「2020年」に向けて、大なり小なり動きを見せている東京。その変化の後景にある「都市の記憶」を、音楽家/文筆家の菊地成孔が、極私的な視点で紐解く連載シリーズ第29回!
TEXT BY NARUYOSHI KIKUCHI
ILLUSTRATION BY YUTARO OGAWA
当連載の、在日米人の評判はもう地獄の底の中でも最悪と目されているゲトー、ぐらいに酷く、とにかく、こないだまで大変フレンドリーに、笑顔で接してくれていたジャズファンの大学関係者など、筆者の万倍も知性的である人々から「(笑顔)菊地サン、アナタ、大変なユーモリスト。でも、トランプ支持だけは。。。。。(悪魔のような顔と声になって)ダメね」と、冷たいとか痛いとかではなく、それはもう、燃えるような、炎のような、炎の転校生のような劫火、というしかない炎っぷりでメラメラと睨みつけられるので、ああ、こいつらはこの炎でもってベトナムも焼いちゃったし、イラクも焼いちゃったし、オレの地元の千葉県銚子市も黒焦げに焼いちゃったんだな(筆者は父方の兄弟二人と母方の兄弟一人を、太平洋戦争の銚子空襲で焼夷弾によって焼き殺されている)、クリスチャニズムというより、ゾロアスター教?(善悪二元論と炎の神聖視と鳥葬が特徴。「スター・ウォーズ」シリーズを律している概念と見立てる洒落者も)等と、とにかく仲の良かったリベラルな合衆国人が、次々と筆者を焼き殺そうとするので、しつこいようだが、え?トランプって、共産主義者ではなく、民主主義者である諸君らが選挙で選んだんじゃないの? オレは彼を支持するし、非戦だと思うけどな、君たちと同じ考えだよー。あ、非戦だから嫌いなのかな?等と言ったりなんかしたらもうアナタ(笑)、腫れ物を指圧の要領で、思いっきり親指の腹で押し潰したみたいな事になって、様々な色の美しい虹彩達が火炎放射器みたいになるので、タイトルの脇に、「アメリカ人読むな」「アメリカ人火気厳禁(小銃からナパーム弾まで)」「私はあなたたちと同じトランプ支持者です!!」という(笑)、一文を添えて(やめとけよもう、という自分からの忠告が全く聞けないほど面白くなってしまっているオレ・笑)、毎月毎月トランプを讃えようとする衝動と戦わなければならない。敵は自分の中にあり。常在戦場。
とさて、そういう訳で、次回から全文の英訳も載せ、アメリカ人も読むと思うのだけれども(笑)、いきなりだけれども「N国」を「N国」と略称している事それ自体が、ストリートやテレビジョンではなく、SNSからスラングが生まれる事が完全に決定した令和のセンスであろう。勿論ISが「イスラム国」と自称し、マスメディアに「国じゃねえだろ」とばかりに「IS」に略称されてしまった心理的な動きの逆行型と言える。彼=N国らが何か恐ろしい事をしでかすのではないか、イスラム国のように。或いはナチスドイツ(=第三帝「国」)のように。と云う予期不安は、まあ漠然とした民意として、特に歪とも正しいとも思わないが、何が言いたいかと云うと
<NHKから国民を守る党>
と云う正式名称を略称化するとき、令和では(順当に)「N国」になったが、平成だったら「守る党」だったろうし、更に、昭和だったら「民守党」と略されていたに違いない。と云う事である。ヤバいでしょ「民守党」(笑)、選挙速報なんかでは「民守」と呼ばれるのである(笑)。時代を感じで頂きたい。「民守」から「N国」へ。言語センスの集団的な導引力インターネットしかないでしょ(笑)。
