「2020年」に向けて、大なり小なり動きを見せ始めた東京。その変化の後景にある「都市の記憶」を、音楽家/文筆家の菊地成孔が、極私的な視点で紐解く連載シリーズ第18回!
TEXT BY NARUYOSHI KIKUCHI
ILLUSTRATION BY YUTARO OGAWA
第18回:小説家になんかなれるもんか
斜め読み、早食いの諸兄が増えている昨今、よく読んでいただきたい(タイトルを)。「小説家になんかなるもんか」ではないよ。「な<れ>るもんか」である。「君の恋人になんかなるもんか」と「君の恋人になんかな<れ>るもんか」ではぜんぜん意味が違う。単に「れ」の字を挿入しただけなのに。びっくりしたあ。
「君、デザートによくマンゴープリンばっかり食ってれるね」と「君、デザートによくマンゴープリンばっかり食ってるね」でも、絶妙に違う。「可能の<れ>」が、前置されている「よく」の意味にエフェクトを与えて、別の意味にしてしまっているのがわかるだろう。
「きくちな<れ>るよし」は「菊地成孔」と完全な別人だ。「き<れ>くちなるよし」もヤバい。固有名詞の中に置くと、「可能の」という効果を失って……って、テーマと全然関係ねえんだよ!(小説家よりもエッセイストが向いていることの、さりげないアピールだと信じたい)
と、せっかく、気ままな逸脱が楽しかったのに、大人であらんとする意識によって嫌々本題に戻るが、さて、僕は小説家になんか絶対になれない。愚兄はそこそこ有名な小説家なのだけれども、ピーク時は80年代で、今はあんま書いてないと思うのだけれども、それでも個人性つまり作家性の強い、小説家という職業には(小説家に対して「作家性」というのは反復みたいに感じるだろうが、例えばCM業界では、音楽担当者を「作家さん」と呼ぶ傾向がある、よくよく考えてみれば、クリエーターは全員「作家さん」なのだから、これは昭和の御代に小説家が持っていた凄い権威が、広汎な意味を持つ言葉を独占した例といえるだろう。今は大分解放されてきてるけどね。手作り家具の人も、漫画の作画家も、オリジナルのスフレパンケーキ焼きも作家さんだ)、根強いファンがいて、音楽家のように飽きられたりオワコン(懐かしい。これってリア・ディゾン用に作られた言葉?)になったりしづらい。
もちろん、音楽マニアにとっては、飽きて行くのは消費というよりむしろ愛の作法であって(いつまでも「この1曲」だけを大切にして、ずーっとしがみつかれるのは、音楽家の方も嫌なものだ。音楽は、愛が強いカスタマーであればあるほど、「この1曲」は胸に秘めたまま、次々新しい曲を漁って行く)、悪いことではないのだが、とにかく小説家というのは、だいたい詩人に近くイメージされていて、つまり、一人だけで孤独に、個人的な情念をロマン主義的に綴っていると思われていて、ここに、読者からの強い移入や同一視が働く。
インスタグラマーやユーチューバーへの支持のあり方も全く同じだ。情念だのロマンだの言わないが、とにかく一人で好きなようにやっている。今、音楽家を、詩人やインスタグラマーのように、「たった一人だけで」作っていると見做す人はいない。本当は一番最初から音楽は、一人では作れなかったのだが、少なくとも20世紀いっぱいは詐術が働いていた。音楽家を「アーティスト」とか言っちゃったりしてね。画家みたいなイメージでしょう。音楽家が、ライブの途中もしくは最後に、一人で弾き語りをやるのは、その価値の担保である。
音楽家の癖に詩人ぶって「アーティスト」と呼ばせ始めたのは、ギターの弾き語りを生業としていたフォークシンガーだと思う。あいつらホントに鼻持ちならねえよ(笑)。「テレビになんか出ない。消費や誤解されるのが嫌だから」とかほざきやがって(笑)。みんな悔い改めたか、面の皮が厚いか、ほぼほぼ全員が今はSNSをやっているが、消費と誤解のされ方は地上波の1000倍速ですよギター弾き語り吟遊詩人の皆さん(笑)。
と、例によって、自分でも驚くべき迂回もしくは鵜飼の力によって、全然話が進まないわけだが、実の兄弟だからあえて名を伏せるとして、小説家の菊地秀行先生は、全盛期の遺産で、まだマーケットがホットだ(誹謗ではないよ。ずっとそれを書いているつもりなんだけど、メディアの質差である)。まず第一に、というか、第二も第三も含めて、序列なきゾルゲル状になってんですけど、ああしたファミリアなマーケットのあり方が苦手だし、小説なんて、そもそもどう書いていいかわからない。主人公の名前とか決めて「黒鳶は」とか「美子は」とか書く段階で、ウッヒョー! 無理無理無理!と寒気がする。タイトルにある通りだ。
それでも、愚兄のせいなのか、エッセイや批評がそこそこ面白いと思われているのか、あるいは個人的な情念がロマンチックに燃え盛っていると思われているのか、僕に小説のオファーが途絶えたことはほぼない。
