屈託のないキャラクターがカラフルな色彩で描かれていればいるほど、目には見えない奥行きやある種の虚無感がその場を支配する。人生は無意味で無価値なのではないか。いや、無価値ではあるけれど、意味がないわけではない。どちらにしても、美は厳然として存在するし、それをめぐる心の動きが制作に駆り立てるのである。
TEXT BY Yoshio Suzuki
copyright the artist
courtesy of Tomio Koyama Gallery
夜の街をクルマで走る。夕方と夜の間。空は蒼く、街には明かり。いくつもの人工的な光が照らす。状況としては珍しくもなんともない。構図的には映画やテレビドラマのシーンのようである。ボンネット側にカメラを据え付け座席に向ける、フロントガラス越しに運転席と助手席に乗った2人の顔、表情が見える。
2人とは言ったけれど、助手席にいるのはTシャツを着たブタである。けれど、ブタは普通、服は着ないし、助手席にも座らないだろう。しかも顔が透明で、ということはブタでもないし、誰かがブタのお面を付けているわけではない。透明な顔に光が当たって、ヘッドレストに影ができている。顔がダブっている。
運転しているのは人間のようでもあるが、サルなのかもしれない。彼も服を着ている。バラの花柄のジャケットだ。この画家の絵には、仮面をつけた人間や動物化した人間、あるいは擬人化した動物が登場する。
描く題材が個人的なものから始まったとしても、やがて汎用的なものに到達させるということ。そのためには、自画像的な人物が登場する閉じた物語ではなく、普遍的な物語として成り立たせなければならない。人は常に何らかの仮面(ペルソナ)をつけて生きている。
現実的な世界にありそうなことやもの、特定の時代性を示す記号はすべて捨てられている。数少ない情報の一つとして、このクルマが右ハンドルであることから、ここはクルマが左側通行の国または地域であろうということくらいだ。
この絵を描いた倉田悟は1991年、東京生まれ。子どもの頃から漠然と画家になりたいと考えていたという。2014年、武蔵野美術大学造形学部油絵専攻を卒業後、ベルリン芸術大学へ協定留学。2017年武蔵野美術大学大学院造形研究科美術専攻油絵コース修了。主な個展として、2016年「アジワルラの思い出」(トーキョーワンダーサイト渋谷)がある。2020年11月、武蔵野美術大学 FALでの個展「Weird Void」をギャラリスト小山登美夫氏が見たことで、今回の展示が決まった。
夕刻(朝焼けなのかもしれないけれど)、都会ではない道(複雑でない背景からそう思う)を歩く犬と飼い主(なぜ、飼い主と思うのだろう)。彼らは帰宅を急いでいる(もしかしたらこれからでかけるのかも)。逆光で描かれていること、それに彼ら自体、絵を見る側には媚びることがない。
鮮やかな色、作られたコントラストからは現実と非現実が保留にされてしまうがおそらくは非現実の方向に導かれていくのだろう。描かれているものは複雑ではないけれど緻密、有機的なものなのに、なぜか襲われる虚無感。親しみやすくもあるようで、近づけば遠ざかるのはわかっている。ストーリーに吸い込まれる。写実的なものこそが、詳細の行き届いたストーリーを生むわけではないなどということを我々はとっくに知っている。
そして、そのストーリーは自分のものかもしれない。というのも、絵の中に描かれた人物がどこかの誰かである、とする単純な考え方はちょっと前のものである。コンピューターやテレビゲームが出現して以降の時代にいる我々は絵の中の人物は自身のアバター(化身)かもしれないという見方が身についている。自分を投影した彼/彼女が画面の中にいて、常に旅をしていて、生活をしていて、ときに闘っている。
あるいはこれもだ。分割された画面の中の全員がこちらを向いている状態が描かれている。コロナ禍以降、リモートミーティングを日常生活に取り入れてしまった我々は、この中の者たちは一斉に、こちら、絵の鑑賞者側を見ているのではない。この何人の中のどれかが自分であり、対面での会議を模していて、それを二次元のモニター画面の中に展開図的に表示している。そんなことにすでに慣れてしまったからである。
展覧会タイトル「Ba/u/cker La/u/cker」にはいくつもの意味が含まれている。まず、英語のように見せかけて日本語でもある。「馬鹿落下」。そして、英語は4つ単語が入っている。Backer, Bucker, Lacker, Lucker 。言葉遊び的に読み解くと、後ろ向きな人、金の亡者(buckにはドルという意味がある)、欠落している者、幸運な奴・・といったところだろうか。
美術における過剰な商業主義に対するアンチテーゼとして一つの像を発想したのだそうだ。そして、それを仮託したキャラクターがこれである。卵はビギナーであることを示し、また、マザーグースに出てくるハンプティ・ダンプティのイメージが結合してこうなった。
いまさらの話になるが、絵は世界の一部を切り取って、そこに収めるための道具であることは確かである。しかし一方、絵はそのためにだけに存在しているわけではない。倉田が絵を描くのは世界を収めるためではなく、自分のイメージした世界をそこに繰り広げる手段のようだ。そして、作品を作りながら、自分が考えていた以上のことを絵が提示してくれることを待っている。その絵の方から、それを描いている理由を伝えてきたとき、到達できる場所がある。
夜の街に落ちていく卵の絵。これ以外にも、絵の中に描かれている時間帯はほとんどが、夕刻から夜、明け方だった。時代性は排除されているけれども、時間帯は刻印されている。ある展覧会で、倉田の夜の絵を見た友人がこんなことを言ったという。
「展覧会を見た帰り、夜のドライブがめちゃくちゃ良かった」
助手席にブタは乗せていなかったと思うけれども。
鈴木芳雄|Yoshio Suzuki
編集者/美術ジャーナリスト。明治学院大学非常勤講師。雑誌「ブルータス」元・副編集長(フクヘン)。共編著に『村上隆のスーパーフラット・コレクション』『光琳ART 光琳と現代美術』『チームラボって、何者?』など。雑誌「ブルータス」「婦人画報」「ハーパーズバザー」などに寄稿。
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