“スリバチ”ってなんでしょう? それは、高低差の激しい東京の地形を言い表すのに、皆川典久さんがぴったりだと思った表現でした。大学を卒業後、大手建設会社に設計者として就職した皆川さんは、そこで初めて出会ったこの街の高低差の激しい地形に感銘を受けて、これを日々追求することに情熱を傾け、今や職業的地形マニアに。2003年に、仲間と「東京スリバチ学会」を結成し、以後、あまたの地形散歩関連の著書をものし、町歩き番組「ブラタモリ」のブレーンも担当してきました。 そんなスリバチ学会会長に、江戸東京の歴史の深層を秘めた虎ノ門と麻布台の地形を案内してもらいます。東京で最新のトレンドスポットと思われているこの地域を“スリバチ”という新たな視点で味わってみましょう。
Supervised by Norihisa Minagawa
photo by Chieko Shiraishi
map by Kenji Oguro
Historical and Topographical Maps
Courtesy of M Tribe
edit by Nobuko Suzuki
まずは、虎ノ門ヒルズ周辺の地形を見ていきましょう。
地形散歩の出発地点は、東京メトロ日比谷線「虎ノ門ヒルズ駅」。東京スリバチ学会・皆川会長の先導で、駅の真上に建つ虎ノ門ヒルズ ステーションタワーの7階「オフィスロビー」へ向かい、ここから外の景色を眺めて、一帯の地形と状況を把握します。
とは言っても、虎ノ門周辺は一見して平坦。どんな特徴があるというのでしょうか?
虎ノ門ヒルズのビルの谷間にかつて流れていた桜川

左奥が虎ノ門ヒルズ ビジネスタワー。右奥が虎ノ門ヒルズ 森タワー。
「虎ノ門の街でぼくが注目するのは、関東大震災の頃まで界隈を流れていた“桜川”です。江戸時代の切絵図にも描かれている水路で、今はまったくその痕跡はないんですが」(皆川)
ということで、スリバチは山と谷のみに非ず。川や池、用水、水路などもその要素に含まれるということで、この地域を桜川がどのように流れていたかを追求してみましょう。
ステーションタワー7階から東方向を眺めると、前方には3棟の超高層ビルが建っています。中央が「虎ノ門ヒルズ 森タワー」、その左側が「虎ノ門ヒルズ ビジネスタワー」、そして右側が「虎ノ門ヒルズ レジデンシャルタワー」です。
「桜川が流れていたのは、森タワーとビジネスタワーの間の道沿いです。そしてその先で、90度南に曲がっていました」(皆川)

川が90度の角度で曲がるとは!! それは人工の水路だったからということでしょうか?
「そうですね。桜川は、溜池の排水口だった汐留川から分水した、人が堀った人工の水路でした。江戸時代に、江戸の街が都市化して行った時に街割りに合わせて開削された水路だったんですね。この先、愛宕神社の“出世の石段”下を通過して、さらに青松寺先で南へ、西へとカクカクと曲がり、最終的には古川に合流しています」(皆川)
桜川が古川に合流していたのは、古川に架かる将監(しょうげん)橋の地点。今はその石組みの吐水口だけが残されています。
桜田通りに架かる歩行者用のTデッキを通って、ステーションタワーから森タワー下に出ると、エントランスに通じる場所には水が湧き出ている水路❶(※数字は記事末の地図と対応)が設えられています。

さらに、桜川の流れ跡に沿って森タワーの新虎通り側に移動すると、階段状に流れる滝のような水辺❷が!

「ぼくが森ビルの担当者に聞いた話によると、この森タワー外構部に水の流れを作ったのは、『この地にあった桜川を意識して』だそうです」(皆川)
都心の最高峰・愛宕山 愛宕神社

鳥居の向こうには急角度の“出世の石段”。1603年の神社創建時に造られたものということで、一段一段の高さも不規則で、踏み板の幅も微妙に異なる。86段を上りきると標高25.7メートルの山頂にたどり着く
さらに桜川の流路に沿って進むと、愛宕神社の参道、“出世の石段”下に至りました。

