「2020年」に向けて、大なり小なり動きを見せ始めた東京。その変化の後景にある「都市の記憶」を、音楽家/文筆家の菊地成孔が、極私的な視点で紐解く連載シリーズ第22回!
TEXT BY NARUYOSHI KIKUCHI
ILLUSTRATION BY YUTARO OGAWA
第22回:トリコロールの一角黒に(M・ルグラン追悼)
トリュフォーの『大人は判ってくれない』を第1作とする限りにおいて、「ヌーベルバーグ生誕60周年」である今年、ミッシェル・ルグランが逝去した。最も残念なことから書かねばなるまい、それは亡くなったそのこと自体よリ数万倍残念だ。ルグラン(敬称略)の躁病気質でワーカホリック的でもありながら、芳醇でエレガンスに満ちた、偉大で膨大な仕事の数々を、どっかのネットニュース(日本の)が見出しでまとめて曰く
<「あの、『LALAランド』にも影響を与えた」>。
もう日本人は、フランスに関してはワインとビストロ料理だけにして、3つ星のシャトーレストラン、フランスの音楽、フランスの映画に関しては口をつぐんだ方が良いと思う(あゝ)。
とまあ、それは兎も角、あのナディア・ブーランジェに、あのパリの音楽教育の頂点CMSNDP(Conservatoire national supérieur de musique et de danse de Paris パリ高等音楽/舞踏学校)で、あの(学内で最も厳しいと言われる)伴奏クラスで薫陶を受け、お姉ちゃんがあの「シャバダバダ」を世界中に広めたスイングル・シンガースのリード・ソプラノ、クリスチャンヌ・ルグラン。指揮者で作曲家で映画音楽もやっているレイモン・ルグランの名前は「ミッシェル・ルグランの父」として、ルグランのプロフィールでのみ知ることができる。夫人はハーピストで、晩年には二人で演奏してるCDなんかも出しているが、50年代末からつい4年前までにわたる仕事ぶり、その全貌は圧倒されてイヤになるほどの質量である。
お疲れ様でした、と言うのも気が引ける。おそらくルグランは、全く疲れてなかったと思う。まだかなりの数のライブがブッキングされており、それには来日公演も含まれていたと云う話もある。
おそらく、研究家の濱田高志氏が、丁寧かつ愛に溢れた追悼をどこかのメディアでなさっている筈なので、検索してみて頂きたい。フランシス・レイが昨年の冬、奇しくも同じく86歳で亡くなったばかりである。言うまでもなく戦後のフランス映画界を、天才的な筆で染め上げた、ルグランの盟友であるし、あの「シャバダバダ」をローカル・レヴェルからワールドワイドにした『男と女』の音楽監督である。
濱田先生に伺ってみたい事の一つである。スイングル・シンガースが創出したスキルフルで格調高い「シャバダバ」を、『男と女』は手法として使い、どっちかつうとヘタウマな(っつうか、俳優の歌である)ピエール・バルーとニコール・クロワジール版がクラシックスになってしまったことについて、レイとルグランはどう思っていたのか? 恐らく、どうも思っていなかったと思うが。
筆者の様々な説を荒唐無稽で面白いホラ話と決めてかかってしまう、騙されやすい(筆者にではない。「菊地には騙されない」と言う人々は、筆者より数百段ひどいのに騙され切って安閑としている、保守的というより、極めて幸福な人々である)人々は多く、特に以下の説は、数多くの、視野狭窄で勉強も不足している上に、的確なイメジネーションすら持たない批評家のほとんどに微苦笑と共に一蹴されたが、筆者にとってルグランは、フランス映画界の至宝である、という事よりも、ジャン=リュック・ゴダールの人生を、最初の妻、アンナ・カリーナと共に、決定的に変えた人物である。
ゴダールは『勝手にしやがれ』で時代の寵児となった後、「登場人物が歌わないミュージカル」という、実にゴダールらしい、ひねくれたアイデアの『女は女である』を、婚約したばかりの(撮影終了時までには結婚)新妻、アンナ・カリーナを主演に、まだ世界規模でのフェームもプライズも手にする前の天才、ミッシェル・ルグランを音楽監督に起用した上に、初めてのカラー撮影、初めてのセット撮影を敢行し「本作こそが、本当の私の第1作なのです」とまで言わせしめた。
しかし、音楽に愛とその不全を抱えるゴダールは、ブレイク寸前という、一番精力的な時期のルグランから大量に届けられた、宝の山のようなOSTを、全くうまく捌けず(いかな主人公たちが歌わないとはいえ、というか、膨大な音楽数を整理して画面に当ててゆく作業は、「主人公全員が歌う」という、台本上の縛りがないと、破綻するに予め決まっている)、ミュージカル映画制作という最大の晴れ舞台で、自分が愛する(ゴダールの音楽への一方的で不幸な愛は、クロード・レヴィ=ストロースのそれと酷似している)音楽に対する、健康的な制御能力を持たない。つまりは、うまく愛せないという絶望的な不全を思い知らされるのである。名誉などより恋の人であるゴダールは、初婚で舞い上がり、自分の天才的なアイデアに自業自得の目に遭う形となった。
