大企業の事業改革や新規事業創出をミッションとして虎ノ門ヒルズにて始動したインキュベーションセンター「ARCH(アーチ)」。企画運営は虎ノ門ヒルズエリアにおいてグローバルビジネスセンターの形成を目指す森ビルが行い、米国シリコンバレーを本拠地とするWiLがベンチャーキャピタルの知見をもって参画している。WiLの小松原威氏が、日揮の山木多恵子氏を迎え、同社の取り組みに迫った。
TEXT BY Kazuko Takahashi
PHOTO BY Koutarou Washizaki
医薬・ライフサイエンスの技術を培養肉に応用
小松原 日揮グループは総合エンジニアリング企業としてエネルギーの分野をはじめ様々な事業を手がけ、ARCHに「未来戦略室」の拠点を構えています。まずは未来戦略室の取り組みについて教えていただけますか?
山木 未来戦略室は日揮グループの中で国内事業を担っている日揮株式会社の1部門で、日揮の経営戦略の立案や新事業の探索などを行っています。新事業の探索は様々なプロジェクトが同時進行しており、私はその1つである培養肉のプロジェクトを担当しています。
小松原 培養肉とは?
山木 培養肉は動物の細胞を体外で培養して生産される食肉です。当社が培養肉に取り組む背景には、環境負荷の軽減という課題意識があります。世界の人口は新興国を中心に増加し、経済発展や生活習慣の変化に伴い、食肉の需要も急増すると予想されています。その一方で、従来の食肉習慣が環境負荷につながっている現状があります。メタンガスを含む家畜のげっぷやふん尿は地球温暖化の促進要因とされ、畜産には広大な土地や、飼料にする大量の穀物、大量の水も必要です。そうした理由から、大豆ミートなど植物由来の代替肉が注目されているわけですが、培養肉は動物性の栄養素を補えるなどの利点を有し、新たな代替肉の生産方法として期待されています。
小松原 日揮が培養肉の開発に取り組むと聞いて意外に感じる方は多いと思います。「世界有数のプラント事業社」というイメージが強いですから。
山木 プラントというと石油やガスのプラントを思い浮かべる方が多いのですが、日揮は医薬品の製造技術や細胞培養技術など、医薬・ライフサイエンスにおける様々な技術を有し、医薬品の製造プラントの実績も多数あります。ですから培養肉は既存事業とかけ離れてはおらず、むしろ技術的に非常に親和性が高いんです。
小松原 考えてみると、石油やガスといった天然資源は無尽蔵に採掘できません。プラント事業にとって細胞培養の分野は、新たな成長ビジネスにつながる可能性がありますね。
山木 おっしゃる通りです。受注の波に左右されずに利益を生むビジネスになる可能性があります。技術的に発展途上の分野なので、今から開発に邁進し、将来的に培養肉の分野でトップランナーになることを目標にしています。
発展途上の段階で新会社を設立
小松原 培養肉のプロジェクトに山木さんが参加することになったのは、どのような経緯で?
山木 私はもともとエンジニアとして石油やガスの生成プラントの設計に10年ほど携わっていたのですが、大きな仕事が一段落したタイミングで、「培養肉のプロジェクトが動き出す」と聞いて、面白そうだなと思って手を挙げました。
小松原 日揮のような大企業で、よく希望が通りましたね。
山木 当社ではそれほどめずらしいことではなく、意外と希望を聞いてくれる会社だと思います。
小松原 すばらしい企業文化です。しかし、山木さんは全く異業種への異動ですよね。プラント設計のエンジニアをされていたということは、工学部か建築学部のご出身ですか?
山木 大学と大学院の専攻は生命科学で、細胞培養の研究をしていました。
小松原 なんと! 異業種への転身かと思いきや、細胞培養はもともと専門分野だったんですね。具体的にどのような研究をしていたのですか?
山木 解剖生物学といって、細胞分裂のメカニズムを解明する学問です。日々カエルの卵を使って研究していました。
小松原 伺っていいですか? 生命科学を研究していた方が、なぜ日揮に?