明治中期の愛宕神社参道風景 出世の石段下に橋が架かっている。写真=『写された港区』(昭和56年、港区)から転載
「かつてこの参道前の桜川には橋が架かっていたんだそうです」(皆川)
愛宕神社は、京都の愛宕山に鎮座する愛宕神社を慶長8(1603)年に勧請し建立され、火伏せ(防火)の神様として信仰されてきました。参道の急な石段は、徳川三代将軍家光の御前で、馬に乗りこの石段を上り下りして、その名を広く知られるようになった曲垣平九郎(まがき・へいくろう)の故事にちなんで「出世の石段」として知られています。
2023年には境内が再整備され、以前からあった池には新たに橋と水上舞台が設えられ、水辺でのコンサートなども行われているそう。神様により近いところでお詣りしたいという参拝者の要望に応えて、本殿脇に、太郎坊社、福寿稲荷社、大黒天社という末社も設けられました。毎月24日が神社の縁日で、その日にマルシェが行われることもあるそうです。
「標高26メートルの愛宕山は東京23区内で一番高い山。神社の境内には三角点もあります。武蔵野台地の東端に隆起している高台で、かつてはその台地下まで海面が迫っていました。江戸時代から市中を見渡せる眺望の名所としても知られてきたんですね」(皆川)

石段を上りきった山頂から下を見下ろすと、その急角度には恐怖さえ感じます。この男坂のとなりには、よりゆるやかな女坂もあり、そのほかにエレベーターも設けられています

本殿には丹塗りの門をくぐってお詣り。江戸時代はこの山上から上ってきた石段方向を眺めると、江戸前の海を臨むことができたそうです

境内の再整備で池のまわりはすっかりきれいに。新たに橋が架けられ、その先には舞台が設えられました。水辺に立つと、美しい錦鯉が寄ってきます

池のほとりから空を仰ぐと、木々の間から虎ノ門ヒルズのビル群が見えます。ヒルズで働く人、住む人たちも、この神社を憩いの場所としているようです
本殿にお参りして、その脇の階段を下りて麻布台ヒルズ方面に向かいます。階段を下りたところにあるのが「愛宕隧道」。

このトンネルができる以前は、愛宕山を上り下りするか迂回するしかなかったのだから、地元には大きな利便性をもたらしたはずでしょう
「愛宕山を越えずに貫通できるトンネルで、1930年にできた東京都心では最古の道路トンネルなんですよ。トンネルではなく隧道と表示してあるところに歴史を感じます」(皆川)

港区の地形は起伏に富んでいて、区内各地にトンネルが数多くあるのだとか。この愛宕の他にも、六本木トンネル、乃木坂トンネル、飯倉トンネルなど、トンネルめぐりの地形散歩も楽しめそう

トンネルではなく隧道と記してあるところに歴史を感じる銘板。この愛宕山上に1925年に東京放送局(後のNHK)が開局し、ラジオ放送を開始。愛宕山は日本の放送のふるさとでもあります
都心に今も残る寺町の風情
「この先には、江戸時代からの寺町の街並みが続いているので、そこを歩いていきましょう」(皆川)

天徳寺界隈は、市街地化されながらも、まだ何軒ものお寺が並んでいる寺町。港区という超都心においては貴重な街並みです
その道端で見つけたのは、天徳寺に関しての解説板。江戸時代の地図が掲載されていて、このあたりが江戸期からの寺町で、周辺には大名屋敷が多かったことがわかります。

「これはなかなかわかりやすい、いい地図です。この当時、天徳寺は青松寺よりも敷地の広いかなり大きなお寺だったんですね。この地図には、桜川もちゃんと描き込んである。道に沿って流路がカクカクと曲がっているでしょう」(皆川)
天徳寺の門前には「西之窪観音」の石標がありました。江戸三十三観音の二十番札所になるそうです。西之窪とは、愛宕山西側に沿った窪地一帯の地名で、江戸時代から、昭和52年の住居表示変更まで、西久保巴町など西久保を冠する町名が残っていました。
寺町を抜けると、その先が麻布台ヒルズです。
虎ノ門、愛宕の寺町を抜けて麻布台ヒルズへ

「この道はかつて室町時代頃までは東海道だった道。だから道沿いに今もお寺や神社が点在しているんですよ」(皆川)
桜田通りを渡ると麻布台ヒルズ。その敷地北側を南北に貫くのが桜麻通り❸。左手にガーデンプラザBを見ながら、大養寺❹という浄土宗のお寺を目指して進みます。

江戸初期の慶長期に、この地に開基した浄土宗西谷山 大養寺。徳川幕府の庇護を受けてきた由緒あるお寺で麻布台ヒルズの開発に伴い、新たに伽藍が整備されました。
このお寺の建っている桜麻通りの北側には我善坊谷という谷地形が広がっていました。江戸時代には下級武士たちが住む「組屋敷」が並んでいた地域で、以前は、その家々が建ち並ぶ町割りが残っていました。
大養寺の新たな本堂が建てられたのは、我善坊谷の南側にある高台下。

