写真というのは家族の成長の記録だったり、商品の魅力を伝えてくれるものだったり、戦争の生々しさを目の前に突きつけてくるものだったり、あるいは何気ない日常が切り取られていたりする。しかし、そのどれとも違う気がするのが赤瀬川原平さんの写真だ。巷間にばら撒かれて見えなくなってしまった芸術の微粒子も赤瀬川さんの目には見えたらしく、それを写真に撮っておいてくれたのだ。
Text by Yoshio Suzuki
© Genpei Akasegawa, Courtesy of SCAI PIRAMIDE
赤瀬川原平さんの書斎には16段の大きな引き出しがあって、そこには彼が1985年から2006年までに撮り溜めた35ミリ判のリバーサル(スライド)フィルムがマウントされて小箱に入った状態で保管されてるそうだ。未発表カットは4万点近く。フィルム1ロールごと(現像&マウント後は1箱ごと?)にいつ、どこでなにを撮影したか、さらに使ったカメラ名が書いてあるのだという。
筆者も赤瀬川さんの生前、ご自宅でインタビューをしたことがあったのだが、書斎までは通されなかった。リビングルームでの取材だったけれど、リビングルームにはカメラ棚があった。壁に作りつけの木製で観音開きガラス戸付き。『芸術新潮』2015年5月号「超芸術家赤瀬川原平の全宇宙」の写真で確認すると、40台以上のカメラとそれに加え、レンズが詰まっていた。
今回展示されているのが1985年以降の写真ということなので気になって調べたら、『カメラ毎日』1983年9月号〜1985年4月号に赤瀬川さんは「カメラが欲しい」という連載をしていて、それが単行本にまとまって新潮社から出るのが1986年1月(著者名:尾辻克彦)。もともと写真は撮っていたとは思うが、ここにあるのは赤瀬川さん言うところの「中古カメラウィルス」に冒され始めた頃からの写真だろう。2006年までというのはデジタルカメラ以前ということか。ちなみに『ライカ同盟』(講談社)は1994年の出版。
前掲『芸術新潮』2015年5月号に書いてあるが、赤瀬川さんの奥様、尚子さんによれば、83年(46歳)くらいが赤瀬川さんの転機だったという。確かに、小説家として、79年「肌ざわり」で中央公論新人賞、81年「父が消えた」(著者名:尾辻克彦)で芥川賞を受賞。83年「雪野」で野間文芸新人賞を受賞している。前衛芸術家から多才な文化人に周囲の扱いも変わったかもしれない。
で、その4万点の写真だが、路上観察学会のために撮影された写真の他に、観光写真的なもの、花や動物、家族やペット、近所を撮影したものがあった。芸術家の視線によるものもあれば、一見、日常や撮影を楽しんでいるのだろうとの様子もうかがわれる。赤瀬川さんも参加した資生堂「椿会」という展示シリーズをキュレーションした資生堂ギャラリー・ディレクターの豊田佳子さんをゲストキュレーターとして迎え、赤瀬川さんの撮った写真を6人のアーティストたちがセレクトして、あらためて赤瀬川ワールドを目の前に展開してくれているのが本展、赤瀬川原平写真展「日常に散らばった芸術の微粒子」だ。
撰者となったアーティストたちは70年代生まれと80年代生まれ。彼らは赤瀬川さんの生前の活動を知る最後の世代。赤瀬川さんから影響を受けた、またはアイディアに共通点があるということで選ばれた。伊藤存(1971年生まれ)、風間サチコ(1972年生まれ)、鈴木康広(1979年生まれ)、中村裕太(1983年生まれ)、蓮沼執太(1983年生まれ)、毛利悠子(1980年生まれ)の6人(作家敬称略)。赤瀬川さんから受けた影響、赤瀬川さんへの想い、その写真を選んだ理由なども語ってもらっている。
刺繍による作品が有名でアニメーション、ドローイング、立体作品も手がける伊藤存は高校生の頃、『超芸術トマソン』に出会い、自分でもオートフォーカスカメラを持って超芸術を探しに出かけ、大量のプリントを生んだという。伊藤は「赤瀬川さんの語り口は軽やかに、どこにでもあるけどその気にならないと視線に入ってこないような事柄をトマソンと名付け、人の視界に招き入れてくる。この大人は味方だと感じた」と書いている。
大画面の真っ黒な木版画で、「現在」起きている現象の根源を「過去」に探り、「未来」に垂れ込む暗雲を予兆させる。そんな風間サチコは「赤瀬川さんが遺した大量の写真は、拾えない拾い物の記録のように見える。(私の憧れ)鴨長明みたいな自由を実行するなら所有物は足枷にしかならないが、偶然出会った『美』は手元に残したい…そんな葛藤をどう解消しよう」と思い、シャッターを切っているのではないかという。
日常の見慣れた事象を独自の「見立て」によって捉え直す作品を発表し続けているアーティスト、鈴木康広はこう語っている。「現実の中に異次元を垣間見てしまったかのような、説明のつかない不思議な光景の数々。いつも人間世界の日常から少しはみ出した所に面白さを発見してきた赤瀬川さん。その眼差しの痕跡が、観る人を新鮮な世界へと誘う『未来の足跡』として、写真の中に無数に散りばめられているように感じました」
さらに、中村裕太、毛利悠子が選んだ写真は以下である。
写真はときに発見、発掘、選択される宿命にあり、そのことによって、写真は命を吹き込まれてきたのだ。赤瀬川さんの写真は見失われたことはないけれど、写真の歴史の上では発見、発掘されたものが多くある。
たとえば、1900年前後のパリの街角の風景を克明に記録した写真家ウジェーヌ・アジェの写真に出会い、彼を「発見」し、その写真を散逸させなかったのは、マン・レイのスタジオに出入りしていた若きアメリカ人写真家ベレニス・アボットだった。アジェがいて、そして彼女がいたから、あの時代のパリの様子を容易に見に行くことができるのだ。
あるいは、ヴィヴィアン・マイヤーの伝説。シカゴのベビーシッターだった彼女は休日にはローライフレックスを携え、シカゴの街を撮影して歩いた。20世紀後半のアメリカの都市の貴重な記録であり、魅力的なストリートフォトグラフを残した。その量は15万カットとも言われるが、写真はあるオークションによってまとまって発見される。没後、写真展が開催され、写真集も出版、ドキュメンタリー映画が作られた。
写真みずからが見られたい、選ばれたいと意志を持っているのではないかとさえ思える。赤瀬川さんが残した、彼だからこそ撮影できた写真はもちろん、赤瀬川さんでなくても誰でも撮れそうな写真までもが、どうしてこんなにもわれわれを楽しませてくれるのかと感じずにいられない。赤瀬川さんの芸術の魂が生きているからだろう。
鈴木芳雄|Yoshio Suzuki
編集者/美術ジャーナリスト。明治学院大学非常勤講師。雑誌「ブルータス」元・副編集長(フクヘン)。共編著に『村上隆のスーパーフラット・コレクション』『光琳ART 光琳と現代美術』『チームラボって、何者?』など。雑誌「ブルータス」「婦人画報」「ハーパーズバザー」などに寄稿。
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