CITY OF AMORPHOUS

1994年の「ガキの使い」——連載:菊地成孔「次の東京オリンピックが来てしまう前に」28

「2020年」に向けて、大なり小なり動きを見せている東京。その変化の後景にある「都市の記憶」を、音楽家/文筆家の菊地成孔が、極私的な視点で紐解く連載シリーズ第28回!

TEXT BY NARUYOSHI KIKUCHI
ILLUSTRATION BY YUTARO OGAWA

令和になってすぐに何が起こったかといえば、自民党が、まあ、前回を10議席ほど下回ったとはいえ大勝ちしたということが挙げられるだろう。あれだけ嫌われてるプライムミニスターがそのままジリ貧に失脚しないどころか、結構な長きにわたって安泰であるのは何故か? 気が利いているようで、全く利いてないことを言うからである。

「え? なになに? もう一回言って、よくわかんない(困惑)」とおっしゃる方々のために、もう一度丁寧に言おう。安倍政権が、嫌われながら、結構な長きにわたって、なんだかんだ安泰な原因は、一つしかない。それは、「一見、気の利いたことを言っているようで、実は全然気が利いてないことしか口にしないから」である。お分かりだろうか?

なにそれ意味わかんない。なるほどそうだろう。人を動かしているのはトラウマである。トラウマは最近、アメリカ人によってカジュアライズされてしまい、「過去のキツい思い出」ぐらいの意味にまで俗転しているが、本当の意味は全然違う。主に幼少期に受けた、ひどい心の傷(心的外傷)が、あまりの酷さ故に、一回、忘れられる。覚えていたら生きていけないほど酷い傷だからである。

だが、無理やり忘れているだけで、心の中から消えてしまったわけではない。消えてしまったわけではないどころか、忘れられていることを良いことに、我々の行動を左右するのである。我々は、変な癖とか、自分ではどうしても納得できない行動の反復とか、果ては神経症の症状とかを、理由のわからない不条理だと受け取る。文字通り「なにこれ意味わかんない」である。それが過去に負って、現在は無理やり忘れてしまっている心の傷によるものだと思い出し、口に出した時、奇妙な行動や神経症の症状は霧散してしまう。これがフロイドの基本装備である。

「あたし、幼稚園の時ね、キャベツ食べてたら虫が入ってたの。それでその場でゲロ吐いちゃったんだ。それ以来、それがトラウマでキャベツがダメでさあ」

と云ったよくあるセリフは、短い文字数の中で2回間違っている。1)記憶していて思い出せることは、どんな悲惨な思い出でもトラウマではない。2)それの結果として、因果律で結べる後遺症は、トラウマによるものではない可能性が高い。

さて、我らがベーアー(安倍首相のこと)は、一見気が利いてるようで、実は全く気が利いていないどころか、ほとんど意味不明なことばかり口にする。小泉トンズラからのバトンを受け、腹を壊して中退した時のスローガンは「美しい日本」。漠然とライトサイド、と云う以外、全く意味がわからない。

復帰して最初が「アベノミクス」、これは日本人の記憶にも新しい「レーガノミクス(レーガン式経済政策)」を、そのまま流用したものだが、単に「ノミクス」と言いたかっただけで、ロナルド・レーガンが合衆国で行なった経済政策との政策的な関連性はゼロである。全く気が利いていない。

ベーア語録の初期代表が「3本の矢」であろう。誰でもご存知であるこの故事は、「一本一本は弱く、すぐに手折られてしまう細い矢も、三本合わせれば、簡単に折る事は出来ない」と云う、親から三兄弟の息子に向けた、兄弟の一致団結の大切さを説いたものである。故に「第一の矢」は完全に誤用である、故事に沿うならば、一本ずつ射ったら三本全滅となる。

ネットなどを読むと、訳知り顔のバカが、ベーアの悪口を書きまくって得意顔である。だったらバカよ、君に問いたい。国民の総意は君よりはるかにバカなのであろうか?「いやあ、それは民主がね、余りにも情けないと(プシュ!)」最後の擬音は、ベーアの射った第一の矢でバカが射殺された音である。

そう云う事は全く関係ないのである。

「国民に憎まれてるぐらいが、トップとしては丁度いいんだよ」と云った、昭和の名横綱、北の湖を指して相撲ファンが言ったようなセリフもあり得ない。票操作もない、ベーアの恩恵を受けている票田による勝利でもない。

