中世というと、遠い時代に感じるだろうか? しかし実は、現代社会を考えるうえでひとつの試金石となりうる。現代人が見失ってしまった精神を人々が携えていた時代として、中世世界に希望を見出だす向きもある。あるいは、私たちがテクノロジーやデバイスに対してほとんど信仰的なまでに没入している様子から、中世的な何かを感じとることも可能かもしれない。いずれにせよ中世をめぐる語りは、どこかでふと、現在を捉え返す道へと通ずることがあるのだ。 喧騒に満ちていた中世ヨーロッパのなかで、沈黙を生活の中心に置いていた修道士らや、男性社会ゆえの沈黙を破るようにして声を発していった女性たちなどに焦点を当てたのが、2024年7月刊行の『沈黙の中世史 感情史から見るヨーロッパ』(ちくま新著)だ。著者の後藤里菜は、西洋中世史、心性史、女性神秘家をテーマとする研究者。現代も含めて人間のありように広く関心を抱きながら、中世という時代の隅々へと、耳をそばだてている。その傍らに立ち、時代の“聞き方”を考えてみる、インタビュー連載「編集できない世界をめぐる対話」第19回。
TEXT BY Fumihisa Miyata
PHOTO BY Kaori Nishida
——近年は、フェミニズム的な文脈において魔女への注目が改めて集まったり、近代化のなかで失われた世界を「再魔術化」せよというモリス・バーマンの議論が再び脚光を浴びたりしています。このタイミングで中世を考えることは、何か現代的な手がかりを得られるのではないかと、本インタビュー連載にてお話をうかがいにきました。
後藤 まずは、中世に興味を持っていただけて嬉しいです。それに私は中世ヨーロッパを専門にしていますが、人間そのものにすごく関心を持っているので、気になって過去の連載を拝読したところ、とても面白いインタビュー連載だなあ、と。私も、中世と現代のあいだで考えたことが最近ひとつありました。若者を中心にTikTokがなぜあんなに流行っているのか不思議に思っていたのですが、耳に残りやすい短い音楽に動きと言葉がのった動画が主になっていることに注目すると、時代を超えてつながるのかも、と感じたんですね。
——TikTokのようなSNSの動画に、中世のことを思ったのですか。
後藤 より広い年齢層に浸透しているのはInstagramの方かもしれませんが、どちらにせよ、綺麗な写真や動画に音楽を添えて投稿されることが多いような気がします。ユーザーの好きなアーティストの楽曲を使うことももちろんありますが、TikTokやInstagramという媒体上でやけに人気で繰り返し使われる楽曲、フレーズというものがあるんです。一般的な音楽ランキングのように、「鑑賞する対象」として楽曲が客体化されていない、といいますか……。そうしたことを考えている時ふと、古代や中世では声と歌がはっきり分離していなかったことを思い出しました。つまり、人間にとって何か言葉を発する時に音にのる、音にのせるということが自然で、現代でももしかしたら同じことをしているのかもしれない、と。特定のメロディーを好んで使い回すというか、ある種の型を繰り返し用いていたのは中世の人の神への祈りや歌にもあてはまります。そういう、人間が持っている癖みたいなものが、歴史を見ていくなかで顔を出すことがあるのかもしれません。
——なるほど、意外な接点です。後藤さんは、本インタビュー連載でアイドル研究者の上岡磨奈さんにお話をうかがった回に共感を覚えておられるとのこと。西暦でおよそ500年~1500年にわたる中世ヨーロッパを研究している方がそのようにおっしゃることまた予想外のことだったのですが、どのようなご興味を抱かれたのでしょうか。
