what is editing?

石つぶてと、開かれた場:BUoY・岸本佳子に訊く——連載|編集できない世界をめぐる対話 ①

バラバラになりそうなほどに錯綜する世界のなかで、「編集」という営みは、何か役割を果たしうるだろうか。その問いを、ウェブメディアや出版といった狭義の「編集」のみに限定せず、広い知見を借りながら考えてみよう。そんなインタビュー新連載が、この「編集できない世界をめぐる対話」である。初回のゲストは、北千住のアートスペース「BUoY」代表・芸術監督である岸本佳子。いま東京で、最も先鋭的なスペースのひとつといっても過言ではない。地下は元銭湯、2Fは元ボーリング場という、20年以上放置されてきた場所を蘇らせ、2017年にオープン。「異なる価値観との出会いを創造する」というテーマを掲げるBUoYの、試行錯誤の日々について尋ねながら、「編集」という営みに異なる光を当てようとする——このインタビューもまた、答えのないひとつの試みだ。

TEXT BY Fumihisa Miyata
PHOTO BY Kaori Nishida

——インタビューの機会をいただき、ありがとうございます。変な質問ですが、まだ何のかたちもない企画の取材を、なぜ引き受けてくださったのでしょうか。

岸本 「編集を広義にとらえる」というのは面白いなと感じたんです。自分の仕事を「編集」だと思ったことはなかったので、新鮮でした。あと私自身、実はこれまで、なぜか「まちづくりを頑張るお姉さん」として捉えられることが多くありまして……。

——先鋭的なスペースのはずですが……。

岸本 私が女性である、ということも、そうしたイメージと関係しているとは思うのですが。ともあれ私は、大学院でサミュエル・ベケットという劇作家の研究をしていて、そこから派生して、クリストフ・シュリンゲンズィーフという前衛アーティストに興味を抱いて……というような変遷を経てきた人間でして。このふたりはある意味で対照的な作家なんですが、哲学的あるいは政治的問いを極めてラディカルに観客に突きつける作品をつくってきた点は共通しています。そういう人たちに対する憧れのようなものがあって、その憧れのうえにBUoYも存在しているんです。私のやりたいことは、「街に石つぶてを投げ続ける」ようなことであるわけですが、なかなか汲み取っていただけたことがありません(笑)

——空きスペースの利活用という文脈が、レッテルを誘引してしまうのでしょうか。

岸本 どうなんでしょうか。外から見るとカフェのイメージが大きいでしょうから、わからなくもないのですけれど……。

岸本佳子|Kako Kishimoto 北千住BUoY代表・芸術監督。演出家・ドラマトゥルク・翻訳家。2017年、複合アートスペースであるBUoYを立ち上げ。以降、年間プログラム、全体のディレクションを担当。米国コロンビア大学芸術大学院(MFA)修了。東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得満期退学。2009年より多言語劇団「空(utsubo)」主宰。2014年、『林さん』作・演出で芸創connect vol.7最優秀賞受賞。大学講師も務めてきている。

——そんなBUoYも、オープン6年目に入りました。

岸本 ここは北千住駅からも少し離れていますし、場所を立ち上げる時も、親しい方々から猛反対されました。私自身もここまで続けられるとは思っておらず、さらにはコロナ禍の状況も、当初は乗り越えられるだなんてまったく考えられなかったんです。妙な表現になりますが、BUoYはコロナ禍で持ち直したんです。今では、カフェに1日100人前後のお客様がいらっしゃいますし。

——どういうことでしょうか?

岸本 コロナ禍の前までは、もともと私の専門が舞台芸術だということもあって、ほとんど地下の劇場にだけ注力していたんです。2階のカフェは完全に赤字で、平日だとお客さんがひとりいるかいないかという状況でした。同じく2階にはギャラリーがあるのですが、演劇やダンスのプログラムを回すのがあまりに大変すぎて、そちらのアートプログラムをキュレーションする余裕が私になかった。BUoYとしては「異なる価値観との出会いを創造する」ことをテーマにしているにもかかわらず、まったく実現できていなかったんです。それでも地下の公演はいつも満員御礼で、小劇場界ではそこそこの知名度を得られました。

