What is Editing?

アイドルカルチャーを生きる、迷いながら書く——アイドル研究者・上岡磨奈に訊く

人を表象するということは、本当に難しい。たとえば本稿の筆者は近年、当人がジェンダー・アイデンティティーについて公言していない限り、他人にかんして「彼女」「彼」と表現することを極力避けているが、この方法が正しいのかどうかも甚だ不安だ。だからこそ、自身をその表象のフィールドに積極的に載せ、またファンがその姿を応援する「アイドル」の世界は、語り尽くせぬ困難と可能性を秘めているように見える。

「おうちで家族で見てくれてる人もいるのかな? お父さん、すみません、お嬢さんと奥さんお借りします」。コロナ禍の最中に配信で見たという男性アイドルグループのライブの一幕、それらをめぐる違和感を見つめることから、上岡磨奈の著書『アイドル・コード』はスタートする(その一瞬の出来事に埋め込まれた、異性愛主義を含めた「コード」の数々は、実際に書籍をあたってみてほしい)。自身も熱心なアイドルファンとして、私たちが生きる社会の一断面を凝視しているように思われるアイドル研究者・上岡を、インタビュー連載「編集できない世界をめぐる対話」第13回のゲストに迎えた。

TEXT BY FUMIHISA MIYATA
PHOTO BY KAORI NISHIDA

——このインタビュー直後に海外へのご出張だそうですが、どちらに向かわれるのですか。

上岡 デンマークのコペンハーゲン大学で開催される、ジェンダーと音楽をめぐる研究のカンファレンスに参加します。私は“Be Girly, Be Manly: What the gender bias in Japanese idol culture”という発表をする予定で、日本のアイドル文化におけるジェンダーバイアスの課題について語ってきます。具体的には、アイドル界で独自の取り組みをしている、lyrical schoolというヒップホップアイドルユニットの事例をメインで扱う予定です。

——“Be Girly, Be Manly”ですか。

上岡 タイトルにこめた日本のアイドルイメージのニュアンスは、なかなか日本語から英語に訳しにくいものでして……ひとまず、女の子らしさと王子様感をめぐる問題、とでもいえばいいでしょうか。性的ではない魅力というものを演出しようとしてきた、アイドルも含めた日本の表象文化の歴史があって、アイドルというのはそうした状況を逆手にとるようなチャレンジもされてきた分野である、ということについて話して、意見交換をしてこようと思います。

——海外の方々からの目を想像すると、さまざまな議論が交わされそうですね。そもそも上岡さんは、アイドルやファンについて論じるとき、常に迷いながら筆を進められている印象を受けました。その迷いこそが気になって今回インタビューをお願いした次第です。

上岡 「迷いながら」というのは、ひとつは私の性格ゆえというところでもあるのですが、やはり研究の対象ゆえ、というところが大きいです。アイドルにかんする研究書は、アイドルファンの方々が読んでくださることも多いわけですが、実はファンと一口でいっても本当にいろんな方がいます。ファンの方自身のジェンダーやセクシュアリティ、社会的な立場や持ち合わせている視点などもまちまちですし、たとえ同じアイドルが「好き」であっても、ときに「宗派」と表現されるほどに実態は千差万別なんです。

——それが、書く際の「迷い」が生まれる背景なのですね。

上岡 論じる人間として対象への踏み込み方を間違えると、ファンのあいだで不用意に対立を生んでしまいかねないですし、それだけファンのあり方が異なるからこそ、私が何かを言いきることで誰かが嫌な思いをしないか不安だ、ということもあります。もちろん議論は何かしらのコンフリクトを含むものですから、それを避けようとすること自体がナンセンスと思われるかもしれないのですが、私としては「誰かを取りこぼす」のは嫌だな、と感じるんです。

——「誰かを取りこぼす」ですか。

上岡磨奈|Mana Kamioka 1982年生まれ。慶應義塾大学大学院社会学研究科後期博士課程単位取得退学。専攻は文化社会学、カルチュラルスタディーズ。俳優やアイドル、作詞家などを経て、アイドルとそのファンを対象とした研究を開始。アイドルの生活や仕事、キャリアをめぐって調査・研究中。単著に『アイドル・コード 託されるイメージを問う』、共著に『アイドルについて葛藤しながら考えてみた ジェンダー/パーソナリティ/推し』、『アイドル・スタディーズ 研究のための視点、問い、方法』など。