筆者は、政治的なアティテュードとして、選挙には投票しない。生まれてから一度もした事がないから、そもそも投票箱がどこに、どんな風においてあるかも知らないし、目の前まで手を引かれて連れてゆかれても、つっかえずに投票できる自信さえない(関係ないが、経済的なアティテュードにより、「ポイント」と云う概念を使用しない。あらゆる1ポイントも筆者は持たない。人々がカードまみれになる恐怖は、偉大なるPLASTICSの「CARD」と云う曲を聴いてから身に染みているのだ。それは1980年のこと)。突き指とかして仕事に差し支えるに決まっているので、尚更しない。
まあ、それは兎も角、N国の代表者である立花氏が、マツコ・デラックス氏をポイントした。インタビューで「東国原氏や、爆笑問題太田氏だってあなたの糾弾者なのに、何故マツコ氏だけ?」と云う質問に「そりゃあ、影響力が違うでしょ(大意)」と述べていたが、これは虚偽とは言わないが(一面の真実でもあるし)、相当上っ面で答えている。
人は、無意識の深みからことを判断している。が、その深みにまで沈んで根拠とするのは大変に難儀であり、ほとんどの人はそうしない。もっと表層近く根拠を設定するのである。「動物的な勘」を判断力の主軸に自認する人も、「知性と熟考」を判断力の主軸に自認する人も、その点では同じである。
筆者の考えでは、立花氏がデラックス氏をポイントした、その根拠は、影響力、話題性の大きさ、と云う上っ面を一枚剥がせば、かなり知的な判断力が働いているとしか言いようがない。
人によっては、「嗅覚」とするかも知れないが、筆者は巷間称される「嗅覚」も「感性」も、ざっくりと「知性」と一括りにするので、読者に齟齬を感じさせるかも知れないが、そのまま進む。
デラックス氏のキャラクター表層は「デカくて強面のオカマの毒舌家」であり、第二層は「非常に知的でありながら優しく、温かい性格を照れで隠している」であろう。
この第二層は、バルネラビリティーと紙一重に位置する。デラックス氏が「隠し」ているものは、確かに、優しく温かいヒューマニストの側面もある。筆者は「5時に夢中」に出演した際、カメラが止まった瞬間に、デラックス氏に「何よアンタ~。新宿にいるって、どこで遊んでんのよ~。教えなさいよ~」とあの調子で言われながら、軽く手の甲で太腿の辺りを叩かれた事がある。軽く叩かれただけでも、筆者は横転するかと思った。その際に、あらゆる情報(言語のサウンド、香水の香り、打撃から計測できる体重や筋力、場の空気、等々)が総合的に筆者に伝えたものは「彼はとても優しい」という事である。日常的に優しさに飢えている筆者は、それだけで落涙しそうになり、CM明けで涙を見せぬように、必死で目頭を押さえた(実話)。
そして、そこには、微弱ではあるが確実なバルネラビリティーも含まれていた。虐められやすさ、攻撃誘発性を遮蔽するために氏は肉体も知性も構築した、と云う側面があると思われる。
演繹的に<巷間言われる「知性」の多くは「虐められないために」発達した知力である>としても良い。数の理論で言えば、社会というのは、いじめる側よりも虐められる側のが圧倒多数である。食物連鎖が見せる層と同じで、小動物は悪臭を放ったり、棘を持ったりする。デラックス氏の最大の特性は、大型の生物なのに棘で武装した。という点であろう。ここに動物とは行動原理を異にする、まさに人間性(ヒューマニズム)がある。
立花氏がデラックス氏をポイントし、ロックオン(ロッキングオンではありません。一応念のため)したのは、虐める側の知性である。ライオンはリカオンを、知的に獲物にしているのではない(勿論、ライオンがリカオンを食い殺すのは虐めではないが)。人類は、虐める側に回った時、知性を発揮する。虐めて潰せる相手を選定する知性である。
こうした知性を「悪質な知性」として石もて打つ事は無意味だ。あなたは棋士やボクサーが、自分の勝ちパターンに持ってゆくタクティクスを行使し、対戦者から、敗北したいというマイナス方向の欲望を引き出して、見事に勝利する姿を、悪質と呼べるだろうか? 悪質なのは知性そのものなのか、そうではない別のリージョンなのかは、この連載で考えることでもないだろうからしない。