後藤 私や周囲の学生たちもアイドル文化や「推し活動」の文化に親しんでいる世代なので話の内容が理解しやすい、というのも前提としてあるのですが、上岡さんがアイドルについて議論するときに「『誰かを取りこぼす』のは嫌だ」「『ここに書かれていることのなかに、自分は入っていないな』と思う人ができるだけいないようにしたい」とご発言されていたことが、私が研究を進めながら感じていることと重なったんです。私の研究については後ほどお伝えすると思うのですが、上岡さんのお話は、同じアイドルのファンでも推しに認知されたい人もいれば、認知されたくない人もいて、応援しているアイドルにファンが増えてほしくない人もいる……そうしたいろんな人のあり方をできる限り取り上げたいから、たとえ研究論文であっても可能な限り決定的な言い方を避けたい、ということでしたよね。私も中世ヨーロッパについて語る者として、似たようなことを考えていたんです。こんな人もいればあんな人もいて、こういう側面もあって、こんな色もあるんだ、と。つまり、多様であった中世世界の、そのいろいろなあり方、まとまらなさを、そのまま伝えたいと思っています。
——「色彩ゆたかな世界」としての中世を描きたいと、『沈黙の中世史』の冒頭にありますね。そのあたりは追って伺えればと思います。現代のアイドル文化と、ほとんどの人がキリスト教徒であった中世ヨーロッパは、ある対象を仰ぎ見る点でも共通点がありそうです。
後藤 日本のアイドルファンの人がバッグに推しのメンバーの色のグッズをつける時、その色から愛する対象へとつながっていく感覚を覚えているんだと思います。抽象的な色が、具体的な対象やイメージにつながっていく感覚は、実は中世ヨーロッパの人にとってもすごく馴染み深いものなんです。宗教画をはじめとする現代でいう芸術作品も、中世では、客観的に見られる対象というよりも、描かれた物語へとそのまま具体的に没入していく媒体でした。実際に中世史研究でも、そうした心性をめぐる議論があります。現代の日本人と中世ヨーロッパの人たちに感性の近さ、思わぬ接点があるというのも、面白いですよね。
——やはり、意外に似通っているのですね。『沈黙の中世史』は近年注目を浴びる「感情史」という観点なども踏まえながら、中世ヨーロッパの人々の多様なありようを描き出す一冊です。全体を貫くテーマが、喧騒に満ちた世界における「沈黙」ですね。
後藤 そうなんです。でも、『沈黙の中世史』の「はじめに」でも述べたように、沈黙というのは、中世史に冠するには意外な言葉でもあるんです。もちろん、現代においてひっきりなしに車や工事の音が聞こえてくる都会の環境に比べれば、質としては、中世世界は静かだったと思います。けれども、声と音がないと成り立たないという意味では、沈黙とは程遠い世界でした。本書では「声と音が生活の大部分を占め、音のない言葉がごく例外的な人々の間に限定された時代」と表現したのですが、聖職者や修道士などごく一部の人しか日常的には文字を用いておらず、多くの人々にとって言葉はなによりもまず声だったんです。
——いま私たちの目の前に置いてある書面や書籍のような、書き言葉によるコミュニケーションではなく、民衆が日常生活の伝達を声と音で行っていたとなれば、それは騒々しいでしょうね。統治者たちはそうした声をコントロールしつつ、一方で俗世から離れた修道士・聖職者たちは「沈黙」しているというのが、『沈黙の中世史』の大まかな枠組みのひとつです。
後藤 本のなかでは「心身をつくした沈黙」と表現しているのですが、沈黙しながら神の声に心から耳を傾け、服従する生き方を修道士たちはしていました。ここで興味深いのは、私がかねてから研究してきている中世キリスト教世界における「叫び」が、必ずしも「沈黙」と両極端のものではないということなんです。
——人間から神へ訴えるような、広義における「叫び」は後藤さんが長らく取り組んでいるテーマであり、そこから今回の『沈黙の中世史』も生まれていますね。それにしても、「叫び」と「沈黙」が両極のものではないというのは、どういうことでしょうか?