上岡 「ここに書かれていることのなかに、自分は入っていないな」と思う人ができるだけいないようにしたいんです。もちろん全方位への目配りはできないんですけれども、「これはあくまでも一部分についての話なんだよ」ということを、「たとえば」という例示の表現で明確にするといったことは多いですね。

留保が多く、何かを言いきるようなフレーズが少ないのは、こうした理由に基づいています。はっきりいえよ、と思われてしまうかもしれないのですが、誰かを置いていきたくない。なるべくいろんなことを拾ったうえで、オープンエンドにしておきたい。私個人が結論を出すことは、基本的にできないとさえ思っているんです。

——それは研究者の方としては、相当勇気のいる宣言にも聞こえます。

上岡 なので、結論が必要な論文を書くのは正直苦手なんです(笑)。いま進めている博士論文も難航しているんですが、最近やっとひとつの結論が見えてきたので、なんとかまとめていこうとしている最中です。

——先ほどおっしゃっていた、アイドルファンの方々のあいだの違いというのは、具体的にはどのようなものなのでしょうか。

上岡 たとえばAさんという、同じアイドルのことが好きなファンの方々がいるとします。ある人は、Aさんのパフォーマンスがとにかく好き。パフォーマンスをライブで体感したり、映像で見たりすることができればそれで満足で、握手会のような場で直接会うような機会を求めてはいない。むしろ、Aさんの目に自分が入ることをすごく嫌がる、ということもあります。

——いわゆる「認知」(自分の顔や名前を覚えてもらうこと)を求めていないどころか、視界にも入れてほしくない、と。

上岡 もちろん認知されたい人もいますが、されたくない場合、人によってはむしろ認知されたらAさんのことを嫌いになってしまう可能性さえあります。他方で、Aさんのパーソナリティや人柄のようなものに魅かれる人もいます。あまりAさんのことを知らないままに、たとえば友人に連れられて、写真を撮ったりお話をしたりするような有料のファンサービスの場に参加して、そのときにAさんがすごく優しく接してくれてファンになる、ということがある。

あるいはAさんがグループやユニットに所属していた場合の極端な例として、ライブではAさんのことだけが好きでAさんだけ見ていれば満足なんだけれども、それをあからさまにするのも悪いので、Aさんがステージにいないときは会場の外に出ている、という人もいます。Aさんにファンが増えてほしくない、というファンの人も存在しますね。

——「単推し」(グループのなかでひとりを推すこと)のかたちにも、極端なものも含めていろいろあるのですね。

上岡 Aさんに疑似恋愛ではない恋愛感情を抱いてしまい、でもそれを表に出すのはアイドルファンのなかで忌避されることもあるために、悩み苦しんでいる人もいます。Aさんにこれ以上会ったらもっと好きになってしまうから、ライブにいくのをやめた、ということもある。いま私がお話ししてきたのも、ファンの方々のいろんなありようのうち、ほんの一例です。もっともっと、たくさんの人々がいるわけなんですね。

——以前に、ファン同士でも「お互いに『~~の話をしても大丈夫?』と確認したうえで話を進めるという場面はよくあります」と書かれていましたね(『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』おわりに)。

上岡 「Aさんの新曲聴いた?」と何気なく尋ねるのも、実はドキドキするところがあります。「いいよね!」と返してくれる人もいれば、「ちょっといまいちじゃないかな」と思いながら「まあ、MVはよかったよね」という人もいるわけです。お互いのテンションの違いが読めないなかでは、やっぱりひとつひとつ確認してみるのが安心です。トラブルが発生してこじれると、共通の友人がいるのに疎遠になるとか、仲がよかったのにSNS上でブロックするといったような事態に発展していってしまう。そうならないためにも、どこかおずおずと話し出すのは、アイドルファンの身振りのひとつとして、いつの間にか身についているものなのかもしれません。

——いまお話しくださってきたようなアイドルファンの多くの違いや、アイドルをめぐるさまざまなコードが、議論のなかですこしずつ可視化されてきているというのは、界隈が多様化してきているからなのでしょうか。

上岡 いや、多様化しているわけではなくて、以前から実は多様だったのだ、というふうに私は見ています。「オタク」ということばが、いまのようにポップに使われるのではなくネガティブなニュアンスを帯びていた頃から、アイドルを含めた何らかのファンだという人たちは、実はこうしたお互いの繊細な違いに気を遣って接してきているのではないでしょうか。