しかしコロナ禍により、収益の柱だった地下の劇場空間が稼働しなくなった時、途方に暮れたんです。幸い、経済産業省の補助金が受けられたので、一瞬は息をつきつつ……。ギャラリースペースは人が喋らないかたちで展示ができるし、夜の外食ができない若い方がカフェ巡りをするようになったので、カフェスペースもという感じで、私も2階でやれることをやろうと、特に現代美術の企画展に注力し始めました。そんな折、たまたまインスタグラムにアップしたカフェのプリンの画像がバズりまして(笑)。インスタグラマーの方々が、大挙していらっしゃるようになったんです。

——そうだったんですね(笑)

岸本 コロナ禍を経て、逆にそれまで死んでいた2階が息を吹き返したんです。並行して、地下の劇場を少しずつ開けていくうちに、それらが循環し始めたんですね。地下のプログラムを見に来たお客さんが2階でお茶をしつつギャラリーも見て帰ろうとか、お茶をしに来た人が「あれっ、地下で何かやっているの? ちょっと見て帰ろうか」とか。

立ち上げ当初は上手くいっていなかった異ジャンルの共存が、コロナ禍をきっかけに可能になったんです。たとえば、アーティストの飴屋法水さんや山川冬樹さんが地下での公演の合間に2Fで休憩している、そのすぐ横でインスタグラマーの方がプリンの写真を撮っていることがありました(笑)

——おふたりとも非常にアグレッシブなパフォーマンスで知られるアーティストです。普段は隣り合わない人同士が、隣り合っているんですね。

岸本 はい。そもそも、カフェのスタッフがみんなアーティストなんですよね。スタッフのひとりが企画して、カフェで演劇をやってみたこともあります。私は内心「大丈夫かな」と思って見ていたんですが、営業中のカフェが借景のようになって、すごくいい感じだったんですよ。

——オープン以来、現在に至る日々は、岸本さんにとっても“想像だにしなかったもの”がすっと入り込んでくる日々だったわけですね。「思っていたものとちょっと違うな」という時に、どれだけジャッジをするのかしないのかも、気になります。

岸本 初年度のプログラムは100%、BUoY主催のみ、つまり自分のジャッジが入っているものだけで組んでいました。2年目からは経営的な意味合いもあって、貸館というかたちでちょっとずつ外部のプログラムを受け入れるように。ここは難しいポイントで、私はアカデミズムのバックグラウンドを持っていることもあり、「ちょっとこれは、批評的にどうなんだろう……」と思うものがあったことも事実です。上演を見て、スタッフの一部がキレたプログラムもありました。すべて貸館のプログラムにしてしまったらBUoYではなくなってしまうので、アイデンティティを保つためにキュレーションの手をしっかり入れることは重要です。

ただ、コロナ前から気をつけていることは、ディレクターが一人の人間として抱えている限界が必ずあるということです。そこを自覚していなければならない、やっぱりジャッジできないことがある、と日々学んでおります。ですから、今のプログラムは全体の約半分ほどが私やスタッフの手が入った主催、ないしは共催のもの。残りの半分にかんしては、一切ジャッジをしていません。お問い合わせが来たら「どうぞ」とお貸ししています。幸いなことに差別・ヘイトを含むもののお問い合わせはいただいたことがないので、今後そのようなものがあればもちろん断ります。そのうえで、「これはちょっと、クオリティ的にどうだろう」「批評的にどうなのか」といったジャッジをしない枠を、必ずつくるということです。

——とてもラディカルなことをおっしゃられている気がするのですが……。主催するフェスティバルでは「芸術と抵抗」を謳い、街に石つぶてを投げてもいるBUoYに、そうではないものが入ってきても、アティチュードは揺らがないということですか?

岸本 はい。スペースは365日そこにあるわけですから。諸先輩方のお仕事は皆さんそれぞれに尊敬しているのですが、幾度か、「やっぱり排他的になってしまうのはよくないな……」と思う機会もありました。アイデンティティが確立されているということと、万人に開かれているということは、どうしたら両立できるだろうと、立ち上げ当初からずっと考えてきたんです。そのヒントが、コロナ禍を経て、すこしずつ見えてきた感じがあります。「閉じながら開く、開きながら閉じる」というバランス感覚が、5年を経て、ちょっとわかるようになってきました。

——その開閉のバランスによるものなのでしょうか、2021年10月に開催された「PUNK! The Revolution of Everyday Life」展は、観客も含めてものすごい熱気に満ちていました。