高校時代に友人が一人もいなかったと自称する太田氏も、たけし軍団時代、同門の下の者に暴力を振るった経歴がある東国原氏も、そこそこのバルネラビリティはあるかも知れない。しかし、立花氏の「虐める側の知性」は、デラックス氏をポイントした。「こいつなら虐め潰せる」と思ったはずだ。
しかもである。恐るべきことに、と言いたいところなのだが、これは構造なので、全く恐るべき事ではないのだが、立花氏のターゲット・ポイント力、つまり、ある種の知性が高ければ高いほど、デラックス氏と一瞬にして関係性が繋がってしまう。言い方を変えれば、知性同士がグルーヴするのだ。
牧歌的な民は「ああ、マツコ、やばい地雷踏んじゃったね」とかなんとか、道端の犬糞でもあるかの如くコメントして、「お気の毒に」「頑張ってね」と云ったテレパシーを放つ。しかし、この市民レベルの温かい同情は、回転し出したグルーヴの強度には残念ながら吹き飛ばされてしまう。
もう筆者は、日本人にすら炎で焼かれるかも知れない。「なんてことを言うんだ。マツコさんみたいな知的で上品で優しい人と、あんな知性のかけらもないキ○ガイを同一視するなんて」。焼かれても構うものか。昔日は<火事と喧嘩は江戸の華>と言ったものだが、ネットの中では火事と喧嘩は同一化してしまった。そこそこのコスパの良さだと思うが、今更炎上商法もないだろう。もう一度言う、立花氏にも、デラックス氏にも知性があり、あまつさえ悟性もあるのである。悟性こそが、単なる知的並列をグルーブさせる回転対原動力なのは言うまでもない。
悟性をデラックス氏側から見ると、というか、正しくはグルーヴなのだから、どちらから見ても鏡面的に結果は同じなのだが、両者がグルーヴしたのは「虐める×虐められる」という関係性だけではない。というか、グルーヴという大現象に包括される原理が両者には働いている。それは何か?
<両者の相貌が似ている>という点である。相貌こそが第一情報であって、余程の力を使わない限り遮断できない。喜ばしかろうが、おぞましかろうが、心の声が「あ、似てる」と内心が確信した瞬間から、グルーヴは既に、フィンガースナップでカウントを取り始めている。
極論を出せば分かるだろう。立花氏は、太田氏のコスプレと、東国原氏のコスプレと、デラックス氏のコスプレだったら、どれが一番確実に似せられるだろうか?
「仇敵は似る」という原理は、単一の賢者による路傍の石ではない。もちろん「似る」のは相貌だけではない、声かも知れないし、思想かも知れない。しかし、相貌かも知れないのだ。例えばジャック・ラカンは、昆虫の擬態(植物や石などに体を似せる事)が、捕食から逃れるためだという定説に疑問を抱き、狩猟者と協力して、複数の鳥類の腹を割き、未消化の昆虫を分類した結果、擬態しない昆虫と、擬態する昆虫の数が同じだった事を発見し、「昆虫が擬態するのは、捕食逃れではなく、対象である木や石に<強く憧れるから>だ」と結論し、<心的に強い関係があると、相貌が似る>という現象の根拠の一つとした。
また、整体師の片山洋次郎は、オウム真理教事件の最中に「オウムの信者と、オウムを打倒せんとする弁護士軍団は、相貌だけ見ると、見分けがつかないほど似ている」とした。これは卓見である。メルヴィルの「白鯨」のテーマは、恩讐と狂気でどこまで追い詰めても、白鯨はエイハブに、一点すら似てくれない。この、極限値の片思い、その絶望である。