あるいは、こうもいえるかもしれません。アイドルの表現は、社会がいまのように多様性を謳うようになる前から多様だった、と。たとえばゲイアイドルである「二丁目の魁カミングアウト」は別名義も含めて2011年から活動しているように、そうした実践者たちはアイドルの歴史のなかに既に現れてきていた。多様化したのではなく、どれだけ多様でありつづけてきたのかもまた、考えるべきだと思います。

——なるほど。とはいえ『アイドル・コード』のあとがきで、上岡さんはこうおっしゃってもいます。「議論の場も、葛藤の場も成熟し切ってはおらず、〝アイドル・コード〟は温存されていて、私の幼少期と大きくは変わらないと思います。しかし、こうした語り、思案する場を作り続けていくことは、変化の兆しを期待する途になっていくだろうと思います」。

上岡 もとから多様ではあったはずだという眼差しで歴史を見つつも、温存されているさまざまなコードや価値観にかんして変化を求めていきたい、というところなんです。私個人の取り組みとして変えていきたいのは、大きく二点です。

ひとつは、先述した博士論文で取り組んでいるテーマでもある、アイドルの労働環境です。アイドルの人たちの仕事がきちんと「労働」と見なされず、その環境があまりにも整っていない。ファンの消費活動がこれだけ盛んになっているのに、アイドル当人の労働環境が未整備であるというのは非常に問題です。私自身もかつてアイドル活動をしたり、運営を手伝ったりしたことがあり、界隈の様子は実地で見てきてもいます。運営側はもちろん、ファンも含めて、労働をめぐる意識が変わっていってほしいと願いながら、いま調査・研究に取り組んでいます。

——上岡さんが取り組み、求めているもうひとつの変化は、何でしょうか。

上岡 こちらは主に『アイドル・コード』に書いた内容に関連するのですが、アイドルに対する社会からの、ちょっと上から目線というか、下に見る目線というようなものを変えたいと思います。「アイドルなのに歌が上手い」「演技が上手だね」といわれたり、むしろ自分がアイドルであることをアイドル自身が恥ずかしがってしまったり、というような場面には、よく遭遇するんですね。「俳優です」「歌手です」と自己紹介するのとは違い、「あ、すみません、アイドルやってます……」と思わずいってしまうような、アイドルを未熟なものとみなす社会の視線とでもいえばいいでしょうか。

——アイドルは未熟な存在、というコードが前提として存在する、と。

上岡 たとえば、フェミニズムの観点でアイドルをどう考えるかという議論も、こうした点にかかわってきます。私自身フェミニズムの専門家ではなく勉強中の身であることをお伝えしたうえでお話しするのですが、たしかに搾取や抑圧をめぐって問われるべきさまざまな問題はあります。ただ、男性ファンから一方的に消費される女性アイドル、という構図だけではとらえられない事態が多いのも事実で、どうしてもステレオタイプなアイドルが想定されてしまうことで、さまざまなコンセプトのアイドルグループの存在などが捨象されがちです。

そもそも女性アイドルという存在を考えるとき、か弱く未熟な女性像を前提として想定してしまうと、捉えそこねる実態もあるように考えています。アイドルの一般的なイメージを書き換えていきたいと思ったのが、『アイドル・コード』の執筆動機のひとつでした。

——コードを検証する前提のコードも含めて、解きほぐしていくということなのかもしれませんね。

上岡 私たちのようにアイドルに親しみ、論じている側からの建設的な応答というものも、徐々に出てきています。あるいは必ずしもアイドルを専門的に研究する方でなくとも、たとえばジェンダー理論などを研究されている高橋幸さんは、以前インタビューで、ご自身が専門とされる知見をもとにアイドルとフェミニズムの両立について論じていらっしゃいました。

専門的な表現を用いれば、第三波フェミニズム以降のありようとして、主体的な表現を通じて女性ファンをエンパワメントしていく、そんな女性アイドルの存在は考えうる、ということです。実際にフェミニズムに関心を抱いたり学んだりして、ファンやメディアに発信していくアイドルも増えてきましたし、フェミニズムとの地続き感があるといいますか、ポジティブなムーブメントが起こりつつあるのかもしれません。