後藤 傍から見れば沈黙している人であっても、神に向かって心から叫んでいる、という表現が、教父をはじめとした神学者の著作に見受けられるんです。悪魔憑きの悲鳴のような文字通りの叫びも存在してはいるのですが、基本的に中世キリスト教世界において叫びと沈黙は両極に離れたものではなくて、むしろ表裏の関係にあると捉えるべきかもしれません。
——外から見て沈黙しているからといって、必ずしも叫んでいないわけではない……と。時代は異なりますが、現代に生きる私たちのことを考えるうえでも、何か感じさせるものがありますね。
後藤 ひとつ付け加えると、沈黙している修道士たちにとっても、あまりの静けさと暗さが支配する夜は、悪魔や死者がやってくるかもしれないという意味において格段の恐怖を覚える時間帯だったんです。だからこそ、まだ暗いうちから起きて、無事に夜を過ごすことができたことを神に感謝しながら祈るんですね。
——夜を乗り越えることが、それほど大変だった、と。
後藤 中世には、朝を告げる雄鶏が鳴かずに不吉だからと、その鶏を聖人のもとに連れていった農民のエピソードもあります。聖人がその鶏を鳴かせる奇跡を起こすと、皆がその霊験を一気に信じるというくらいに、静謐と暗闇が満たす夜の時間は恐れられていたんです。
——面白いですね。沈黙や音・声が、中世ヨーロッパの人々が生きていた日常世界のなかで、とても重要な位置を占めていたということが徐々にわかってきました。さて、『沈黙の中世史』は後半にかけて徐々に、民衆に象徴される俗人たちの声や、沈黙を打ち破る聖女たちの声へとフォーカスしていきます。
後藤 女性のことについて詳しく述べる前に、すこし前提となることをお話しさせてください。まず、古代ギリシア・ローマも、キリスト教がルーツをもつ古代のユダヤ教社会も男性社会でした。古代のユダヤ教社会では、ラビの説法を女性は直接聞くことができず、夫からまた聞きするしかなかったんですね。それに対して初期のキリスト教、歴史上のイエス・キリストは、女性に門戸を開け放っているし、女性は指導者集団の一員にもなっているんです。ただ、11・12世紀頃までに聖職者位階制度を根幹にした中世キリスト教世界の秩序ができてくるなかで、女性にはふたたび沈黙が課されてしまう。と同時に、たとえば悪魔憑きとみなされるのは一貫して女性や子どもであるのが興味深いところです。悪魔を祓うことで聖性が顕示されるという意味において、女性が必要とされたとも見ることができます。
——そうした時代のなかから、沈黙を打ち破って言葉を発していった女性たちに、後藤さんは着目しています。ただ、必ずしも現代的な観点からのみ注目するということでないところが特徴的ですね。
後藤 12世紀ドイツに生きたヒルデガルト・フォン・ビンゲンは、神の声を聴くことができ、幻視者でもあり、医学や薬草学にも通じ、詩作や作曲も行っていました。特に信仰をめぐる文脈においては、神とのあいだで媒介となってその声を伝えていた人として理解することができます。男性修道士の手助けのもと、ラテン語での著作も残しています。
——多彩な人だったのですね。
後藤 ヒルデガルトには、聖職者位階制度から締め出され、沈黙を強いられていた女性が言葉を発した、という画期的な側面がたしかにあります。と同時に、女性は男性に比べて弱い存在であると考えている人でした。だからその活動は、抑え込まれていた声を、神との関わりをつうじて発するのだ、と主張してゆくものではおよそないんです。むしろ声を出すことは女性である自分にはふさわしくないと思って、幻視を経験しても長らくひけらかさずに隠していたり、受身的な「器」に徹しようとしたりするところがありました。ヒルデガルトの残した歌からもその世界観は伝わります。もちろん、当時の規範からそう書かねばならなかった、ということもあるとは思いますが、弱くて脆くて罪深い女性という器だからこそ慈悲深い神の恩寵が注いでくれる、と喜ばしく歌う様子には、嫌々とは思えないところがあるんです。
