森美術館で開催中の展覧会「地球がまわる音を聴く:パンデミック以降のウェルビーイング」(〜11/6)に作品を出展しているアーティストのひとり、エレン・アルトフェストさんが、京都のアーティストレジデンスに短期滞在をしている。作品を制作する現場を漫画家のほしよりこさんが訪ねた。
ILLUSTRATION BY YORICO HOSHI
PHOTO BY YOKO TAKAHASHI
TEXT BY MARI MATSUBARA
京都・嵯峨嵐山、百人一首で知られる小倉山の麓にある思文閣(京都)のアーティスト・イン・レジデンスに、エレンさんは今年4月末から3カ月の予定で滞在している。レジデンスに入ってまもなく、そこから徒歩数分のところにある非公開寺院「厭離庵」を縁あって訪ねたとき、エレンさんは「ここには何か特別なものがある」と直感的に感じたと言う。藤原定家の邸であったと言われる古刹の鬱蒼とした庭園に魅せられたエレンさんは、この庭で制作することに決め、住職のご厚意のもと、雨の日以外は毎朝7時にやってきて、日没ごろまで黙々と絵を描いた。
京都出身で、嵐山界隈に幼い頃からなじみがあったほしよりこさんは、エレンさんが「厭離庵」で制作していると聞き、訪ねてみることにした。エレンさんとは初対面だが、その独特な作品世界に惹かれたと言う。
エレン・アルトフェストは、植物や人体のディテールなどをモチーフにした油彩を描いている。自然光源のもとで描かれる、非常に写実的かつ緻密な作品は制作に1年以上かかるものも少なくない。京都滞在中は「厭離庵」の庭園の、ある部分の苔を描くことに決め、毎日同じ場所に座って黙々と描き、2カ月という彼女としては非常に短期間で小さなタブローを描き終えた。その作品《杉苔》は森美術館で開催中の企画展「地球がまわる音を聴く」にも展示されている。
この絵の最後の仕上げの頃にほしさんが厭離庵を訪問し、エレンさんと言葉を交わした。
ほし エレンさんの《Three shapes》という作品が好きなんです。2種類の毛布と男の人の体のクローズアップが描かれていて、毛布の繊維や体毛まですごく細かく描かれています。
エレン こういうような絵を4、5年くらい描いていました。周りから「鬱なの? 大丈夫?」と心配されたけれど、この頃は内向的でわりと暗い絵を描いていたんです。
ほし 感情とペインティングは表面的にリンクしますか?
エレン 私の場合、1つの作品を描いている期間が1年とか2年とかものすごく長いので、描き始めた頃の感情がずっと続くわけではありません。制作中に、時間と共にいろんなことが起き、感情も変化する。時間の経過も絵画に含まれるのだと思います。
ほし お庭の地面に座って苔を描いているエレンさんを、じっと見させていただきました。エレンさんは「見る」という時間がすごく長いですね。杉苔の一本一本の葉を見つめ、その裏の影を見つめている。「見る」という行為がすべてに対して平等に注がれていると思いました。さきほど挙げた《Three shapes》にも言えることですけれど、毛布も、人体も、等しく主体としてとらえているのだなぁと感じました。一般的には人物が主体で、毛布は添えものになりそうですが、描く対象物に対してピクセルレベルでの平等さがあり、それが作品ににじみ出る愛やユーモアにつながっているのではないかな。
エレン 平等な愛、と言われたのは初めて。でもそう受け止めてくださって嬉しいです。たぶん、描く対象物、たとえば毛布に対して愛着があるから人体と平等に描くというよりも、人体のほうを毛布などの静物と同様にフラットな視線で見ている、と言ったほうが正しいかもしれません。そのことの方に関心があります。そのために、色の配分など細心の注意を払って描きます。
ほし 美大などのアカデミックな世界では、生きている人間と静物をはっきり区別して描き分けようとしますよね。人間はイキイキと生命感のあるように描かなければならない、とか。しかし、本来はそこも平等であるべきじゃないかなと私は思うんです。それがエレンさんの絵には貫かれていて、ある意味ではショッキングだと感じました。
エレン 一瞬、何を見ているのか分からなくなるぐらい緻密に写生するんです。そのものが持つアイデンティティを認識できなくなるぐらいディテールを詳細に描き込むと、逆説的ですが、人は人でなくなり、ものはものでなくなっていく。絵画というのは、描かれる対象物よりも興味深いものになっていなければならない、と思うから。
ほし 変化してないように見えるものも、徹底的に見ると、時間が経って変化していますよね。徹底的に見る、という行為が、ものへの尊敬につながっているのでしょうか。見逃さないように凝視し続けていると、ものの方が普段は出さない表情を垣間見せてくれるのかもしれない。エレンさんの絵は、そういうことに到達している絵だと思いました。そして、この絵を鑑賞する私たちも、なぜかそれを感じ取れるのです。普通なら見逃してしまいそうなものがそこにあると気づかせてくれる絵ですね。
エレン 何か一つのものを見続けると、一つ分かる。すると、すぐまた次のレベルで違うものが見えてくる。それが限りなく続くのです。カメラがピントを合わせる場所を無限に変えていけば、風景の見え方も無限に変わりますよね。それを1枚の絵の中で「見つめる」という行為を通してやっているようなものですね。
ほし だから絵を仕上げるのに1年も2年もかかってしまうのですね。エレンさんの絵を見続けていると、どこかにたどり着ける地図のように思えてきます。際限なく辿っていけるような地図——。
エレン それは面白い解釈ですね。私もこれからそんなふうに考えてみようかな。
ほし ここにいらして、苔を描こうと思ったのはなぜですか?
エレン この庭園の中で、木よりも石よりも、最もとらえがたい対象だと思ったから。苔って、ほとんど形をなさないようなもの、そういうものにチャレンジしようと思いました。それに、ここの住職の方から聞いた話では、これだけ種類の違う苔が共生している庭は珍しいのだそうです。まさに苔のパラダイスですよ。
ほし エレンさんの苔の絵を、森美術館で観るのを楽しみにしています。
エレン ありがとう。毎日制作に没頭できたおかげで、展覧会に間に合ってよかったわ。やっぱり締め切りは大事ですね(笑)。この絵は、3年かかって仕上げた絵の横に展示されるんですって。そちらの絵も木の幹の上に苔が生えている絵なの。私も2つの作品を見比べるのが楽しみです。
ほしよりこ|Yorico Hoshi
1974年生まれ。ネット上で始めた連載「きょうの猫村さん」が2005年に書籍化され大ベストセラーに。2015年『逢沢りく(上・下)』で第19回手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞。その他『カーサの猫村さん』『山とそば』など著書多数。エド・シーランのMV、松本隆トリビュートアルバム「風街であひませう」のジャケット画なども手がける。
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