岸本 私も参加するアナルコ・フェミニズム・クィア・パンクバンド「ノンクロン」の主催で、同じくメンバーであるアーティスト・川上幸之介さん(倉敷芸術科学大学准教授)のキュレーションによって実現したものです。あの時はなぜか、「美術手帖」さんのウェブサイトの展覧会記事ランキングで、「PUNK!」展が1位になるほど、多くの方から注目していただいたんですよね。「これが1位ってどういうこと?」とも思いながら(笑)

——その熱気とは対照的な、2022年春に3週間行われた「BUoY地下・無為(ぶい)開放プロジェクト」も印象的でした。オミクロン株感染が急拡大する中、ぽっかり空いてしまった地下空間を、アーティストに開放するという企画です。ただ居てもいいし、稽古や練習をしてもいいし、ただしイベント使用は不可という。

岸本 以前から劇場が空きやすい月曜と火曜を中心に、スタッフが好きに使っては発信するという「BUoYラジオ」という実験はしていたし、無償で開放してみようというアイデアも出ていたんです。ただ、まとまった期間で開放しようにも、使用スケジュールが埋まっていてほとんど空きがないか、あるいは空きがあっても緊急事態宣言下で開放すらもできないかという状況だった。そんな折、緊急事態宣言は出ないまでもオミクロン株の感染が広がり、劇場使用のキャンセルが相次いだ結果、BUoYを創設してから初めて、3週間も地下の空間が空いてしまったんです。その直前にロシア・ウクライナ間で戦火があがったことも、個人的にすごくショックを受けていて……。ちょうど2階のギャラリーで「無為」という展示をしようとしていて、地下の空っぽの空間と、頭の中でビビッとつながったんですね。

地下に人が避難するようなものでもあり、開戦に対する抗議という気持ちもありました。イベントを禁止したのは、コロナ禍で場所が空いてしまったから開放するのに人が集まってしまっては本末転倒だから、ということですね。とにかく何か、自分のいいようにこの空間を使ってください、ということでやってみたんです。

——一部の使用者の記録がウェブ上にアップされていますが、ただひとりで淡々とタロットカードをやっている方がいるなど、面白い時間が流れていたようですね。

岸本 本当に、そうなんですよ。振り返ってみると、BUoYはいろんなことを実験的にやって、たくさん失敗をしていい場所だったのに、プロアクティブ(先を見越した状態)でなければいけないような感じになってきて、それはいったい何なのだろう……とも感じてきました。「無為開放プロジェクト」の時に改めて思ったのは、作品の「発表」の場としてのBUoYではなく、作品の「揺籃」の場としてのBUoYを育てていかなければいけない、ということでした。

——カルチャーの拠点として注目を浴びれば浴びるほど、自分たちが本来もつべきアティチュードとの間でのジレンマもまた出てきたわけですね。

岸本 それは決して悪いことではないし、劇団の方にとっても本気でやる、そのチャレンジができる場であるということは、すごくいいことだと思うんです。ただ、たとえば私がずっとオファーしたかった方々に実際にお声がけしたら、「BUoYでやるんだったら、もうちょっと鍛えてから……」というようなことをおっしゃられたこともあったので、自分に問い直しているところなんですね。先ほど申し上げた、場をジャッジせずに開く、どなたにもご利用いただけるようにするというのは、「ここでやってみていいんじゃないか?」と思っていただけるようにする、ひとつの方法かなと思っています。ゴリゴリに気合い十分の人たちばかりいても、入ってきづらいと思う方はいるでしょうし、むしろ、「あれ、意外といけるのか?」と思っていただける場であってもいい、と考えているところです。

——「揺籃」を「揺籃」のままに出すということは、「編集」という営みにおいてはなかなか難しいところです。ウェブでも紙でも、どうしても完成させたものを世に問うことが多いので……。かといってBUoYさんも、稽古を重ねるスタジオではないわけですよね。

岸本 これは私としても、非常に説明が難しいところでして……レジデンスを含めて、「揺籃」自体を目的としていらっしゃるスペースを否定するわけではまったくないのですが、あくまで個人的な感覚として、「揺籃を目的にすると、揺籃が難しくなる」という気はしているんです。驚くようなものは、まったく異なる文脈からポンと出てくることもある。だからここでの「揺籃」というのは、こちらが育ててあげる、提供してあげるということではなくて、ただ単に場をパッと開くということなんだろうと思います。

