Echoes - Crashing waves

喧騒は収まり、人々は去り、記憶だけが残される——米田知子「残響―打ち寄せる波」@ShugoArts(〜7/9)

20世紀以降の歴史を冷静な視点であらためて見つめ直し、私たちが生きているこの時代にはどういう力学が働き、どういう仕組みで成り立っているのか。そのことを徹底した調査と並外れた行動力で目の前に呈示する。決して声高にではなく。そんな仕事を続けてきた米田知子の展覧会が開催されている。

TEXT BY YOSHIO SUZUKI
COPYRIGHT THE ARTIST
COURTESY OF SHUGOARTS

遠くからでも、その写真を見たとき、広島平和記念公園内にある慰霊碑だとわかる。画面の中では慰霊碑は小さいけれど、中心にあり、多くの日本人には見覚えがある。毎年8月6日、朝の8時台にNHKが式典を実況中継するアングルと同じだったからである。

午前8時15分、原爆投下による犠牲者の冥福を祈り、平和への思いを新たにし、黙祷が捧げられる。鐘の音が鳴り響く。

米田知子《70年目の8月6日・広島》2015

しかし、その写真に近づくと、ブレていることに気がつく。遠くのビルも手前のテントらしき屋根もまるで地震の瞬間を撮ったようにブレている。いや、さらに目を凝らすと、これはブレではないことが判明する。くっきりと写っている人物もいるが、背景に溶けてしまっている人物もある。多重露光なのか、あるいは長時間露光だろうか。

撮影されたのは2015年8月6日。戦後70年。このとき、安保法改正が審議されていた。当時の安倍晋三首相が平和式典の式辞を述べると野次が飛んだ。

撮影した米田知子はロンドンを拠点として活動する写真家。戦争や紛争、災害のあった土地を訪れてきた。時間の経過のあとの静謐を撮影することで、むしろその記憶を呼び起こす。米田が撮影するのはまさに戦闘の渦中の修羅場ではない。遠く70年前にこの地、広島に原爆が投下され、老若男女、多くの非戦闘員が突然、命をたたれた。あるいはその後の人生の長きにわたり苦しんだ人たちもいる。

慰霊碑の前の石碑には「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と書かれている。その前に立ったこの国の首相はこのとき安保法改正を指揮していたが、どんな思いだったのだろうか。その安保法案はその翌月9月19日に国会で採決された。

米田知子「残響―打ち寄せる波」展示風景。Photo by Shigeo Muto

米田に聞いてみる。

——これはどうしてブレているのでしょう?

「3枚のイメージが重なっています。子ども代表が出てきて、平和宣言をする。真ん中にいるのは安倍首相です。亡くなった被爆者の人の数は毎年増えていくわけですが、その名簿を収めるとき、前に出て撮影する新聞社の人たちも写っています。献花もそこにあったり、3枚のイメージを重ねることで、その日を言い表しているのです。揺れているように見えるかもしれません。この安倍さんがきたとき、すごい野次も飛んで、そういうことが画面から伝わるでしょうか」

——どこから撮っているのですか?

「広島平和記念資料館という丹下健三さんの建築ですね。その屋上にプレスの人が並ぶんです。前の日に行って場所をとっておきました。報道の人たちがデジタルカメラを並べる中、私が大判の4×5のカメラと中判の6×7のカメラを立てたので、珍しいからか、周りは、え、何? みたいになってました。そうやって撮った3枚の画像を重ね合わせたものです。撮影時からこの完成を意図していたものではなく、やってみたらこれになったということです」

戦争は過去に起こった出来事でもなく、人々の記憶の中のものでもなく、今まさに起きていることだと日々感じている今日だ。今まさに起こっている戦争の悲惨な姿を写真や映像でとらえて、世界に配信するのも重要な仕事ではあるが、その事実を携えて生きなければならない現代の我々にとって、かつてあった戦争の記憶も風化させない、風化させないことで過ちを繰り返さないための警鐘になればと、米田がしているような仕事も、写真の役割として、重要なものだ。米田の写真を見ることに大きな意義がある。

米田知子《窓I、ソビエト国境警備所、ソルベ半島、サーレマー島、エストニア》2004

ソルベ半島は1939年にソ連の軍事基地となり、第二次大戦中はドイツとソ連の激しい戦闘があった土地だという。解説にはこうある。

〈この警備所はソビエト国境のために作られ、1992年まで使用された。敷地にあるミサイルのサイロにはソ連の核兵器が格納されていたこともあった。〉

「エストニア、2004年。これを撮影に行ったのは、ソ連が解体して、ドイツではそれまであったベルリンの壁が壊されて、エストニアもワルシャワ条約機構の側からEU、NATOに加盟した年。そういう世界が新しい動きに沸き立っているときに撮影に行ったんです。ソ連に抑圧されていた歴史が終わり、ソ連時代の記念碑とかそういうものがなくなっていって、街がだんだん変わっていって、自国の記憶と歴史を語ることができる時代を享受している熱気がありました」