山木 生命科学は、目に見えない遺伝子や細胞と向き合い、真実かどうかわからない仮説と向き合い、時には研究に対する批判と向き合いながら、信じる道をひたすら突き進む世界です。自分がそれを黙々とやり続けるのは難しいと思ったんです。プラントエンジニアの世界は、お客様の目的実現のためにチームで理想のプラントを設計し、それが目に見える大きな成果につながり、大勢で喜び合うことができる。ある意味研究とは正反対の世界で、そこに興味を抱いて日揮に入社しました。
小松原 なるほど。いずれにしても培養肉の担当者として山木さんは適任中の適任ではないですか(笑)
山木 いえいえ(笑)。ただ、細胞培養の基本的な知識はあるので、日揮の技術とバイオテクノロジーをつなげたらいろんな可能性があるなとは思っていました。
小松原 御社の取り組みで注目すべきは、プロジェクトが発展途上の段階で「オルガノイドファーム」という子会社を立ち上げたことです。山木さんがオルガノイドファームのプロジェクトに入ってから子会社化の話が持ち上がったと思うのですが、同社の代表に指名された時はどんなお気持ちでしたか?
山木 自分で務まるかなという不安はありましたが、やりがいのある仕事ですから「お引き受けします」と答えました。
小松原 たいていの会社は、まず社内で開発を進めて、事業化のメドが立ってから新会社を立ち上げます。大企業の新規事業担当者がやりたくてもなかなかやれない新会社の設立を、御社はなぜできたのか。とても興味があります。
山木 別会社にした方が開発の自由度やスピード感が高まるという経営陣の判断に尽きると思います。収益が未知数の段階で子会社を作るのは当社にとってもチャレンジングなケースだと思いますが、「失敗を怖れずに取り組め」と言われています。
理想の肉をデザインし、食の選択肢を広げる
小松原 ところで、動物の細胞を培養してどのくらいの期間で食べられるお肉になるのですか?
山木 2〜3週間を想定しています。畜産の場合、仔牛が生まれてから出荷されるまでの肥育期間は2〜3年かかりますから、それに比べると格段に短い期間で生産できて、温室効果ガスの排出も抑えられます。動物を殺すこともありません。
小松原 食の景色が大きく変わりますね。
山木 食の選択肢が増えるというイメージを持っています。細胞の成分を制御することによって赤身のお肉や脂分の多いお肉などをデザインできるようになり、理論的にはDHAなど魚由来の栄養価が入ったお肉や、アレルギーが出やすい人向けのお肉などをデザインすることも可能になると言われています。
小松原 そうした細胞培養の技術は、もともとは医療分野で培われたものですよね。
山木 おっしゃる通りで、再生医療などの分野で発達してきた技術です。医療分野で細胞培養の技術が進めば培養肉もそれに併走すると思いますし、培養肉の技術開発が進めば、逆に医療分野に貢献することもあると思っています。
小松原 培養肉の競合はどのくらいいるのですか?
山木 国内は少ないですが、海外はアメリカを中心に複数の開発社があります。
小松原 そうした中で、オルガノイドファームの強みはどのあたりにあるとお考えですか?
山木 基礎的な研究の域にとどまらず、培養肉を大量生産し得る日揮のプラント技術を活用できることです。大量生産ができれば低価格での製品提供が可能になります。また、プラントをパッケージ化して生産を希望する土地に建てれば、自然環境や天候に左右されず、安定的に食肉を供給できるようになります。細胞培養のプラントには水や電気が必要ですが、水を循環させて再利用する技術や、再生可能エネルギー発電の技術など、日揮はプラント全体の省エネも得意としているので、それも強みになると考えています。
小松原 環境負荷の軽減だけでなく食糧難の課題解決にもつながりますね。
山木 その通りです。
小松原 マンガに出てくる夢のような近未来の話が現実に近づいてきている感じがします。その一方で培養肉に対して抵抗感を持つ人も出てくる気がします。
山木 そうですね。培養肉は普段私たちが食べているお肉と変わらない組成ですが、「安全なのか」「どう作られているのか」「どう保存されているのか」といった疑問を持つ方は当然いらっしゃると思います。説明責任を果たすのはもちろんのこと、法律との兼ね合いなどもあるので、関係各社や各団体と情報交換しながら理解の促進に努めていくつもりです。
商業プラントの運転開始目標は2030年
小松原 現在オルガノイドファームのメンバーは何人くらいいるのですか?
