16歳の夏、高校2年生。それまでバスケに向けていた全情熱を絵を描くことに注ぐ。東京藝大に現役合格。在学中から注目を集め、名キュレーター、名ギャラリストに才能を見出される。中園晃二あらため中園孔二。25歳の夏、成功の扉を押し開けたところで、彼はこの世界から足速に去っていった。緻密なインタビューと遺された150冊ものノートの検証に基づく優れた評伝。
Text by Yoshio Suzuki
All Art Works by Koji Nakazono
© Koji Nakazono, Nakazono Family
Courtesy of Tomio Koyama Gallery, Shinchosha
丸亀市猪熊弦一郎現代美術館(香川県)で「中園孔二 ソウルメイト」が開催されている。地方の市立美術館ではあるものの、ここはもともと現代アートの展示を積極的に行うことで、定評がある。ベネッセアートサイト直島も近隣にあること、建築が谷口吉生によるものであること、JRの駅前にありアクセスがいい利点からも美術ファンにはよく知られている。
この展覧会の会期中である8月中旬、かねてより準備されていた中園孔二の評伝が出版された。『穏やかなゴースト 画家・中園孔二を追って』(新潮社)。著者はノンフィクションライターの村岡俊也。『芸術新潮』の連載に大幅な加筆をし、単行本としてまとめた。
帯文にはこうある。「『今年は天才がいるよ』。東京藝大在学時より注目され、25歳で急逝した画家は、『壊れた機械』のように描き、エヴァーグリーンの思い出を遺して、駆け抜けて行った。」
それが示すように、中園は大学入学時から注目され、すぐに「天才」の佳名を得て、有名なキュレーター、ギャラリストに出会い幸運なデビューも果たした。しかし、25歳で瀬戸内の海に泳ぎ出したあと、再び絵筆をとることはなかった。「エヴァーグリーン」。確かに彼の作品、彼にまつわるエピソードは今後も歳をとることはない。
しかし、中園孔二を「夭逝の天才画家」と片付け、納得してしまうことを良しとしないからこそ、この本が書かれたのであろう。確かに25年の生涯、これまでいくつもの有名美術館で個展を開催し、常に賞賛を得ていることから言えば「夭逝」で「天才」でも間違いではない。「夭逝」である芸術家やミュージシャンはしばしば作品とともに無念を込めて語られるものだ。そして人々は自分と同時代に「天才」がいることを寿ぐ。
ひと言で片付けず、納得することをせず、著者の村岡は中園をめぐる人々、それは両親や親類、小学校から大学までの同級生や先輩後輩、元カノや恋人、美術館の学芸員、ギャラリスト、アルバイト先の人たちにコツコツとインタビューしていった。そして、中園が遺した150冊以上ものノートに書かれた雑記やドローイングなどを読み解いた。そしてそこから取り出した映画、小説、音楽、展覧会の記録にあたっている。
あるテーマの取材のため、次々に関係者に会って話を聞いていくとき、一つのインタビューや引き出した言葉がキーとなることがある。著者、村岡にとってはそれは初期に取材をした東京藝大教授で画家のO JUN(筆者注:O JUNは1956年生まれの日本人。男性)の言葉だった。O JUNと中園とは教授と教え子の関係だ。当初、O JUNにインタビューしたのはまだ、この中園孔二の評伝が『芸術新潮』に連載することは決まっていなかった時期だった。
O JUNは学生のどこを見るかという話をしてくれた。重視している一つは「衝動」だという。「若いうちは作品の良し悪しよりも、自分の中で動かないわけにはいかない、溢れてしまいそうなモチベーションがあるかどうかが大きい」。これをO JUNは「壊れた機械」に例える。そして二つ目は、作品に救われるという経験を持っているかどうか。中園はそれらを兼ね備えていた。
最初の取材から2カ月が経った頃、『芸術新潮』での連載が決まったことをO JUNにメールで告げると、O JUNからは返信メールで、先般の取材ではトピックやエピソードばかりに触れ、肝心の中園の作品や方法についてほとんど話せなかったと振り返った。詳細な長いメールだった。その一部にこんな話があった。
「“壊れた機械”の季節は本来どの作家にも訪れるもので、彼もその季節の真っ只中だったと思います。イメージの生起は実のところリミットも涯(はて)もないのですが、その先を自らに期待して到達を夢見る欲望があって作家を駆り立てますが、彼の場合、その姿勢が変に感傷的、悲観的に映らないのは彼の資質として描く行為を遊戯として捉えていたからではないかと思います。」
この「感傷的、悲観的に映らない。描く行為を遊戯として捉えていた」という言葉が、その後、村岡が出会う、中園を知る数多の人たちの話を聞いていく上での一つの指標となった。
取材者は収集した言葉を携えながら、次に取材に進む。そんな言葉が増えていく。たとえば、中園が亡くなった当時、東京都現代美術館のチーフキュレーターだった長谷川祐子(現在、金沢21世紀美術館館長)の言葉もそうだ。長谷川は2010年、中園が20歳か21歳のとき、東京藝大の大学会館展示室で中園の絵を見て、美術館のためにではなく、自分で買い、自宅に飾った。中園の訃報を聞いたとき、即座に東京都現代美術館に3点の絵を購入、収蔵する手配をした。
「絵というものには良い絵とか悪い絵とかなくて、怖い絵も楽しい絵もなくて、私たちのところにヴィセラルに(筆者注:直感的に、理屈抜きに、心の底から)、内臓に突き刺さるようにやってくるかどうかだと思います。忘れられないかどうかだけなんです。」
長谷川は中園の絵はまさにそういう絵なのだと説いている。
この言葉が村岡から離れなかったとわかるのは、本書の「あとがきにかえて」で繰り返されるからだ。そしてそれが「重く響く」と。
この本に登場する多くの人たちが中園の思い出、つまり、彼とともに在った時間(過去)のことを語ってくれている。村岡も書いているがそれは「楽しく美しい思い出であったにせよ、(語ることは)辛く苦しいことだったに違いない」と。そのすべてが貴重な話である。そして、これは強調しておきたいのだが、そんな中でO JUNは「壊れた機械」だった中園の(当時の)現在を語ってくれている。そして、長谷川は中園(=中園の絵)の未来を見据えた話をしている。
中園の過去、現在、未来が1冊に一直線にきちんと収まっている。だから、この本には「夭逝の天才画家」の無念と羨望の物語では終わっていない強度がある。
鈴木芳雄|Yoshio Suzuki
編集者/美術ジャーナリスト。明治学院大学非常勤講師。雑誌「ブルータス」元・副編集長(フクヘン)。共編著に『村上隆のスーパーフラット・コレクション』『光琳ART 光琳と現代美術』『チームラボって、何者?』など。雑誌「ブルータス」「婦人画報」「ハーパーズバザー」などに寄稿。
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