——「女性性のイメージを探ることは、ジェンダーの枠の溶解をめざす現代において、時代に逆行するおこないかもしれない」「だが、そうしたイメージに対して、むしろ受けとめながら声を出していた人たちがいたことまでをも、沈黙に還してはならないのではないか」と書いていらっしゃいますね。
後藤 私自身はフェミニストではないのですが、神秘家を含め女性のさまざまなあり方には関心を持っています。現代のジェンダーとセクシュアリティにかんして、多大な影響を与えている哲学者にジュディス・バトラーという人がいますが、フェミニズムやクィア理論を研究する藤高和輝さんは『バトラー入門』(ちくま新書)で、私なりにまとめると次のような議論を展開していらっしゃいます——バトラーが言っているのは、ジェンダーの枠組みなんかない、というのではなく、ジェンダーは無数にあるのだ、ということなのだと。
——「ジェンダーをなくすんじゃなくて増やそう」と藤高さんは語っていらっしゃいますね。
後藤 アイドル研究者の上岡さんも、アイドルファンのコードが「多様化しているわけではなくて、以前から実は多様だった」とおっしゃっていて、私はおふたりの姿勢に似たものを感じました。それに私自身も、そうした観点のもとで、女性たちをふくめて中世の人たちのさまざまなありようを見たいと思っているんです。
——沈黙を破った女性たちの姿勢も、なかなか一口では括れないということが、『沈黙の中世史』を読むと伝わってきます。「ベギン」と呼ばれる、修道女とならず働きながら貧者や病人の世話をした半聖半俗の女性たちなど、多種多様な実践や生き方があったことが書かれています。
後藤 他にもたとえば、ジャン・ド・マンの書いた『薔薇物語』の後半部に反駁し、中世末に『女の都』を著したクリスティーヌ・ド・ピザンという人がいます。クリスティーヌは、中世キリスト教世界において女性がイヴとの関連で、弱くて不完全で欲に流されやすいとみなされてきたことに対して、中世でほとんど初めて物申した女性です。だからフェミニストの先駆者ともみなされるんです。でも、その著作をよく読んでみると——彼女の場合には中世といっても中世末期であるのと、家柄と境遇ゆえに著作がたくさんある職業著作家で、そこも例外的なんですが——何よりも神のもとのただしい秩序について考えていて、ヒルデガルト同様、中世的な価値観のもとに生きていたことがわかります。ヒルデガルトもクリスティーヌも、現代的・先駆的な意識を持った女性というよりは、中世という時代においてたまたま声を出したり、文字を書いたりすることができた女性のひとりだというように、私は見ています。その一人ひとりのありようを、そのまま書いていきたい、ということなんですね。
——中世の世界観のなかでの多様さを描く、ということですね。そのまま書く、というのはつまり、現代的な観点に寄りすぎない、ということに近いのでしょうか。
後藤 そうですね。声を出しているからには、女性の権利を擁護した女性であるはずだ、といった現代人の思考の枠組みに固定しすぎない方がよいかなとは思います。むしろ、中世の人の思考の枠組みに沿って考えてみたい、というか。現代では、主体が先にあって、その主体のもとに何かを捉えるのだと一般的には考えられていますよね。でも、中世の人は、はじめにお話しした、色や宗教画への没入でもそうですが、教会建築でも彫刻でも、とくに神、聖なるものにかんして、主体である自分と客体である対象とをそもそも切り離されたものとして前提していないのではないか、と思われる節があるんです。
——たしかに、そう簡単に他者理解などできないという前提に立ちつつ、歴史学もある意味では時間・文化の異なった人たちへの他者理解だとすると、思考の枠組みに寄り添うのは大切なことなのかもしれません。