と、この話は、筆者の映画の本に嫌というほど書いてあるので、ご興味ある方は一読いただけると幸いである。ゴダールは60年近い長きにわたる監督生活の中で、オリジナルの音楽を書く、音楽監督と仕事をしたのは、デビュー後、わずか6年だけである。ルグランはゴダールを、音楽家と仕事ができない体質にするきっかけとなった。
6年という短さではないが、ゴダールは、カリーナとの離婚後、「主演女優」「そしてそのヌード」という存在に対する迷走を続けたのち、「音楽」と合わせた決定的な屈辱を、自作で最大のバジェットを記録(イタリア資本。プロデューサーはカルロ・ポンティ)する『軽蔑』で、受けることになる。主演のブリジッド・バルドーのヌードが足らないと、撮り足しを命ぜられ、あまつさえ、音楽が悪いと言って、イタリア公開版の音楽が勝手に差し替えられた。絵に描いたような<資本家>の手によって。
ゴダールはその後、資本主義、商業主義を捨てて社会主義者になるが、ほとんどの批評家は、こんな簡単な話を、何が書いてあるか理解できないぐらいの難解な政治用語を使って説明しようとし、結果、キリキリ舞いを演じている。
話はこんなにもシンプルで、ゴダールは資本主義と商業主義の中枢を、主演女優、女性の裸体、そして音楽に、そっくりそのまま転移させただけである。「主演女優」は、商業主義に回帰後取り戻されるが、「音楽家」との仕事は、いまだに帰ってこない。ゴダールは音響技師と一緒に、レコードの切り貼り、というDJ的な作業を、自作の映画音楽とし続けている。
そして、ヌーベルバーグ運動に関わった人々がほとんど鬼籍に入っても、この3人だけは健在だった。3人が揃って仕事をしたのは1964年の『はなればなれに』。クレジットには「ミッシェル<これで最後の>ルグラン」と書かれながらも、前年にカンヌでパルムドールを獲得した、ジャック・ドゥミの『シェルブールの雨傘』の世界的に有名なテーマ曲(いうまでもなく、ルグラン作)を、ストーキングのように、しつこく引用する。この、ミューズに振られた天才の悲哀よ。そして、カリーナもルグランも、何よりゴダール自身が最も、他の二人、この、悲しくもデリケートなトリコロールについて、ほとんど何も語ってない。その一角が、先日黒く染まった。
1932年生まれの86歳、あとひと月生きていたら87歳だった。パリ生まれでパリの自宅で亡くなった生粋のパリジャンだが、筆者の定義ではルグランこそがパリのアメリカ人である。エネルギッシュさがフランス人とは思えない。
実験に次ぐ実験をあくなき情熱で続けるゴダール最大の実験は、3DでもAIでもなく、<音楽:ミッシェル・ルグラン><主演:アンナ・カリーナ>の再起用である。筆者のネタであると同時に、ささやかな希望だったこの戯れも言えなくなってしまった。筆者はSNSをやらないが、カリーナとゴダールがルグランの訃報に対してどう反応したかがわかるのであればやっても良いと思っている。
*追記*
と、珍しく追記などしてしまうが、筆者は本稿を編集部に投げてから、仮眠2時間半で、88歳のゴダール最新作『イメージの本』の1号試写会に行った。カンヌで「パルムドールを超越した賞」として特別に設けられた「スペシャル・パルムドール」を受賞した本作は、トリコロールの破綻が予期されないまま制作〜発表され、世界中でルグラン逝去の報を受け、わが国ではGWに公開される。内容については一切書けないが、その画面の異様な美しさと、プレスリリースに含まれていたカンヌでのゴダールの記者会見の回答を見る限り、ゴダールは88になってもなんら変わっていないように見える。しかし、どんな脱構築的な形でもゴダールとルグランの再会はもうない。
「ルグランがECM(ゴダールはここ数十年、この、ドイツの高名なレーベルの音源を無制限にクリアランスして使用できる権利をレーベル側から与えられている。因みに昨年〜『イメージの本』制作中〜にレーベル設立50周年を迎えた)に作品を残していたら?」「ECMが、ルグランの原盤を買い取る、あるいは、ゴダールが直接、ルグランのレコードを作品で使用しないか?」が、筆者の次の、恐らく何十年は続かない興味になった。
菊地成孔|Naruyoshi Kikuchi
音楽家/文筆家/音楽講師。ジャズメンとして活動/思想の軸足をジャズミュージックに置きながらも、ジャンル横断的な音楽/著述活動を旺盛に展開し、ラジオ/テレビ番組でのナヴィゲーター、選曲家、批評家、ファッションブランドとのコラボレーター、映画/テレビの音楽監督、プロデューサー、パーティーオーガナイザー等々としても評価が高い。「一個人にその全仕事をフォローするのは不可能」と言われるほどの驚異的な多作家でありながら、総ての仕事に一貫する高い実験性と大衆性、独特のエロティシズムと異形のインテリジェンスによって性別、年齢、国籍を越えた高い支持を集めつづけている、現代の東京を代表するディレッタント。
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