元号が変わり、そしていよいよ2020年を迎える東京。時代の変化の後景にある「都市の記憶」を、音楽家 / 文筆家の菊地成孔が極私的な視点で紐解く好評連載シリーズ第32回!
TEXT BY NARUYOSHI KIKUCHI
ILLUSTRATION BY YUTARO OGAWA
「来年のことを言うと鬼が笑う。と言うが」と言う出だしを、エッセイストが安心して使えるのはいつまでだろうか? もう令和の世には使えなくなる気がしないでも無い。そもそも「鬼」は、現在すでに固有名詞ではなく、形容詞である。平成の御世には「鬼パねえ」と言う言葉すらあった(筆者はこの言葉が、虫唾が走るほど嫌いだった。あと、もう誰も言わないからいいけど「そもそも論として」というのが、軽く貧血を起こすぐらい嫌いだ。サラリーマン同士が、真面目な顔で、「いやだから、これはそもそも論としてさあ」などと隣席で口角泡を飛ばしているのが視界に入るにつけ、「なんだそもそも論って? 宇宙の起源について学術的なことを話してくれるなら許すが、たかが社内コミュニケーション不全で話が食い違ったとして、その程度の話を再確認しようという意図から出た言葉として、何だこの恥ずかしさは? カタギが作ったスラングだからだ。カタギはスラング作りには向いてない。スラングは不良やキ○ガイが作るものであって、「そもそも論」だったら、遥かに「もそもそ論」や「そろそろ論」の方が良い。前者は、パンとかサブレとか、口中の水分を吸収する食品を口いっぱい頬張って、その名の通り、粉を吹きながら誰もがモソモソ論ずる論である。これは良い、第一に聞き取れないところが良い。そして「そろそろ論」もかなり良い。「そろそろ論として、もう俺たち先ないよな。別れよう」とか「そろそろ論として、k-popとEXILE系は今年いっぱいで共倒れだろうね。いや好き嫌いじゃ無いよ。オレ個人は3代目も防弾も好きよ。あくまでそろそろ論として!!」みたいに使われる。と、さすが年末。カッコ内文章量最大記録を達成! よく「かっこが長くて読みヅラい」と言われる筆者だが、そもそも論として、かっこ内のフォントのサイズを変えれば一発で済む話なのだ。今回から小さくしてください)。
まあ、「凄い」の代用語が、生まれるなり天井知らずのインフレを起こすのは言語と程度という構造の前では自明だとしても、今「来年のことを言うと鬼が笑う」と言っても、下手すると最悪、「来年のことを言うなんて鬼笑う」と、形容詞にされてしまうのがオチだし、虐められた過去を持つ者どもが共有的に作り上げる、気持ち悪いネットスラングの中でも至高のものとして筆者が崇めている「ワロタ」(キーパンチしただけで死にそう・笑)とくっつけて「菊地が来年の予測とか言ってアタマおかしいこと書いてて鬼ワロタ草」と言われる可能性が1%でもある限り、「来年のことを言うと鬼が笑うなどと言うが」と言う書き出しは絶対にやめようと思う。「エッセイストが安心して使えるのはいつまでだろうか? もう令和の世には使えなくなる気がしないでも無い」どころではない、書いているたった今、もう使えないことが決定。
変容したのは「鬼」だけではない。「笑う」もそうだ。昨日『ジョーカー』という映画を観たが、痛快この上ない、クリストファー・ノーランの暗い世界観なんかクソ食らえの、明るく楽しい作品で、何せ、ものすげー金をかけて、筆者が一番好きだった75~79年ぐらいの(コッチ市長時代)、一番汚くて危険なニューヨークがほぼほぼ街ごと再現されていたのが鬼パなかったし、やっとホアキンをハラハラしないで安心して観られるのも良かったし、何せ見事なまでの『タクシードライバー』換骨奪胎ぶりは誰にだって分かるチャームで、ホアキン演じるアーサー(のちにジョーカーになる男)がトラヴィスの顔に似てくるあたりは、さすがデニーロを迎えただけあって、「Wデニーロメソッド」と言う感じでシンクロが実に力強い。トラヴィスが少女買春をしているピンプとその一派を撃つ銃と、アーサーが、偽善と正しいマッチョに満ちた司会者(デニーロ演)を射殺する銃は口径が同じである。
何せ、この作品は「笑うこと」に関して、ネット活動をこじらせて、3次元で笑うとき、話の流れと関係ない、あるいはねじれた関係(主に、退行的な自閉によって、相手が話しているときに、何かの考えに取り憑かれて、それに笑ってしまう。と云った)によって生じる、他嘲笑、自嘲笑、ヒステリックな発作笑、等々、「気持ちの悪い笑い=異常な笑い」しかできない者共(性別問わず)の急増によって、彼ら(性別問わず)が77年当時のボンクラがトラヴィスにこぞって移入したように、前半では、彼らの移入を「キモい」アーサー(の笑い方)に局所集中させておいて、最後の最後に、アーサーの引きつった笑いが、養子縁組による血の繋がっていない母親からの激しい虐待によって受けた、頭骨や脳膜に対する打撲による、脳の損傷、つまり外傷性のものであった事を明示し、あれよあれよと云う間にアーサーがカリスマ性を得て、キモいやつで無く堂々とした悪い奴になってゆく根拠が、言わばニューロティカからの脱却を見せてゆく過程に、トラップを仕込んでいる点が素晴らしい。ニューロティカは基本的に自己拘束的であり、覚醒できない。カリスマを得るのは覚醒者=狂人なのである。