トラウマによるものなのである。

我々は、小泉純一郎時代を忘れている。厳密には、小泉退陣後の自民の自滅から、正規の大転換という、苦笑もののリセットとともに襲い掛かった震災の記憶とニコイチで忘れようとしている。とも言える。小泉政権下から正規の大転換、という時空間は、震災がこの国を変えてしまう直前の、奇妙なユートピア幻想みたいなものと甘く結びつき、奇妙に癒着して忘れられようとしている。しつこいようだが、トラウマに於ける忘却は、経年による記憶の風化のことではない。

小泉純一郎は、コピーライトに大変な才能があった。「郵政民営化」「国民は痛みに耐えなければならない」たったこの二つだけとっても(もっと山ほどある、というか、小泉が口にする言葉は皆そうなのだが、ベーア語録の代表作と数を揃えた)、言葉に鋭さと重み、何より強度と魅力に満ち満ちている。

そして小泉純一郎は、公約は一切果たさず、国政を荒らしに荒らしまくって、しかも失墜することなく、スラスラッと逃げおうせた。今や上の倅も下の倅もそこそこの実力者視されていると言って良い。

我々は全員、「小泉純一郎とは何だったのか?」という問いを、自分の中に発せなくなっている。「いやあ、震災とかで、それどころじゃないよ」というのは合理化という(トラウマによって捻じ曲げられた結論を無理に正当化すること)。小泉純一郎の顔を思い出せても、声を思い出せても、我々は、自分が小泉をどう思っていたか?それが彼の仕打ちによってどう変えられてしまったか? 日本はその意結果どうなったか? こうしたことが「思い出せなく」なってはいないだろうか?

この、奇妙な透明感、暖簾に腕押し的な無重力感こそがトラウマの産物である。我々は忘れたのだ。

ベーアーがあれほど批判され、軽蔑され、憎まれながらも、国民が自民党を勝利に導くのは、ベーアーが、「小泉のように、見事に気の利いたことをカッコよく言わない」ことによって、逆説的、自動的に「小泉と違って、何かしてくれそうな気がする」という、腹の奥底にあって、思考と分離して、どうにも動かしがたい実感を払拭できないせいである。

このエッセイは、もし安倍政権の安泰を、精神分析的なやり方で崩そうとしている、とするならば、予め失敗である。分析者である筆者が、「あなた(がた)のトラウマはこれこれこうですよ」と、回答を言ってしまった瞬間、被分析者であるあなた方は、やっと触手みたいな先端に触れた貝の如く、ギュッと再び殻に閉じこもってしまい、中から「全然違いますよ~。小泉なんか関係ないですよ~」と、くぐもった音で抵抗するだけの、固く閉じ直した貝になってしまう。

分析行為は、トラウマ探偵行為である。誤解されやすいが、犯人を発見するのは分析医ではなく、クライアント(一般的に言うと、患者)側である。とっくに犯人がわかっている分析医が、まだわかっていないクライアントに、自ら気づかせる為に、遠回しに遠回しに遠隔操作を行なって、クライアントが自ら発見した状態に持ってゆく行程なのである。犯罪モノのTVドラマで例えるなら、父親(母親でも息子でも何でも良い)が息子と

親「あれー、どうしてこんなになっちゃうんだろうな」
子「、、、、、、、、」
親「おかしいなあ、もしこいつが犯人だったら、理屈に合わないよな」
子「でも○○○じゃないかな、、、」
親「、、、、、、、、、」
子「違うか、じゃあ、じゃあ、○○が○○で、、、、」
親「うーん、、、、それってさあ、、、、さっきさあ」
子「あ! わかった!! 犯人は菊地だ!!!」

と云った過程を経ることである。父親が最初から子供に、欠伸しながら「ああ、犯人は菊地だよ」と断言し、きちんと説明ができればできるほど、子供は抵抗し、自ら犯人を発見する事から遠のく。

筆者はだから、今回(分析治療という意味では)失敗することをわかった上で書いた。この連載は毎度毎度キチガイ扱いされているが、今回も変わらないだろう。しかし、国民一人一人の家に行って「なんかベーアーって変なことばっか言ってると思わない?」あたりからゆっくり初めて「あ! 小泉!」と誘導することを約1億回繰り返す苦労は考えるだにハンパではない。

タイトルは、安倍政権のゆるい安泰と時を同じくして令和になった瞬間に起こった、我が国のショービス界、二大帝国の激震に関するものである。筆者には離婚した前妻がいて、現在は友人である(「ねえ? 男と女に友情ってあると思う?」という、誰が口にしても忌々しいだけのセリフに対しては「離婚して20年経って、友達付き合いできる相手がいたら、辛うじてその人がそうじゃないの?」と回答するようにしている)。彼女と筆者が結婚し、楽しく暮らしていた頃、二人は、ダウンタウンの「ガキの使い」をVHSに録画して、毎晩楽しく見ていた。それが、のちに離婚してしまう夫婦の、当時の絆の一つだったのである。