さすがに何十年も断り続けて、減ってきたとはいえ、ひどい時は「うちに書いてくれれば◯◯賞は保証しますので」という大意を、遠回しに言われたこともあり唖然とした。
多分「群像」だと記憶しているが、小説を書けも何もなく、今ではどこで何をやってるかもわからない、才能のかけらも感じられないインディー映画の監督と対談させられ、「本物のバカだなこいつ」と思いながら、クソのような作品を丁寧に褒めて、楽しく対談を終えて帰ろうとしたら「はいこれは<対話編>、次回は<実践編>」と、完膚なきまで意味がわからないことを言い出したので、「はあ?」と言ったら、「実践」というのは「小説を書く実践」であって、要するに、最初から、小説を書いたことがないバカ監督とバカ音楽家に対談させ、文芸誌として権威あるウチが君たちに小説を書かせて、ウチに掲載してあげよう。しかも、文芸批評家の先生にコメントももらえるからね。という、今だったら完全にパワハラで訴訟が可能な、恐るべきオファーで、二度「はあ?」と思った僕は、この、昭和の既得権を振り回す、戯画的なまでの権威主義に対し、どうすれば最も嘲笑的で、侮蔑的で、嫌悪的な最大効果を与えられるか熟考した結果、ちょっと前のふざけたブログを、規定文字数だけコピペして、タイトルもつけずに送りつけたら、「大冒険(苦笑)」というタイトルが付けられて掲載された(クズ監督は、律儀に小説を書いていた。テーマは「9.11同時多発テロの映像を見たことによって、感覚が変容してしまった自分」ウケすぎる・笑)。文芸批評家は「この人は筆力はあるが、まとめる力がない」と書いていた(笑)。
今、いったいどんなんなってるのだろう? 料簡を改め、まともな文芸誌になっていることを親心のように祈って検索したら、最新号の、推しの3作のタイトルが、一文字も読めなかった(笑・嘘だと思ったら検索してみてください。絶対、中国の小説を特集したと思うから)。特集名は「季・億」。もちろんコレ記憶のことですよ。ここまでダサい言語感覚みたことない。SNSのが兆倍すげえ。頑張れ群像、いや頑張るな(笑)。
と、全然ダメだ(笑)、途中で群像のことを思い出したら、アネクドートが止まらなくなってしまった(笑)。とにかく小説は書けない、書けないのに、書けると思われている、思われ過ぎて、恐ろしくなり、嫌々いくつか書いた。結果は冒頭へ。期待した奴らは去ってゆく。最悪のサーキュレーション。
おかげで酷い思い出しかない。過剰に期待をかけられた子供の精神状態は虐待されている状態に近いが、辛うじて大人だったら助かっただけだ。
なのだが、人生とは不思議なものだ。来月、10数年ぶりで小説を出版する。どうして書くことになったかは、なんかのメディアに書くかもしれないし、書かないかもしれないが、少なくともこれは嫌々ではない。企画がコンセプチュアルで楽しそうだったので。歌舞伎町を舞台としたチャラいバタイユみたいなもんで、エロ小説がエロすぎてだんだん苦しくなるような奴だ。「新宿歌舞伎町バタイユ」というと、多くの人が何らかの店(劇場かもしれないが)を想像するだろう。
勿論、職業小説家になるつもりなんか全くないし、なれる筈もない。小銭稼ぎの遊びとして、楽しそうだからやってみただけだが、我ながらちょっと気に入っている。こないだ一本だけ映画に出させられたのだが、あれの感覚に近い。
表現したかったのはエネルギー/リビドーの苛烈さである(まあまあ、例の蕩尽理論である)。この小説は立ち読みはできないシステムになっている。通販もない。新宿まで来て買うしかないのである。誰が買うのだろう? 驚くべきことに、企画者の石丸元章には勝算がありそうなのである。タイトルは「あたしを溺れさせて。そして溺れ死ぬあたしを見ていて」。
菊地成孔|Naruyoshi Kikuchi
音楽家/文筆家/音楽講師。ジャズメンとして活動/思想の軸足をジャズミュージックに置きながらも、ジャンル横断的な音楽/著述活動を旺盛に展開し、ラジオ/テレビ番組でのナヴィゲーター、選曲家、批評家、ファッションブランドとのコラボレーター、映画/テレビの音楽監督、プロデューサー、パーティーオーガナイザー等々としても評価が高い。「一個人にその全仕事をフォローするのは不可能」と言われるほどの驚異的な多作家でありながら、総ての仕事に一貫する高い実験性と大衆性、独特のエロティシズムと異形のインテリジェンスによって性別、年齢、国籍を越えた高い支持を集めつづけている、現代の東京を代表するディレッタント。
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