アーサーは、トラウマの忘却者=ニューロティカとして始まり、その言語化(物凄い行動力による、正しい自己分析)によってどんどん精神的に健康になり、「この世界」からの、武具(銃)の獲得も相まって、猛スピードで精神病に至る。と云う意味で、合衆国のフロイディズム使用が、もはや臨床治療にはなく、主に映画の脚本、登場人物の人格設定用に稼働していると云う筆者の持論をエゲツなく見せてくれた。DCGJ。
と、この作品の「キモい笑い」と云う罠にシンプルに引っかかる「ちゃんと笑えない人々」でいっぱいの世界に於いて、「来年の話」をすると、「鬼」が「笑う」などと云うことは、もう、昭和のニュアンスで伝わるのは全然無理だ。と、途方にくれた上、すでに疲れたので、早速、来年の予測に入る。
来年は、いよいよ天皇の生前退位による新元号の始まりと、当連載のタイトルにあるように、うんざりするような2度目のオリンピックの前年として、様々なことが起こるであろう。まず間違いなく、大河ドラマは東京オリンピックを描く日本近現代の歴史絵巻になる。おそらく脚本は宮藤官九郎、音楽は大友良英で、主役は複数性にならざるを得ないが、大人計画の俳優が大挙大河に押し寄せる様は壮観であろう。オープニング動画は、VFXを駆使したものになり、筆者の直感では、意図を超えて『大日本人』の影響下に位置する。
政治的なムードは、誰かが仕掛けた「安倍首相を中心とした右傾化=ファシズム国家の完成」と云う、実のところ絶対にあり得ない事実を捉えたパブリックイメージが根強く残ったまま、全く別のファシスト候補が現れる筈だ。彼と安倍首相も、全く直接関係はない。彼を生み出すのは、SNSにほぼ全権が移譲された「世論」の予期不安としての「ファシズム(待望)」を、無意識的に背負って立つ、ストリートのおぞましい英雄で、ヒトラーがそうであったように、具体的で明確な敵を設定した、ベタベタなアティテュードとキャラクターを纏うだろう。敵はなんでも良いが、それがもしNHKだった場合、大河ドラマでオリンピックを扱うNHKと、フルコンタクトしない緊張関係を生む。その無意識的波及は、例えば大河主要キャラクターの、スキャンダル発覚による降板劇が連鎖するとか(下手をすると、翌年の大河にまでその連鎖が続く)云った、想像し得ない形で現れるであろう。
正恩は詰めに入ってしまった。核弾頭を炸裂させても、させずに腰抜けた(先代までと同じ)威嚇発射を続けても、どちらにしても負け。と云う状態から抜け出せないままだろうし、それを囲い込んだのは、合衆国でもバカ集団のトップを誇る、都市部の白人リベラル達が、気を失いそうになるまで怒ろうとも、当連載で指摘した通り、非戦大統領であるトランプの業績である。トランプは来年も戦争と呼べる戦争は絶対に起こさない。と云うか起こせない。
ジャニーズ・エンターテインメントはキンプリを打ち出して、平成ジャニーズの勇退路を次々に打ち出す筈だ。『GQ』誌の恒例「メン・オブ・ザ・イヤー」を、高い確率でキンプリは受賞する。これは記録の上では、嵐の松本潤が08年に25歳で受賞した、ジャニーズタレントの最年少記録を、しかも集団的に更新することになる(キンプリは最年長で24歳)。その際『GQ』は、彼らのインタビュアに、高い確率で音楽家の菊地成孔氏に白羽の矢を立て、、、、、うわーしまった!! これは昨年末にガッツリ書いてから、逡巡の末に破棄した「来年(2019)の予測」だった!! しかし自分の予測の正解率に震撼する思いである。まあ、実は今書いたからであるが。
さて、本物の「来年(令和二年)の予測」をする文字数が、もう些少になってしまった。予測はあらゆる角度から100トピックほどあるのだが、断腸の思いで一つだけ書くことにする。来年は「嫌煙権」から派生的に「嫌咳権(けんがいけん)」が生じ、あっという間に強い具体性を生じるだろう。
スターバックス等のカフェ空間や、あらゆる公共施設には、入り口に紙マスクが置かれ、現在での、食品加工工場並みの強制力でマスク着用が義務付けられるだろう。ハンドルネームの定着、個人情報漏洩への恐怖、化粧技術の発達(顔面は最大の個人情報である)、と云う、2次元から3次元への壁なき越境の流れと併せ、イスラム圏でのヒジャーブ(顔のベール)定着の日は近い。