——さまざまな動きや接続が起こりうるのでしょうね。

上岡 いまのところアイドルカルチャー自体がすごく未熟かつ原始的なものだと思われがちだというのは先ほどお伝えした通りなのですが、一方で未熟だと思われているはずのアイドル側が、決して社会問題への意識が高いということでなくても、クリエイターやパフォーマーたちのいろんなチャレンジが積み重なるなかで思わぬ達成に至ることがあるんです。見ている側が「あれっ、実はそれってすごくクィア的じゃない?」と驚くような瞬間に出会ったり、「エンパワメントにつながるよね」といえるようなポジティブな動きが出てきたり、ということが、ままあります。

——これまで語ってくださったようなお話に、上岡さんご自身の歩みはどのように関係しているのでしょうか。

上岡 幼い頃に『アイドル伝説えり子』というアニメを見てアイドルに憧れまして、その後すこし子役としての活動などを経て、中学・高校生の頃にはアイドルのオーディションを受けてみようという心持ちになっていました。ただ私は身長が当時既に170cm近くになっていて——いまは170cmを超えています——声のトーンは低く、雰囲気も女の子らしいタイプではなく、ステレオタイプなアイドルのコードには当てはまらないんですよね。それでも一時期、アイドル活動をしていたことはありましたが、自分が思うようなアイドル像にどう近づいたらいいか悩んでいました。

——そうした経緯があったのですね。

上岡 現在は、女性アイドルの分野でも170cmを超えるような、高身長のアイドルも珍しくなくなってきています。こうした方々が、私が10代の頃から活躍していたら、「あの人たちみたいにやればいいんだ!」というように、ロールモデルとしてとらえることができていたかもしれません。それはアイドル志望者のみならず、売り出す運営サイドの意識のことを考えてみても、そうした先駆的なモデルになってくれる人がたくさん出てくる状況になれば、と思います。

——そうした状況を検証し、議論するのもまた、上岡さんたちのお仕事ですね。

上岡 とはいえやはり、アイドルカルチャーの全体を見て考える、ということはとても難しいんです。男性論者の方々によるアイドル評論がブームになったこともありましたが、それもまた、先ほど触れたようなステレオタイプなアイドル観からは逃れられていないようにも見えました。

私自身、やっぱり全体性を担保するのは無理筋だ、とも感じてはいるんです。できるだけフラットでいられるように、自分のファン活動についてはあまり公にしないのですが、それでも多い時期は年間300ほどの現場には通ってきていますし、最近でもチェキは月100枚程度撮っています。でもそれが偉いとか、もっとすごい方もいるという話でもなく、どれだけのめりこもうとも、いろんな現場にいこうとも、見えないものがあるんです。『アイドル・コード』で書き逃してしまったのは、先ほどこの場ではすこし話題に出ましたが、女性アイドルの女性ファンについてですね。いまや当たり前の存在で、授業で学生と話していても、「女性アイドルのファン=おじさん」だとはみんな思っていないんですよ。

——全体が見えないからこそ、上岡さんが『アイドル・コード』のなかで言及されていた、lyrical shoolのメンバー・minanさんの文章「いつかアイドルになる」(『ユリイカ』2023年5月号)は希望を感じさせてくれます。女性のヒップホップアイドルユニットから男女混合グループの新体制になった瞬間、アイドルではなくなったという声が届いたけれど、「私たちのこのスタイルがいずれ紛れもなくアイドルになっていく」道を目指す、と。

上岡 緩やかに変わっていくアイドル像が提示され、見る側であるファンもその変化に気づきながら変わっていく、そんな理想的な関係が、いろんなアイドルとファンのあいだで紡がれていけばいいですよね。

私はたまたま書く立場の人間であるだけで、ファンの人たちのなかにはいろんな思いがあり、そして必ずしも声を大にして語るのが好きだったり上手だったりするわけではない、ということも大事なことであるように感じます。ライブの後にファン同士で何気ないお喋りをしているとき、ふと目の前の人の口からこぼれる言葉に、私も気づかされることがあるんです。


 

2023年に新体制となったlyrical schoolによる楽曲『NEW WORLD』のMV
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宮田文久|Fumihisa Miyata
1985年、神奈川県生まれ。フリーランス編集者。博士(総合社会文化)。2016年に株式会社文藝春秋から独立。2022年3月刊、津野海太郎著『編集の提案』(黒鳥社)の編者を務める。各媒体でポン・ジュノ、タル・ベーラらにインタビューするほか、対談の構成や書籍の編集協力などを担う。