山木 日揮からは私1人で、最高技術責任者CTOを外部から招いています。その他に特別技術顧問として細胞培養に関する研究をされている大学の先生をお迎えし、開発を進めています。さらに人員を集めているところで、近いうちに10人前後のチームになる予定です。
小松原 培養肉の供給までにどのくらいのスパンを見ていますか?
山木 まずは3年後に試作品を出したいと思っています。商業プラントの運転開始は2030年を目標にしています。
小松原 宇宙開発などにも通じる壮大なプランですね。先が見えにくいだけに悩むことも多いのでは?
山木 あまり難しく考え込まず、わからないことはわからないと正直に話して周囲に助けていただいています。
小松原 リスクを考えて新規事業に手を挙げない人は多いと思うんです。でも新規事業には「とにかくやってみよう」という、ある種の軽さやノリの良さが大切で、山木さんはそれを体現されています。昔からノリがいいタイプだったんですか?
山木 いえいえ(笑)。どちらかというと保守的なタイプです。それにプラントの設計に携わっていた時は子どもたちが小さかったので、新しいことにチャレンジする余裕がなかったです。ある程度子どもたちが大きくなり、いろいろなタイミングがうまく重なって今に至るという感じです。
小松原 子育て世代の女性に新事業のトップを任せる点でも日揮の人事はすばらしいですね。
山木 男社会のお堅い会社というイメージを持たれがちなのですが、性差なく仕事を任せてもらえる職場環境です。女性エンジニアも増えています。オルガノイドファームの人材募集を見て「女性社長の方が働きやすそう」と話を聞きにきてくれた男性社員もいました(笑)
小松原 いい話です(笑)。山木さんのワークライフバランスについてはどのような感じですか?
山木 オンとオフのメリハリはつけるようにしています。ロングスパンの仕事は心身ともに健康でないと続かないと思うので。
小松原 気負わず自然体で取り組む姿勢に共感します。新規事業にチャレンジしたい若い世代のロールモデルになる方だと思います。
山木 新規事業の担当者ってバリバリに優秀なイメージがありますよね。私を見て「特別な人でなくても、子育てしながらでもチャレンジできる」と思ってもらえたらうれしいです。
小松原 培養肉が店頭に並ぶようになったら、どんな食べ方をしてもらいたいですか?
山木 「ダイエット中だから赤身のお肉にしよう」「A5ランク級のステーキを安く食べたいから今日は培養肉にしよう」などと、気軽に選んでいただけるようになったらうれしいですね。海外の牧畜に適さない地域にも展開できたらいいなと思います。小松原さんは培養肉を食べてみたいですか?
小松原 食べてみたいです。ちなみに焼き鳥の鶏皮とか、沖縄料理のミミガーとか、肉以外の部位も細胞培養によって食べられるようになるのでしょうか?
山木 理論的には可能なので、培養方法を確立できれば食べられるようになると思います。
小松原 人類史に残る仕事になるかもしれませんね。
山木 そうなったらうれしいです。
小松原威|Takeshi Komatsubara
2005年に慶應義塾大学法学部卒業後、日立製作所、海外放浪を経て2008年SAPジャパンに入社。営業として主に製造業を担当。2015年よりシリコンバレーにあるSAP Labsに日本人として初めて赴任。デザイン思考を使った日本企業の組織/風土改革・イノベーション創出を支援。2018年にWiLに参画しLP Relation担当パートナーとして、大企業の変革・イノベーション創出支援、また海外投資先の日本進出支援を行う。
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