「発作的に強い咳を連発する方用」に「喫煙室」ならぬ「発咳室」が設けられ、噎せてきた人々は、急いでそこに駆け込む小走りが許可される。手洗いは現在よりも遥かに頻繁な行為として定着し、強迫的な洗浄(心理的根拠は風邪の予防ではなく、罪悪感と恐怖感)と消毒によって、人々の手のひらはあらゆる有機的なヴェールを失い、ダンボール紙のようになるので、掌用保湿剤の売れ行きが、クラシックス(「桃の花」とかね)から、最新式(製薬会社か出すにしても、化粧品会社が出すにしても、それは素晴らしいデザインと品質になる)まで、二次曲線的に上がるであろう。
これが、近代で唯一禁酒法を制定した過去から、他罰の訴訟社会として、自己正当化と被害妄想と攻撃性がリベラリズムと交換されたアメリカの病理が、我が国に感染している症例であることは言うまでもない。文字通り、アメリカが咳をすると日本が風邪をひく(と強く思い込む)のである。副流煙で死んだ老人や子供を、あなたは1人でも知っているだろうか? 肺癌と喫煙の関係は関数的ではない。筆者の亡父は、日本料理の板前だった事から、九十年近い人生で1本のハイライトも吸った事がないまま、相互依存と言えるほど深い愛で結ばれた妻がアルツハイマーに罹患した瞬間に、いきなり肺癌に罹患して、妻が完全に自分を忘れる直前に、滑り込むように追い抜いて亡くなった。人は、他者が流出させる廃棄物、あるいは環境そのものに充満している何らかのウイルスによって発病の準備状態に至ることも多々あるが、風邪からあらゆる癌まで、自己の免疫低下によってしか発病しない。自己の免疫低下を他罰すると云う、他罰の合理化はもちろん無限に可能だが(あいつ=会社=社会が、自分に疲労とストレスを与えている。と云った)、自責も他責も適正値で収まらないのが人類の属性であることは言うまでもない。
なので筆者は、「喫煙、乃至、二次喫煙による発症」と「共有空間内での咳による発症」の確率を比べるなどと云う、リベラリストのような愚行はしない。あらゆる「狩られるもの」は、気分なのだ。今日、集団的に疎ましがられているものが明日狩られる。数値はいくらでも捏造できる。あなたは昨今、電車内で、タクシー内で、図書館内、映画館内で、マスクをせずに派手に咳をしている人物に対し、あまつさえ、あなたをマッサージしたり、治療したり、あなたに直接接触する者が咳き込んでいる時、「まあ、タバコ吸ってるわけじゃないし」とか何とか言って、寛容になれる、と断言できるだろうか?
むしろ筆者が主張したいのは、狩りの対象が咳に移った時、喫煙に対する寛容さが増すと筆者が直感している事である。「実際に副流煙で死んだ奴なんて見た事ないよ。だけど、咳は発がん性物質よりも遥かに具体的に細菌を撒き散らしているだろ。誰だって隣のやつの無神経な咳で風邪もらっちゃった事、あるよな?」と云う他罰的詭弁の説得力が、「まあ、もう少しさあ、制限内で、レストランの食後にタバコを吸えるようになっても良いんじゃないかな。匂いのつかないやつ、って云うか、葉巻みたいに、香りが良いのもあるじゃん。店側も排煙の建築設計だとか設備とかをアップグレードして」といった詭弁の横滑り、と言うより、虐めの生贄の移動。は確実に起こるであろう。電子タバコ全般の開発と定着もそれを応援する。
筆者の、こうした直感(筆者は類推しない)は、44歳までチェーンスモーカーで、12年間タバコを(何の苦もなく)止めていた自分自身が、特に理由もなく、或いは、無意識的なストレスによって、或いは、社会に対する、炭鉱カナリア的な体質化した対応力によって、喫煙(電子タバコ)を突如再開した事に依る。筆者は3年前にタトゥーを入れ、今年から喫煙習慣が復活した。全ては来るべきオリンピックへの無意識的なアゲインストであると自己分析している。そして、裸眼ならぬ裸の口唇で咳をする事が許されない、嫌咳ヒステリーの社会がやってくるのである。今年もご愛読ありがとうございました。タイトルにあるように、連載はあと7回で終了する。
菊地成孔|Naruyoshi Kikuchi
音楽家/文筆家/音楽講師。ジャズメンとして活動/思想の軸足をジャズミュージックに置きながらも、ジャンル横断的な音楽/著述活動を旺盛に展開し、ラジオ/テレビ番組でのナヴィゲーター、選曲家、批評家、ファッションブランドとのコラボレーター、映画/テレビの音楽監督、プロデューサー、パーティーオーガナイザー等々としても評価が高い。「一個人にその全仕事をフォローするのは不可能」と言われるほどの驚異的な多作家でありながら、総ての仕事に一貫する高い実験性と大衆性、独特のエロティシズムと異形のインテリジェンスによって性別、年齢、国籍を越えた高い支持を集めつづけている、現代の東京を代表するディレッタント。
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