そういう熱気だとか沸き立っている熱狂とかではなく、往時の緊張は消えた国境警備所に置かれた造花のカーネーションを撮ることの意味を見出すこと。

振り返って、20世紀の終盤、東西対立の構図が崩れたことに世界は新しい(平和の)世の中の夢を見た気がした。しかし、それはうたかたの夢だったこと、もしかしたら誰もが見た夢ではなかったのだということが突きつけられてしまった。

米田知子《絡まった有刺鉄線と花(非武装地帯近く・チョルウォン・韓国)2》2015

有刺鉄線がいわゆるバラ線ではなく、幾何学的であり、しかも全体でハートを描いているようにも見える。しかし、これは停戦中の北朝鮮と韓国を隔てる場所にある。

〈朝鮮半島を分断する軍事境界線から、南北計約4キロにわたりDMZと呼ばれる非武装中立地帯が広がる。多数の地雷が埋蔵され、民間人が立ち入ることの出来ない場所である。それゆえに野生動物と植物の独自の生態系が構築され、自然の楽園となっている。〉

「これはキム・ソンジョンさんという韓国のキュレーターに呼ばれて、DMZにアーティストを呼んで、自分たちで撮影するというプロジェクトのときのものです。韓国と北朝鮮の国境。向こうに見える山は北朝鮮。横に兵士がいて監視する中での撮影でした」

米田知子「残響―打ち寄せる波」展示風景。Photo by Shigeo Muto 作品はサハリン島、第二次大戦日本降伏時まで日露国境だった北緯50度で撮影された《北緯50度、旧国境》2012

アメリカとイギリスで写真を学び、長くロンドンを拠点に活動している米田が見つめる現代史。政治指導者や軍人や兵士が見たものではない視点があり、そして戦争や災害は長く影を落とし続けているということを示唆している。ヨーロッパが大きく疲弊した第一次世界大戦、それは同時にアメリカが自国の領土を戦場とせずに戦勝国となり、以後の繁栄の基底となった戦いだった。そこに第二次大戦と東西対立がのしかかっている。さらに米田は兵庫県の明石出身であることから、1995年に起きた阪神淡路大震災のその後を題材にした作品もある。

整理された構図と落ち着いた色彩の、しかし冷徹で美しい写真作品は実は貴重な歴史的資料でもある。

米田知子個展 「残響―打ち寄せる波」

会期=〜7月9日(土)
会場=シュウゴアーツ(complex665)
開廊=火〜土曜 正午〜午後6時(日月祝休廊)

米田知子《北緯50度、旧国境》
 
米田知子|Tomoko Yoneda
1965年 兵庫県生まれ、ロンドン在住。20世紀のイデオロギーをテーマに、徹底した対象へのリサーチを重ねる米田知子はこれまでに戦争や震災の傷跡が残る日本国内以外にもヨーロッパ、東欧、アジアなど幅広い地域において記憶が強く残る場所に訪れて制作を続ける。主な展覧会に「Tomoko Yoneda」マフレ財団(マドリッド、2021)、第12回上海ビエンナーレ(上海、2018-19)、「アルベール・カミュとの対話」パリ日本文化会館(パリ、2018)、「ふぞろいなハーモニー」広島市現代美術館(広島、2015)/ Kuandu Museum of Fine Arts(台北、2016)、光州ビエンナーレ(光州、2014)、あいちトリエンナーレ(愛知、2013)、「暗なきところで逢えれば」姫路市立美術館(兵庫、2014)/ 東京都写真美術館(東京、2013)、「キエフビエンナーレ」(キエフ、2012)、「終わりは始まり」原美術館(東京、2008)、第52回ヴェネチア・ビエンナーレ(ヴェネツィア、2007)、「震災から10年」芦屋市立美術館博物館(兵庫、2005)、「記憶と不確実さの彼方」資生堂ギャラリー(東京、2003)など。

profile

鈴木芳雄|Yoshio Suzuki
編集者/美術ジャーナリスト。明治学院大学非常勤講師。雑誌「ブルータス」元・副編集長(フクヘン)。共編著に『村上隆のスーパーフラット・コレクション』『光琳ART 光琳と現代美術』『チームラボって、何者?』など。雑誌「ブルータス」「婦人画報」「ハーパーズバザー」などに寄稿。