その大養寺の境内には弁天堂が祀られています。
「高台の下の水が湧き出るところにはたいてい、弁天さまがお祀りされている。江戸時代の大養寺境内にも水が湧いていて、弁天さまがお祀りしてあったのだと思いますよ」(皆川)
大養寺の住職によると、皆川さんの推察どおり、昔の大養寺には比較的大きな池があり、付近の地下鉄の工事時にその水が枯れたと伝わっているそうです。麻布台ヒルズの再開発に伴い、その池のほとりに祀られていた弁天様を再びお参りできるよう、辨天社が再建されたのだそうです。

大養寺境内に建立された辨天社にお詣りする皆川さん
その後、ガーデンプラザB2階に移動して、桜麻通りから1本南側、八幡通り沿いの歩行者デッキ❺に移動。ここを歩いていくと麻布台ヒルズ内から直接、西久保八幡神社の境内、社殿の裏側に出られるのです。

八幡通り上に架かるデッキを渡り、空中歩道(写真右)を進むと、西久保八幡神社の境内裏にアクセスできます
麻布台ヒルズの開発に際し「令和の御造替事業」として、2021年に新たな社殿が竣工しています。

西久保八幡神社は1000年代に起源のある古社で、太田道灌の江戸築城に際して、長禄元年(1457)この地に移されました。現在の桜田通り(中世の東海道)沿いに隆起した台地上に祀られています

境内から桜田通り側の参道階段を眺めると、ここもかなり急角度です。石段は寛政9(1797)年に造られたものだそう。階段脇の玉垣には、虎ノ門桜川町、麻布我善坊町などの旧町名を冠する町会の氏子さんたちのお名前が刻まれています

取材先の各所各所で熱心に写真撮影する皆川さん。地形と土地の歴史の追求への情熱を感じます

桜田通り沿いの鳥居のすぐ隣は、麻布台ヒルズのガーデンプラザ。新たな門前風景が生まれました
西久保八幡神社門前❻から桜田通りを飯倉交差点方面である南に向かい、交差点手前の道を東に曲がると、その先に見えるのが雁木坂❼です。階段状の坂ですが、ここの風景は再開発以前から変わっていません。雁木とは、空を飛ぶ雁の列が、斜めででギザギザしているように見えることを表現したものですが、木材をはしご状、または階段状に組んで坂道を登りやすくした坂を言い表しているようです。

雁木坂を上りきって北方向に歩くと、正面に麻布台ヒルズの北側にある、仙石山森タワーが見えてきます。

その先で皆川さんが目指していたのは、三年坂❽。開発により失われた道や坂道もありましたが、この三年坂は残されたのです。

三年坂の上に立って、その姿を見下ろします
そして、こちらは皆川さん撮影による開発前の三年坂の写真❾。坂下一帯の我善坊谷の街並みが見渡せました

この後、さらにその周辺坂道を追求しようと、ヒルズの南側まで足を伸ばします。
麻布台ヒルズ周辺は、凸凹地形、坂道地形の宝庫。ヒルズ南側沿いの外苑東通りは、この地域の尾根道。通りの南側は谷地形になっていて、狸穴坂➓、鼠坂、植木坂などいくつも名前のついている坂が見られます。現在の外苑東通り沿いにはロシア大使館がありますが、江戸時代には大名屋敷が並んでいた地域。

「狸」とは、メスのタヌキ、ムササビ、アナグマなどの呼称だということで、その巣穴が坂下にあったことが由来になっているようです。坂上には由緒のありそうな、坂名を記した石碑がありました
「狸穴坂は、勾配が急、湾曲している、江戸の風情がある、坂名に由緒があるという、タモリさんが『よい坂』の条件にしている全てを満たしている素晴らしい坂ですね」(皆川)

本日、水路と坂、神社、寺と、虎ノ門と麻布台地形のすべてを堪能したスリバチ学会会長。うれしそうです
「都心の中でも坂道が多く、独特な凸凹地形をもったこのエリアは、歴史を振り返ってみるととてもユニークな発展を遂げてきたこともわかります。新しい街が、そんな歴史的文脈の中でどんな役割を演じてゆくのかとても興味がありますし、変化が激しい分、見逃せませんよね」(皆川)
このルートと地図を参考に、実際に歩いてみると時空を超えた散歩体験ができるはず。ぜひ出かけてみてください!
こんなルートを歩きました

虎ノ門ヒルズ周辺

麻布台ヒルズ周辺
皆川典久|Norihisa Minagawa1963年群馬県生まれ。東京の起伏の激しい地形を追求する「東京スリバチ学会」会長であり、一級建築士にして某大手ゼネコンで設計の仕事に従事している。『東京スリバチの達人』(昭文社)のほか著書多数。最新刊は『世界遺産級都市 東京地形探訪』(山川出版社)。














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