「写真は言葉のように断片的で、写真と写真のあいだ、その見えない部分を見る人に託します。これらの写真は初めて見る風景なのか、それとも思い出しているのか。」写され、静止した風景を見ていても、それは流れていく時間の断片に過ぎないことを人は知っている。その断片の前後を想像し、補い、想いを寄せる。時に映像よりも雄弁で、想像力をかき立ててくれる写真について、鈴木理策に聞いた。
Text by Yoshio Suzuki
Courtesy of Taka Ishii Gallery
季節の移ろいや自然を前にして、その空間と時間を切り取ることを厭かず繰り返してきた。冬は雪、春には桜、あるいは鏡のように張り詰めた水面。切り取り、静止した時間の束を再検証するように並べてみる。見たもの、見ていたもの、見続けているものは何だったか。写されたものと、写されたものの外にあるもの。切り取られた瞬間とそこにはない、持続していたその前後の時間。それを想うこと。見るゆえに我ら在り、と。
「写真を複数で見せる状態をつくると、写真と写真の間にいろいろなことがイメージされるのだなとあらためて確認したことがありました。それはアーティゾン美術館の展覧会(「ジャム・セッション 石橋財団コレクション×柴田敏雄×鈴木理策 写真と絵画−セザンヌより 柴田敏雄と鈴木理策」)のためにこれまでに撮影したものを見返して、構成を考えていた時のことです。アーティゾンではクールベの鹿の絵の隣に、描かれた鹿の視線を想起させる雪の写真を展示しましたが、そのセレクトの過程で、雪と桜をつなげて時間の流れを作ってみたくなり、別のシークエンスで『冬と春』というタイトルにしました。写真が断片になれば、逆に見る人がその間を埋めていくだろうと。ふと気がついたら季節が変わっているという経験をするように」
写真を一枚一枚見ていく作業の中での発見とか、そこで伝わってくる連続性のようなものはどういうふうに意識しているものなのだろうか。
「写真という作業は、撮影することと、出来上がった写真から構成することは、実はかなり分かれている仕事だと思っています。いまだにフィルムでやっているせいでもあると思うんですけど。撮影のときには仕上がりが見れないので、あとですごくいろんな発見があります。撮影のときは意識は持続していなくて、もう一回出会い直したような感じでいろいろ思い出したりとか、あるいは隣に、別の写真を持ってきたらつながっていったりとか。以前は同じ場所で何回も撮ったり、引いて撮ったものを寄って撮ったりとか、そういうシークエンスを並べたりしてこともあったんですけど、それらの間をもっと間引いていったところがあって、それで生じた余白みたいなものがどんどん広がっています。どこまで外せるか、どこまで抜けるかというのが一つの目標ではあります」
それは撮影のために見るという行為にとどまらず、まさに「見る経験とは何か」につながっていっている。
「一回カメラに託すということがあって、自分の方はといえば、いろんなことを思い出していたり、以前に来た場所だったら、否が応でも前のときとどう違うかも考えながら撮影するし、フレームした瞬間に何かに似てるっていうようなことも起こってくる。カメラ自体は思い出したりすることもなく、切り取りをやってくれるだけのある意味純粋な装置です。カメラにできるだけ任せるような形の撮り方ができたらいいなって思います。理想として。そこで上がってきた写真をどう組めるか、編集できるか」
作家性の強い写真を作り続けていることと裏腹な考え方のように思えて、ますます興味をそそる。被写体だけ見てみれば、とりわけ独自性はないが、写されたそれは、彼の写真以外の何ものでもなくなっている。
「ものを見てるということにしつこくこだわりたいというのがあって、それを写真で再現できたら面白いんじゃないかというのは継続して思っているところですね。いろいろな要素がこの写真を成り立たせていることはあると思います。カメラが大きいがゆえのピントの浅さだったり、プリントの質の再現性だったりとか。変なものの言い方ですけど、自分が生きていくことでの興味だったり、変化していく気持ちみたいなことと写真自体を一緒に深めていきたいというところはありますね」
今回、カンヴァスに出力した作品も発表していた。ものとして、他の写真作品とは異なり、絵画のようなたたずまいを持っている。
「あれは、ちょうど水面に映った桜の木です。弘前で撮影したものです。一昨年に行ったときに、水面だけ覗くと、8×10(大判カメラ)は(ピントグラスに)逆さに映るんですけど、あの状態で見えていたんです。見てるときからすごく揺らいでて、絵のタッチにも見えて、とても絵画的な印象がありました。実際コンタクトプリントで作ってもそういうのが残っていました。今までは写真は写真ということできちんとしていきたいというのがあったのですが、カンヴァス地に出力してみて、最初に自分が、絵みたいだと思った印象の方向に設えを持っていくとどうなるかなと思って、やってみたんですけど」
ここにも何か新しい見方があったのだろうか。
「絵を見てるときは、やっぱり絵具の物質性とそこに現れているイメージとの、ギリギリの行き来をすごく楽しんでいるものだとあらためて思ったんです。一方、写真というのはその支持体というものはある意味、消えた方がいいものとしてあると思います。紙(印画紙)の表面を見ているのは忘れて、そのイメージに没入させるっていうのが写真だと思うんですけど、それに対して、こちらはカンヴァス地が出ることで、絵を見る見方にちょっとだけ近づくんです。物質性、表面性みたいなところで。絵具の物質感が出てきた方が面白いだろうなというのは少し思いました。表面を見てしまうんです。カンヴァス地が見えて、イメージが見えて、あらためて絵を見るとき、絵具を見ているんだということはすごく感じました」
クールベやセザンヌ、モネ、ボナールの作品を見ながら、そのモティーフや世界観を写真で追ってきた鈴木理策だが、また一歩、絵画に近づいたのだろうか。セザンヌやモネら印象派、ポスト印象派の画家たちは写真の発明のあと、絵画の新しい可能性を探ったわけだ。
「写真家側も描くんですよね。カルティエ=ブレッソンのヌードのデッサンはレベルが高いと思うし、アーヴィング・ペンも描いてるし、マン・レイも。でも、絵の側から返り討ちにあってるかな」
ラルティーグはずっと画家になりたかったけど、結局、写真家で大成功して、でも晩年まで画家への道を諦めなかったですね。いずれにしても写真家や画家は見ることを極めようとする仕事ですから。
「大判カメラにレンズをセットして、被りの布の中で、光を追いかけて、それがピントを合わせる磨りガラスの上でキラキラキラキラ光っているのが本当に綺麗なんです。大きな三脚立てるから、画家がイーゼル立ててるみたいでしょ。8×10の画面はA4サイズくらいありますから。そのときの喜びというか、心地よさはありますよね」
心地よく、感動しながら、制作しているということだろうか。もっとクールにやってると想像していた。あるいは苦しみながら。
「感動して制作していると思いますけどね。だから、同じ場所での似たような写真がいっぱいあるんですよ。同じ場所で同じように写真を撮っている。撮ったことを忘れてしまってて、その都度感動しちゃってて。これ以前、撮ったから、いいやっていうのはないんです」
鈴木芳雄|Yoshio Suzuki
編集者/美術ジャーナリスト。明治学院大学非常勤講師。雑誌「ブルータス」元・副編集長(フクヘン)。共編著に『村上隆のスーパーフラット・コレクション』『光琳ART 光琳と現代美術』『チームラボって、何者?』など。雑誌「ブルータス」「婦人画報」「ハーパーズバザー」などに寄稿。
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