、セクシャリティの問題、ときに軽い自虐ネタをさらりと、しかも確かな画力を用いて描かれるエミリー・メイ・スミスの作品。その強いメッセージ力、説得力に、ただただ圧倒されるのである。
鈴木芳雄|Yoshio Suzuki
編集者/美術ジャーナリスト。明治学院大学非常勤講師。雑誌ブルータス元・副編集長(フクヘン)。共編著に『村上隆のスーパーフラット・コレクション』『光琳ART 光琳と現代美術』『チームラボって、何者?』など。雑誌「ブルータス」「婦人画報」「ハーパーズバザー」などに寄稿。
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