後藤 建築物でも歌でも料理でも、現代の人なら完成品を客体として想定して、それを目指して作りますよね。作り手である主体と、完成品である客体は当然のごとく切り離されているというか。でも、中世では神をめざしてどこまでも高く塔を作ったり付け足したり、讃美歌では心の赴くままにうねうねと音を延ばし続けて神を讃えたり、一緒にその場にいる集団が各々違う言語で神を讃える歌を歌っていても神に向けてのものだから気にしなかったりします。
——ある種の大雑把さや寛容さがあるようにも聞こえますね。
後藤 料理にかんしてもこんな例があります。天上のイェルサレム(編注:「新しいイェルサレム」とも呼ばれる、ヨハネが啓示のもとに見たとされる幻の都市)を囲む城壁に埋め込まれた宝石の輝きや、地上楽園の黄金を想起して、料理を黄色にするのを好んでいたんです。ただ、サフランが高価で手に入らない場合には卵黄とか黄色になるものならいいからとにかく入れたり、天界や神にかかわるものはすごくよい香りがするから種類は問わずに香辛料をたくさん付け足したりもしていました。天上へのつながりに没入しているというか、出来上がりの盛り付けや味という完成図よりも、過程に没入するところがあるんです。中世はそういう、主体も客体もないみたいな仕方になるのが面白いなと。中世の人の世界観にそういう傾向があるんだとしたら、中世の女性を見るにも、客体としてはじめから枠に入れて捉えるのではなくて、同じようにできるかぎり、一緒に主体になりにいく仕方で語りたい、という感覚が私にはあるんです。そうすることでこそありのままに語れるのかもしれない、と。本当にそんなことが可能なのかは、わからないんですけれど……。
——その時代の多様さを、その時代の人の持つ感性に寄り添いながらすくい取る、と。たしかに大変な試みにも聞こえますが、興味深いですね。
後藤 いろいろでばらばらであっても、中世はやっぱり神や聖なるものに秩序づけられた世界なのかな、と思う反面、教会建築には、「なんでこんなところに!?」というところに、スカトロジー的な図像が残されていることがあるんです。たとえば教会で人々が座る背もたれのところに、人がお尻を突き出している彫刻がなされていることがある(笑)。出産の神秘に感じ入る民衆的なものに由来するんだとか、文化人類学的にも色々な説明が試みられているんですが、はっきりとはわからない。なんといえばいいのか、中世にはそうした“裂け目”がところどころにあるんですよね。現代的に“多様性を許容する”というような新たな規範や枠組みを、自らを主体としながら持ち出すのではなくて、既にそこにある無数の“裂け目”に満ちた世界を考えてみたい。そのように中世を探究することは、どこかでいまの社会にもつながる話なのではないかと感じます。
——なるほど。中世を考えることは、やはり現代の私たちを根本的に問うところがありますね。
後藤 現代を生きている私たちも、目の前にあるコップがどんな原子や分子から構成されているのかは、いちいち考えていないですよね。でも、毎回頭では思考していなくても、そうした世界の成り立ちについては何となく信じている。中世の人々も、きっとそうした感覚で、神や悪魔のことを考えていたのではないかと思います。常に意識しているわけではなくても、そうした世界観のなかでおくる日常というものがある。もちろん、中世ヨーロッパというキリスト教世界と、現代に生きる私たちの近代科学的な理解のもとにある世界は、一般的な意味で「宗教」的である/ないといった違いはあると思うのですが、実はそんなに異なる話ではないのではないか、と感じているんです。だから、その感性に寄り添って声を聞くのは飽きないというか、苦にならないというか。不条理で説明し尽くせない「人間」そのものの面白さなのかもしれません。
1985年、神奈川県生まれ。フリーランス編集者。博士(総合社会文化)。2016年に株式会社文藝春秋から独立。2022年3月刊、津野海太郎著『編集の提案』(黒鳥社)の編者を務める。各媒体でポン・ジュノ、タル・ベーラらにインタビューするほか、対談の構成や書籍の編集協力などを担う。
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