長らく音信不通だった親友の女性こと前妻は、突然筆者のパソコンに「25年前のガキ」というタイトルで、VHSテープ3本分の「ガキの使いやあらへんで」をデータにして送ってきた。

吉本のお家騒動は、少なくとも、マスコミが騒いでいるよりも遥かに複雑である。島田紳助の失脚、カリスマ林社長の死後の処理のあり方、徒弟制という上下関係を前近代のものとして外したNSCの誕生とともにダウンタウンが生まれたことまで考慮に入れても、「吉本興業、悲願の映画業界への進出」を巡る、天才松本人志唯一の大失策(吉本への、ツケとカリ)を考慮に入れないコメントは、すべて画竜点睛に欠く。そんな事はどうでも良いのだけれども、果たして開いたデータに写っていたものは、裸にグンゼの白パンツを履いて猫を抱き、ダウンタウンとスタッフ一同に招集をかける、不機嫌で権力志向の(もちろん、これは松本人志が演じさせたキャラクターだが、天才は一瞬にして対象の深部を読み取る、とも言えなくもない)、東京支部(当時)の下っ端マネージャー、岡本の姿であった。

まだ全部観ていないが、岡本は「それって日テレ」というコマーシャルの出演権を賭けて、別のマネージャーとグンゼの脱がしあいを行い、顔面をベチベチに張られ、肛門も男根も丸出しで、気の毒になるほど惨めに敗退していた。のちに「ドS、ドM」という、単なる流行語を超えた、エッセンシャルなコピーを生み出した、フェティシズムの徒であるダウンタウンの2人を始め、そこにいる全員が腹を抱えて見ていた。それは、嘲笑でもあり、賞賛笑でもあり、親しみでもあり、ざまあ、と云った憎悪でもあり、ひでえなあ、なんだこれ、という生理的嫌悪感であり、何より性的快感であり、それらすべてが「痛快」という感覚に収斂されていた。スーパーライト虐めと言って良い。

筆者は、関東の人間がさも面白そうに使う疑似関西弁が大嫌いである。神奈川だの秋田だのの出身者が、ニタニタ笑いながら、あるいは敢えてむすっとしながら「何やねん」とか言うたびに虫唾が走る。それはおそらく、大阪弁ネイティヴの人々よりも強い嫌悪感であろう。筆者は、本州の最東端である千葉県銚子市、つまり極東の出身者である。「アホか」すら日常的には口にしない。

しかし、この時ばかりは、比較的長いセンテンスが我が口から自然に出てきて、我がことながら驚いてしまった。それは

「なんや社長いうたかて、自分、岡本やろがい」

我ながら見事なイントネーションは、大阪弁ネイティヴの人々をして、全くフェイクと気づかせないだろうクオリティにあった。2019年の吉本お家騒動と、1994年の「ガキの使いあらへんで」の対置は、筆者の内部から、筆者も知らない能力、内部に押さえつけていたスキルを一瞬にして引き出してしまったのである。94年は細川内閣、その後、羽田内閣、村山内閣、橋本内閣、小渕内閣、森内閣と云った、絵に描いたような能無しで平均的で短期政権な首相の時代というジャンピングボードを踏んで、7年後に小泉内閣が空中に誕生する。当時絶頂期を迎えていた「ガキ」に於ける岡本がその時、番組的、社内的にどの地位にいたのか、筆者は知らないし、特に知りたくない。

profile

菊地成孔|Naruyoshi Kikuchi
音楽家/文筆家/音楽講師。ジャズメンとして活動/思想の軸足をジャズミュージックに置きながらも、ジャンル横断的な音楽/著述活動を旺盛に展開し、ラジオ/テレビ番組でのナヴィゲーター、選曲家、批評家、ファッションブランドとのコラボレーター、映画/テレビの音楽監督、プロデューサー、パーティーオーガナイザー等々としても評価が高い。「一個人にその全仕事をフォローするのは不可能」と言われるほどの驚異的な多作家でありながら、総ての仕事に一貫する高い実験性と大衆性、独特のエロティシズムと異形のインテリジェンスによって性別、年齢、国籍を越えた高い支持を集めつづけている、現代の東京を代表するディレッタント。