「お前の塾の帰りに待ち伏せてるからな」という知性と欲望に対し、「5時に夢中」側は、紗幕や遮蔽物をスタジオのウインドウに並べる。という知性を使った。デラックス氏の目は、充血で真っ赤だった。デラックス氏は、「誰に嫌われたって構うもんか、自分に未来や幸福はない。言いたい事を言うだけ」と云うキャラでのし上がり、そこから降りて、知的で優しい人。と云う第二段階が自他共に安定した、その瞬間に、まだ過去のキャラの名残で動かなければいけない「5時に夢中」で、一瞬、油断した隙をつかれ、鋭い知性にやられたのである。
筆者個人は、遺憾に思う、と前提しながら、ボクサーや棋士のタクティクスと立花氏のそれは同様のものだと断ずるしかない。相手を打ち負かそうとするだけでは勝利は得られない。勝利は、相手の敗北したいと云う欲望を嗅ぎ取り、引き出すことによってこそ確実になるのである。まさかとは思うが、誤解者を出さないため一応、デラックス氏が敗北したのは、その言い分でも社会的な行動でもない、ただ一点、心理的な側面だけだ。
あらゆる事態と同じく、この事態も自然に収束した。しかし、人類の責務の一つは、事態から目をそらさず、原理や構造を読み取り、教訓とする事である。「マツコを狙った知性」の存在を認めず、「マツコの知性は、防御的である」ことも、「民は防御的な知性ばかりを知性と考えたがる」ことも、「仇敵は似る(どこかが必ず)」と云う原理も認めない限り、民守党の跳梁は止められない。
敗北感の蔓延についても、目をそらしてはならない。我々はSNSの依存症に罹患することによって、慢性的な敗北感に包まれている。ネットというのは、構造的に「勝利感(「敗北感」に対置させるために、今とっさに作った単語だが)」は得られないように出来ている。あなたはネットをしていて「やったあああ、勝ったあああああ」という、震えるほどの感覚に酔いしれ、KOを勝ち取ったボクサーのように、握った拳を震わせたことがあるだろうか?
どんな気の利いた事を言っても、どんなに同じ趣味の人間と盛り上がろうとも、インスタグラムのフォロワーが100億人になろうと、むしろ、勝利感や幸福感が疲労や敗北感を最終結論とするようになっているSNSは、20世紀的な戦争の実行が不可能となった現在、国民規模の敗北感という、敗戦によって一撃で手に入るものを、不景気などのファクターと結合して数万倍化し、蔓延させている。筆者は、躁病患者もしくは、生まれた時からSNSがある10歳未満の児童にしかSNSの耐性は無いと考える。オルタナティヴな敗戦を国家的に共有しているわが国で、彼らが選挙権を持つまでに、世はカリスマ待望を準備し続けるしかない。どんなカリスマもデヴュー時には気持ち悪く、「なんでこんな奴に信奉者がいるのだ?」と必ず思わせる。もしあなたが、N国をナチスやイスラム国にダブルイメージし、もしそれがあなたに揺るぎない恐怖を与えるのだとしたら、とするが、あなたは親指の動きを止め、つまり、一先ず黙って、6時間で良いから、ナチスドイツの勉強をするべきである。
菊地成孔|Naruyoshi Kikuchi
音楽家/文筆家/音楽講師。ジャズメンとして活動/思想の軸足をジャズミュージックに置きながらも、ジャンル横断的な音楽/著述活動を旺盛に展開し、ラジオ/テレビ番組でのナヴィゲーター、選曲家、批評家、ファッションブランドとのコラボレーター、映画/テレビの音楽監督、プロデューサー、パーティーオーガナイザー等々としても評価が高い。「一個人にその全仕事をフォローするのは不可能」と言われるほどの驚異的な多作家でありながら、総ての仕事に一貫する高い実験性と大衆性、独特のエロティシズムと異形のインテリジェンスによって性別、年齢、国籍を越えた高い支持を集めつづけている、現代の東京を代表するディレッタント。
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