BUoYであればいろんな企画を常にやっているので、コンテンツも無数にあって、人もたくさんいて、アーティストもそこから何かを拾っていくんですよね。2022年には、芸術家たちがカフェをアトリエとして使い自由に創作を行う「アーティスト・イン・カフェ」を初めてプログラムに入れてみたのですが、アーティストがここで絵を描いているような動態展示を目的とするのではなく、まさに「ただ居る」の延長なんです。別に描いても、描かなくてもいいんです。

——描かなくてもいいんですね(笑)

岸本 「揺籃」を目的にしてしまうと、「この場を使わせてもらっているから何かしなきゃ」と思って、「何もしなくてもいい」ということができなくなってしまうと思うんです。とはいえ、「アーティスト・イン・カフェ」で滞在した芸術家たちは、地下にいる他のアーティストや、あるいはカフェで交流した人たちなど、ありとあらゆるコネクションをつくって帰っていきます。

そうそう、同じく昨年、ノルウェーを拠点にするアーティストとオランダ人アーティストの2人が、これまたBUoY初の国際アーティスト・イン・レジデンス・プログラムとして滞在したんです。でもこれ、私が一瞬立ち話をしたことがある人からBUoYという場所を聞いた彼らが、いきなり「BUoYってレジデンスはやってないんですか?」と連絡してきたことに端を発するんです。「やってないです」と言ったら、「それでも、ちょっと滞在していいですか?」って(笑)

——それでも岸本さんは場を開きました。

岸本 BUoYは、都市の中でのインスタレーションだと思っています。自分の劇団で舞台作品をつくるときは、エンタメ的な「同化」よりも「異化」ということを意識しています。ブレヒトの言う、普段見えていたものが、作品を経た後にはまったく違うものに見えるというようなことですね。それを作品一回限りではなくできるだけ長期間、都市の中での異化効果ということを、インスタレーションとして続けてみたら、いったいどんな変化が起きるのか……BUoYは、そんな社会実験のようなところがあります。

加えて、私は大学では文化人類学を学んでいたのですが、フィールドワークを行なう場合、自分がメディエーター(媒介者)になるわけです。演劇でも、ドラマトゥルク(編注:劇作家や演出家と共に、そのリサーチや制作をサポートする役職)として活動することも多く経験してきたのですが、そのときもケアをしたり、関係者のコミュニケーションを調整する中継ぎとして動いたりする。今、BUoYでも同じなんです。普段同居することがない人たちが隣り合う場を設定しつつ、アーティスト・団体・管理会社・地域・行政との間でバチバチッとコミュニケーションがうまくいかないときに、何とかする。

——自由にならない世界の中での媒介者、という立ち位置は、編集的観点からもよくわかります。

岸本 以前、リモートでしか演出ができないという作品をつくったことがあり、細かい身体の動きなどはまったく演出できなかったのですが、思わぬ高評価をいただいたことがありました。すべてをコントロールしたくなるけれど、アンコントローラブルになったときが一番面白いこともある。その意味では、今は私が責任を引き受けるかたちになってしまっているBUoYを今後、誰に継承してもらうのかというのも大きな課題です。

活動のモデルとしている人たちはいるんです。ドイツの劇場、HAUやミュンヘン・カンマーシュピーレ、その双方に密接にかかわっている人物、マティアス・リリエンタール。あるいはベルギーのクンステン・フェスティバル・デザールを創設したキュレーター、フリー・レイセン。マレーシアのアーティスト・コレクティブであり、メンバーのひとりは政治家になったファイブ・アーツ・センター……。私も日々悩み、いろんな人に相談していますが、先駆者たちを心の支えにしながら、芸術と社会との共創関係を深めていきたい。その時には、BUoYというスペースが、生きるための哲学をインストールし更新していく場所として、何がしかの変化に貢献できたと言えるかもしれません。

 

profile

宮田文久|Fumihisa Miyata
1985年、神奈川県生まれ。フリーランス編集者。博士(総合社会文化)。2016年に株式会社文藝春秋から独立。2022年3月刊、津野海太郎著『編集の提案』(黒鳥社)の編者を務める。各媒体でポン・ジュノ、タル・ベーラらにインタビューするほか、対談の構成や書籍の編集協力などを担う。